◇イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であることの「11:最初のしるし」は、名もない家庭の婚礼の祝宴であらわされた。その婚礼の途中でぶどう酒がなくなってしまう。人生においても、いつまでもあると思っていた喜びや愛が、突如さめてしまう時がある。そんな時、私たちは母マリアがしたように、「3:ぶどう酒がなくなりました」と主イエスに訴えるのである。しかし主は、「4:婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と拒絶された。これは全生涯を神の支配に委ね、決断と行動の時を静かに待つ者の言葉である。しかし拒絶された時、マリアは召使いたちに「5:この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(文語訳「何にてもその命ずるごとくせよ」)と言う。窮状を訴えて救助を願い、それが拒絶された時、あきらめたり、すねたりするのでなく、むしろ「みこころのままに」と祈る者へと変えられていく。
◇「6:そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった」。「清め」とは律法の規定に従って、大量の水で身体などを洗うこと。清くあれと強制することは人を萎縮させ、それを実行できる人と出来ない人とを隔てる。主イエスは、そのような裁きとつまずきの器だった水がめに水をいっぱい入れさせ、その水を喜びの酒に変えた。どんな荒野を行くときも、キリストを中心に、「何にてもその命ずるごとく」従う人生を歩むなら、水がぶどう酒に変わるような、喜びの変化が起こる。
◇しかも後になるほど良い。宴会の世話役が花婿に言った。「10:だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。キリストと共に生きる生涯には、終わりほど良いという事態がある。人生の終わりに天国への道があり、歴史の終わりに世界の完成がある。終わりほど良いのだ。
◇世話役はこの事態を不思議に思ったが、「9:水をくんだ召使いたちは知っていた」。キリストが彼らに命じられたのは、大量の水くみというきつい地味な仕事だった。なぜこんなことが必要なのか、意味がないようにも思えた。しかしそれをなし終えたときに、大いなる奇跡が起こる。これは主の業に仕える教会の奉仕に似ている。地味なきつい奉仕かも知れないが、あの水汲みの僕たちの働きを、喜びの出来事に変えて下さった主が、それらを「終わりほど良い」喜びと祝福に変えて下さるに違いない。
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