◇本来のマルコ福音書は下記の16章8節で終わっていた。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。本当に神の業が起こってそれを全身で受けとめた時、人はこのような反応を示すのではないか。それに続く9節以下は後の追加と言われる。教会の伝えてきた大切な言葉だが、「信じなかった」という言葉が繰り返される(11、13、14節)。偉大な復活の出来事も、それ自体では信仰を生じさせない。恐れだけだ。
◇復活の主に直接出会って変えられたマグダラのマリアと二人の弟子たちは、仲間たちに報告するが、彼らは「信じなかった」。直接見なければ信じない人々に、主は「14:その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」。ヨハネ20:29では主がトマスに言われた、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」。信じるとは、信頼に足る事実に対して、納得して自然に生じる感情などではない。それは「信じよう」とする人格的な決断だ.「信じられる」から「信じる」のではない。「信じること」を決断し、選びとるのだ。
◇だがその決断は容易に得られるものではない。信じることは疑うことより難しいかも知れない。しかし疑う心には苦しさが伴う。主イエスは「信じなかった」人々をそのままにしておかれない。信じないで恐れに取りつかれている彼らに現れ、信じる者に変えて下さった。そして今も「信じる人は幸い」との言葉を実現するために、信じられないでいる私たちを訪れ、私たちの心の外に立って呼びかけて下さる。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3:20)。これを描いたホルマン・ハントの「世の光」という絵では、固く閉ざした戸口の外に主イエスが光をかかげて立ち、戸が開くのをじっと待っておられる。
◇「信じなかった人々」はキリストの忍耐と神の愛によって「信じる人々」とされ、さらに「15:全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との派遣を受けた。私たちもキリストの呼び声に心の扉を開いて、信じる者に変えていただき、偉大な神の御業を伝える者としての派遣を受けよう。遭わされたそれぞれの場において、「信じる」ことの幸いと喜びを宣べ伝え、分かち合っていこう。
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