◇五旬祭(ペンテコステ)のこの日、失意のどん底にあった弟子たちに聖霊がくだり、彼らは神の言葉、福音を語り出した。ここに世に教会が誕生した。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ…」などの記述は現実的とは思いにくいが、歴史学者は言う。「この日、確かに何かが起こった。何かが起こらなければ、今日全世界に教会が存在する説明がつかない」。
◇聖霊は旧約では「神の霊」と呼ばれ、普遍的に存在する神の人格的支援であった。バビロン補囚に連れ去られた預言者エゼキエルはある時「主の霊」によって連れ出され、「枯れた骨」が満ちた谷を見させられた。それは人間と生命の残骸である。私たちの周囲にも中にも、おびただしい数の残骸が散らばっているのを見る。人生の残骸、青春の残骸、家族の残骸、友情の残骸、幸福の残骸、平和の残骸…。神はエゼキエルに、「これらの骨は生き返ることができるか」と問うが、彼は「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えるしかない。
◇それでも私たちは、この残骸に満ちた時代の中に、失意のどん底にこそ、神の人格的な支援である聖霊が注がれることを信じる。弟子たちに福音を語り出させ、世界に教会を生み出させたと同じ聖霊が再び注がれて、新しい創造が行われる。神はそのようにして、私たちの歴史の中に共にいて、働きかけて下さる方である。それゆえにこのような状況の中でも、教会は福音を語り、洗礼と聖餐の聖礼典を執り行っている。
◇私たちは現実から目をそむけずに、散乱する残骸を見ている。しかし信じているものはこれと違う。これらの骨が集まって互いに組み合わされ、筋によって結びつき、肉をまとった人間となって話したり歌ったり踊ったりする。そして神を信じ、讃美する人間となることを信じる。そのことはキリストの復活をもたらした神によって実現する。神は枯れた骨にもう一度命の霊を吹き込み、生きるものとして下さる。私たちは聖餐においてキリストの命を受ける時に、この事の実現にあずかると信じるのだ。
◇聖霊を受けたペトロが説教を語り、それに応えて多くの者が仲間に加わって以来、教会は全世界に拡大していった。阿佐ヶ谷教会の80年を振り返り、また世界の教会の歴史とそこに召されて集う人々の生きた証しを見るにつけ、私たちはここに神の業、聖霊の働きを見ると言わざるを得ない。この教会のいのちであり、世界の希望である聖霊を新たに受けて、信仰の旅を続けよう。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。
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