阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年6月)   
◆2004.06.27 聖霊降臨節第五主日礼拝
「渇かない生きた水」 
ミカ書4:1-7
ヨハネ福音書4:7-15
 牧師 大村 栄
◇主イエスは伝道旅行の途上、「4:サマリヤを通らねばならなかった」。迂回できなかったのではない。「神の摂理」を表す言葉である。私たちも人生において「~を通らねばならなかった」という事態がある。

◇そうやって足を踏み入れたサマリアの町で、イエスは旅に疲れて「ヤコブの井戸」のそばに座っておられた。「正午ごろのことである」。そこへサマリアの女が水をくみに来た。日の高い暑い時間に水汲みをする女には、何か事情があるらしい。「7:水を飲ませて下さい」というイエスの求めに、彼女は「9:ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして・・・」と拒絶する。主は「10:生きた水」という言葉で話を展開しようとされる。「14:わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。しかし彼女はそれらの言葉を理解できない。

◇主は唐突に言われた、「16:行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。かつて「18:五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」彼女にとって、これは突き刺す言葉だ。不品行な女と言われていたろう。炎天下に水を汲む理由もここにあった。人の暗い過去を話題にする発言は、多くの場合人の心をえぐるだけだ。それを口にするには、その人をとことん受け入れていく覚悟が必要。キリストには彼女のために、またすべての人のために命を捧げる覚悟があった。そういう方との対話を通して、彼女は自分自身の姿を直視した。私たちもキリストの光に照らされて自分に目覚め、同時に神を必要としている自分自身を知るのである。神の前に真剣にひざまずき、神の赦しと慈しみの恵みにあずかることが私に必要不可欠だ。そのために本当の礼拝をしたい、そういう求めに到達する。

◇彼女はそのための礼拝の場所を問い合わせた。「20:わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。一体どこでするのが本当の礼拝なのか・・・。彼女が知りたいのは目に見える神の居場所だ。しかしキリストによって、礼拝の場所はもはや限定されなくなった。「24:神は霊である」から目に見えないが大気のように全地に満ち、息吹となって人を生かす。この「24:霊と真理をもって」捧げる礼拝ならぱ、どこでも誰でも行なうことを可能にするために、自分の命を投げ出された方が今サマリヤの女の目の前にいる。十字架と復活の主こそが、生ける神殿なのである。


                                    
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◆2004.06.20 聖霊降臨節第四主日礼拝
「約束の霊を注ぐ」 
出エジプト記33:12-19
  ヨハネ福音書16:4b-15 
  伝道師 川俣 茂
◇主イエスの置かれている状況は次第に変化していた。しかし、ペトロら他の弟子たちは主のことより、自分たちがどうなるのかばかり、しきりに気に掛けていた。

◇主が弟子たちの前から姿を消すことは、つまり十字架での死は、実は有益なことであった。それは一つには十字架の後にならないと聖霊がやってこないからである。

◇聖霊は信じる者に対してだけではなく、「世」に対しても働くものである。罪について、義について、裁きについての世の誤りを明らかにするものである。我々は自分が絶対であると思ってしまうことで、「信じる」ということを拒否してしまいがちである。しかし、聖霊はそれが罪であるということを明らかにする存在なのである。

◇聖霊の働きは信仰者にとっては直接的なものであったとしても、「世の人々」にとっては間接的なものである。なぜなら、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」(14:17)からだ。しかし、ここに信じる者の世に対する責任の大きさが示されているのだ。

◇聖霊は「慰め主」や「弁護者」、「真理の霊」と呼ばれている。時が経てば、聖霊は弟子たちを、そして人々を導き、真理を知る知識へとますます導いていく。と同時に、聖霊は必要なものを必要に応じて与え、信じる者の歩むべき道のすべてを教え、示し、導いてくださるのである。

◇聖霊の働きは、キリストを基にした働きである。父なる神は聖霊を通して、この世に対して神を指し示す存在である。神は御子に贖いの権威を与えられた。それゆえ、父・子・聖霊は互いに連関し、時には他の任務・職務を果たすこともあることになるのだ。

◇しかし、実際問題として、聖霊についてはなかなか理解しにくく、説明しにくい。これにはリアリティーの問題が伴っているように思われる。しかし主は7節にあるように、聖霊を我々に送るという「約束」をしている。我々の信仰には「約束を信じる信仰」という一面もあるのではないか。旧約でいうならばアブラハムがそうであり、モーセがそうであった。「約束に生き、約束に生かされる」我々である。その約束を信じているからこそ、リアリティーそのものは問題ではなくなっていくのだ。

◇約束の霊は知らず知らずのうちに、何らかの形で我々に注がれている。我々が生きた神と出会い、信仰に生きるようになることこそ、聖霊の導きによるものである。その「約束」を信じる者であり続けたい。


                                    
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◆2004.06.13 全家族礼拝
「野の花・空の鳥を見よ」 
 マタイ福音書6:25-347 
  牧 師  大村 栄
 
◇山道を歩いて、森の奥などにきれいな花 が咲いているのを発見する。もしかしたら 誰にも見られないかもしれないのに、一生懸命きれいに咲いている。私たちは「何を着ようか」と繰り返し悩むが、それは貧しさのためより、人にどう見られるだろう、どう評価されるだろうとの悩みだ。 主はそういう私たちの目を、野の花に向けさせる。山道に咲く花は人に見られるために咲くのではない。誰も見ていなくても神様が見ておられる。そして神様は一つ一つの野の花、空の鳥を祝福の内に生かして下さる。

◇イスラエルでは春になると、野原に美しい花が一斉に咲くが、夏には暑くて一斉に枯れてしまう。あっという間の短い命だが神様はそんな花たちも、栄華を極めたソロモン王よりもはるかに美しく咲かせてくださる。私たちは何も心配しないで、神様に信頼してお任せしておけばよい。

 ◇思い悩むのは「異邦人」のすることだという。それは聖書の神とは別の「神 」を信じている人たち。人間の様々な必要や要求に応じて、それぞれの神様がいる。戦争の時は戦争の神様、平和の時は平和の神様。しかしそれらは神ではなくて、実はそれを求める人間の気持ちそのものなのだ

◇私たちも 「神様、~ができますように」と祈ることがある,しかし「32:あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」。神様は私たちが考える以上に、私自身に必要なものをご存じで、必要なときに必要なだけ与えて下さる。その神様への徹底した信頼を持つことが、「神の国と神の義を求める」というととだ.「33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。

 ◇「木は自分で動きまわることができない.神様に与えられたその場所で、精一杯技を張り、許された高さまで、一生懸命伸びようとしている。そんな木を、私は友達のように思っている」(星野富弘)。色んな心配のある生活であり時代だが、周りからどう見られているかを気にしたり、みんながちゃんと認めてくれるだろうかと気にして思い悩んだり、焦って自分で働きまわらなくても、神様が見ていて支えていて下さる。ここに、こういう形で生きているのは、自分で選んだのではなく、神様によって生かされているのだ。「許された高さまで、一生懸命伸びよう」とすることが、私たちの人生だ。そういう生き方をする私たちに必要なものを神様はすべてご存じで 最善をなしてくださる。「思い悩み」を捨てて、父なる神への信頼に堅く立ちたい。


                                    
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◆2004.06.06 三位一体主日礼拝
「見えない神の見える働き」 
 イザヤ40:12~17 
ヨハネ福音書14:8~17 
  牧 師  大村 栄
 
◇弟子フィリポの願い「8:主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」は古今東西、多くの人の願いであった。「神を見たい」と思うのは私たちの本性である。しかし聖書の示す「見えない」神は、目に見える場所や入れ物に収まらず、「いつでも」「どこにでも」おられる。そして独り子をたまわったほどの愛をもって、私たちをいつでも見守り、どんなときにも支えてくだる。神々の呪いやたたりを気にしている人を見ると、愛の神を知らない惨めな姿に思える。


◇神を見たいと考える私たちに、しかし神は歴史においてただ一度だけ姿を現して下さった。それがイエス・キリストである。私たちはその姿形より生き様を見る。この人は家畜小屋の中に生まれ、難民となってエジプトへ行き、ナザレの貧しい大工の息子として育ち、30才で旅に出る。漁師をしていた若者らを同行者とした旅の途中で、疲れている人を励まし、悲しんでいる人を慰め、虐げられている人をかばい、孤独にたたずむ人の友となった。

◇同時に、そういう人々を犠牲にして肥え太っている権力者から敵視されるようになり、遂には最も恐ろしい刑罰である十字架に処刑されることになった。呪われたような悲惨な生涯だった。しかし聖書は「9:わたし(そういうキリスト)を見た者は、父(神)を見たのだ」と語る。

◇キリストの悲惨は、私たち自身の悲惨への接近だった。孤独や無理解の中に呻く私たちに、神はキリストを通して直接触れて下さった。しかも単なる共感で終わらず、十字架の死から復活して、永遠の生命への勝利の道を開いて下さった。十字架と復活の主イエス・キリストが、見えない神の、唯一見える愛のしるしであると信じる人々によって、キリストの愛に応える愛の実践がなされ、その積み重ねの中に私たちの教会と私たち自身が存在する。

◇これを支えるのが聖霊である。「16:父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。弁護者とは聖霊、神の息吹である。「別の」ということは、イエス御自身が最初の弁護者であったことを示す。主による最大の弁護は、祈りを執り成して下さるということ。「13:わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」。主イエスの名を唱えるときに、キリストを下さった父なる神が、私たちの隣におられ、「いつでも」、「どこでも」、「どんなときにも」、愛のわざを起こして下さることを知るのである。




                                    
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