◇イザヤ書42章途中から続くこの部分全体の見出しは「捕囚の解放」。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」(42:18)と、神の呼び掛けに対する頑迷さを批判されるイスラエル。結果として「22:この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている」というパピロン捕囚をもたらした。
◇しかし神は今日のテキストにおいて、「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(43:1)と言って下さる。頑固に拒絶するイスラエルだが、それでも神にとっては愛するわが子。その名を呼んで、恐れるなと呼びかけ、さらに「4:わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛」と言われる。「宝の民」(申命記7:6)と見て下さるが、そうして頂くための特別な資格があった訳ではない。ただ被造物を愛する創造主の愛、造ったものを造りっぱなしにするのでなく、造った故に愛し、支えて下さる神の愛のゆえである。
◇「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)。「白髪になるまで」だけではない。「3:わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする」。被造物を脅かす最後の最大の敵であった罪と死に対してエジプトに勝る「身代金」であり「代償」である御子イエス・キリストを手放してまで買い戻し、解放して下さる。
◇私たちはこの神の愛の中で生かされてきた。教会は神の恵みの歴史を生きる共同体である。しかし主は言われる、「18:初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」。昔いただいた恵みを思い返すだけなら、それは本当に歴史を担うことにはならない。80周年の今年与えられた教会標語「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6:8)のごとく、未来への派遺を受けねばならない。
◇19:見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」。たとえどんな厳しい現実でも、未来の希望へのきざしはある。ただしそれは、私たちの内側にある可能性ではない。この世界を造ったゆえに、必ず背負い、持ち運び、かつ救ってくださる神による希望である。この神が「見よ、新しいことをわたしは行う」と言われる。
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