阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年7月)   
◆2004.07.25 聖霊降臨節第九主日礼拝
「今や芽生えている」 

 イザヤ書43:1-4、16-21

エフェソ書2:1-10

  牧 師  大村 栄

 

◇イザヤ書42章途中から続くこの部分全体の見出しは「捕囚の解放」。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」(42:18)と、神の呼び掛けに対する頑迷さを批判されるイスラエル。結果として「22:この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている」というパピロン捕囚をもたらした。

◇しかし神は今日のテキストにおいて、「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(43:1)と言って下さる。頑固に拒絶するイスラエルだが、それでも神にとっては愛するわが子。その名を呼んで、恐れるなと呼びかけ、さらに「4:わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛」と言われる。「宝の民」(申命記7:6)と見て下さるが、そうして頂くための特別な資格があった訳ではない。ただ被造物を愛する創造主の愛、造ったものを造りっぱなしにするのでなく、造った故に愛し、支えて下さる神の愛のゆえである。

◇「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)。「白髪になるまで」だけではない。「3:わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする」。被造物を脅かす最後の最大の敵であった罪と死に対してエジプトに勝る「身代金」であり「代償」である御子イエス・キリストを手放してまで買い戻し、解放して下さる。

◇私たちはこの神の愛の中で生かされてきた。教会は神の恵みの歴史を生きる共同体である。しかし主は言われる、「18:初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」。昔いただいた恵みを思い返すだけなら、それは本当に歴史を担うことにはならない。80周年の今年与えられた教会標語「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6:8)のごとく、未来への派遺を受けねばならない。

◇19:見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」。たとえどんな厳しい現実でも、未来の希望へのきざしはある。ただしそれは、私たちの内側にある可能性ではない。この世界を造ったゆえに、必ず背負い、持ち運び、かつ救ってくださる神による希望である。この神が「見よ、新しいことをわたしは行う」と言われる。


                                    
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◆2004.07.18 聖霊降臨節第八主日礼拝
「主を求めて生きよ」 
 アモス書5:4-15
Iコリント1:26-31
 相澤 眞喜 先生
 
◇「いかに生きるか」。これは私たち人間の永遠の課題である。「生きる」拠点をどこに置くかによって、その人の生き方は決まってくる。キリスト者は神との関係を拠点にして、他者との関係(社会)が決められる。

◇旧約聖書を通してすなわちイスラエル民族の歴史を通して、私たち人間の現実の姿を示されたい。まず、イスラエル民族が神に選ぱれたのは、神(主)の愛ゆえである(申命記7:6-8)。また今、私たちが選ばれているのも神の愛ゆえである(Iコリント1:26-31)。イスラエルの歴史は、神にそむく罪の歴史であったように、私たちの今の歴史も罪の歴史である。

◇預言者アモスは文書預言者の最初の人てあり、紀元前750年頃活躍した預言者である。彼はテコアの牧者てあった。当時イスラエルは、南王国と北王国に分かれていたが、アモスが活躍した時代は南も北も平和で繁栄していた。しかしその平和と繁栄は貧富の差を激しくしただけでなく、宗教的堕落と道徳的退廃をもたらした(2:6-8、3:15、8:4-6)。アモスはこうした現実に対して「獅子がほえる」ごとく、神の激しい怒りと審判を宣告した。

◇アモスは「わたしを求めよ、そして生きよ」「主を求めよ、そして生きよ」と神のみこころを語る。「主」とはヤハウェの神である。ギリシア語で人間をアンスローポスという。これはアナ(上ヘ)とプロソーポン(顔を向ける)、つまり神に顔を向け、神と交わることに私たち人間の生の意味がある。「主を求めて生きよ」ということは、私たち人間の神に対して持つ直接的な生の関わり、真実な信仰の本質を表している。私たちが「生きる」ということは、神と共に在ることであり、神なしには「死」があるのみである。

◇主を求めて生きるということは、神の言葉を聞き、祈ることである。イスラエルの堕落、不正、悪は「み言葉の飢饉」である(8:11)。神は義なる神である。従って「主」を求めることは、神の善を求めることであり(5:14)、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ」(5:24)ということである。今私たちは、神に選ばれ救いに与っている者として、この世に預言者的使命を果たして生きる者でありたい。


                                    
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◆2004.07.11 聖霊降臨節第七主日礼拝
「見ないで信じる勇気」 
 ホセア書14:2-8
ヨハネ福音書4:46-54
  牧 師  大村 栄
 
◇主イエスと出会った「サマリヤ女」の証言により、サマリヤ人たちがイエスのもとを訪れ、「41:多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」。それから主は「44:予言者は自分の故郷では敬われないものだ」と自ら言われた故郷へ帰る。ところが意外にも、「45:ガラリヤの人たちはイエスを歓迎した」。これには理由がある。エルサレムでの過越祭において主イエスは奇跡的なしるしを現されたが、「45b:彼ら(ガリラヤの人々)も祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすペて、見ていたからである」。それで彼らは、都会で成功し、故郷に錦を飾るヒーローとしてイエスを歓迎したのだ。聞いて信じたサマリヤ人と、しるしを見て信じたガラリヤ人とが対比されている。

◇そうゆう背景の中で、今日の「役人の息子をいやす」というテキストへ。重い病気の息子を抱える役人は主イエスにすがっていやしを求める。しかし主は役人に、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われた。彼は拒絶されたわけだが、主が言われた言葉を信じて帰っていく途中、「51:僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた」。彼は見ないで信じる信仰が受け止められたのを知った。さらに彼の信仰が家族一同をもキリストへ導くものとなる。「53:そして、彼もその家族もこぞって信じた」。実に困難な家族伝道だが、どんな策を弄するより、まずひとり(あなた)が信じ、それから「53:家族もこぞって…」と展開することを信じよう。

◇しかも主の言われた言葉、「あなたの息子は生きる」は、単に病気が直るだけでなく、生死を越えた真のいのちを生きることを言う。神に与えられた命を、最も忠実に、最も真実に生きることを主イエスは私たちに教えて下さっている。この方の元へ、愛する家族を連れていかずにおれない。

◇「見ないで信じる勇気」は自ずと育つのではない。またそれが正しい信仰だというのではない。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)。復活の主イエスに出会う礼拝において、私たちは見ないでも信じる「幸いな人」に変えられる。息子の病気という不安と重荷をもって主イエスのもとに来た役人が、主の言葉を信じて帰って行く事が出来たように、私たちもここでみ言葉によって、神を信じ、その愛のしるしであるキリストを信じ、神がキリストを賜るほどに愛されたこの世界を信じる者に変えられる。そして希望をもってそれぞれの生活に帰って行くのである。


                                    
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◆2004.07.04 聖霊降臨節第六主日礼拝
「蒔く人も刈る人も共に喜ぶ」 
 ヨナ書4:l-11
ヨハネ福音書4:27-42
  牧 師  大村 栄

◇「サマリアの女」が主イエスと出会って、この方がメシアであると告げに町へ走った後、合流した弟子たちが食事を勧めたのに対して主は言われる、「34:わたしの食べ物とは、わたしをお遺わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」。キリストの「食べ物」とは神の言菜であり(マタイ4:4)、それによって示される神の意志に従い、その計画を実行すること。主は弟子たちに、ここサマリアで自分たちがなすべき事柄について示される。それは神の言葉の伝達、伝道である。

◇弟子たちが「刈り入れまでまだ四か月もある」と言うのは、サマリア伝道は着手したばかりだから、成果を得るには時問がかかるという常識的な考え。しかし主は言う、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」。種を蒔いた途端に実ったのではない。種蒔きと刈り入れとは、直接的な因果関係にないことを言っている。「涙と共に種を蒔く」(詩編126:5)ような希望を持ちにくい種蒔きも、因果関係を超えた別の要素によって「喜びの歌と共に刈り入れる」という事態が実現する。刈り入れにたとえられる伝道だが、私たちがその前提と思っている種蒔きは、私たちの労苦する分野ではない。38「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れる」ことを託されるのである。

◇ヨナは日除けになっていたとうごまの木を神が枯らせてしまったので「死ぬ方がまし」と嘆く。すると神が言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならぱ、どうしてわたしが、この大いなる都ニネペを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」(ヨナ書4:10-11)。とうごまの木やニネペの12万人だけでなく、世界中のすべての命一つ一つに、これを「惜しまずにいられない」という神の慈しみが注がれている。

◇世界に注がれた神の慈しみを感謝し、そこに展開する神の御業を発見し、それを世界の人と分かち合うことが、「刈り入れ」と表現される伝道である。神によって種蒔かれ、豊かに実っている作物を刈り入れることだけが、私たちに求められている。伝道によって多くの人がその与えられた命を正しく受けとめ、感謝して生きることが出来るなら、「蒔く人も刈る人も」、すなわち神も神に用いられる人間も、「共に喜ぶ」という素晴らしい時が到来するのだ。


                                    
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