◇詩編19編には前半【自然による聖書】と、後半【言葉による聖書】の「二つの聖書が含まれている」(内村鑑三)。前半の自然を通して見る神の御業は、「話すことも、語ることもなく/声は聞こえ」ないという沈黙した状態だが、それでも「その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」と讃えられる。人間の言葉を超えた神の栄光の輝きが世界に満ちている。しかし私たちは、人間の限界と弱さゆえにその隠れた言葉を聞き取ることがでずにいる。サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」(1963)が歌う世界である。
◇聖書の言葉も「空しい」と考える人がいた。大杉栄は17歳の時(1902年)に海老名弾正牧師から洗礼を受けた。しかし日露開戦以後、右傾化する社会の流れに教会も呑まれていくことに失望して、社会主義運動に身を投じていく。その際に大杉は、「初めに行為ありき」と言った。ヨハネ福音書の「初めに言ありき」に言う「言」を、時代の流れに太刀打ちできない無力な神の言葉と取ったのだ。言葉を超えた神の栄光の輝きが世界に満ちているのを信実に聞き取ることができず、性急な行為に走ったり、空しい言葉に溺れたりする私たち。
◇このような私たちに対して、神は後半に言われている【言葉による聖書】を下さった。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える」(8-9節)。「律法」に象徴される主の言葉は本来、心に喜びを与えるものだった。しかしそのことを素直に受けとめられない人間の罪の実態があって、律法を人をおとしめる裁きの器にしてしまった。そこで【自然による聖書】と【言葉による聖書】の両者を正しく結ぶものが必要になった。それが【命の言葉】としての主イエス・キリストである。「初めに言があった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)。
◇自然の中に満ちている神の言葉を聞き取れない私たちに、神は律法の言葉を与え、しかし言葉を曲げてしまった時に、律法を超えた生きた言葉としてのイエス・キリストをお与え下さった。「まことの言葉」として世に来られた主の言葉と行いを通して、私たちはもう一度、世界の沈黙の中に満ちている愛と慈しみにあふれる「神の栄光」を見出したい。そして教会の語る言葉に空しさを覚えて背を向けてしまう、第二の大杉栄を生み出さないようにつとめたい。
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