阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年9月)   
◆2004.09.26 伝道礼拝

「秘められた計画」

詩編139:1-18
エフェソ3:14-2

  牧師 大村 栄

 

◇Y.K.さんの誠実な信仰の証しを聞いた。主イエスは苦難の原因を問う弟子たちに、「神の業が現れるためである」(ヨハネ9:3)と告げ、神によって定められた目的がそこにあると言われた。一人一人に与えられた「命の目的」を探求し、実証することが私たちの人生の課題である。「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(詩編139:13)。私たちは目的を持って造られた神の被造物であり、私たちは神のものであるから。

◇「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる」(139:1-2)。一挙手一投足まで知られているというのは、少し苦痛な気もしなくはないが、主イエスは「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな」(マタイ10:30-31)と言われる。髪の毛まで数えられるほどに覚えられ、認められている自分を自覚したときに、人生の根底を支えられる平安を感じる。

◇神に知られているということは、神に期待されているということでもある。佳枝さんは、ぶどうの実を結ぶ「佳き枝」であることを期待されている。しかし「ぶどうの木のたとえ」には、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(ヨハネ15:2)とある。期待するがゆえの言葉だろうが、実際はどうしても実を結べない私たちがいる。それどころか、罪を抱え込んだままそれを除去できない弱い私たちがいる。これらは「みな、父が取り除かれる」のだろうか。

◇しかし神は正義の神であると同時に、それ以上に愛の神であった。ゆえに、実を結ばない枝を取り除くことを、身代わりを立てることによって免除し、世界の罪を赦すことを決断された。その身代わりとなったのがイエス・キリストの十字架だった。「実を結ばない枝」の代わりに、主イエスが「取り除かれ」て下さったのだ。

◇聖書の福音は、切られる「恐れ」よりも、つながっている「平安」を告げる。つながる枝とするために身代わりとなった方への感謝を告げる。エフェソ書は「キリストの愛」と呼んでそれを賛美する。「あなたがたが