阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年10月)   
◆2004.10.31

「神はわがやぐら
  -宗教改革記念日に-」

詩編46 
ローマ書3:21-28

  牧師 大村 栄

 

◇1517年の今日10月31日、マルティン・ルターによって始まった宗教改革の主張の原点は、「信仰義認」の教理である。「義認」、すなわち神の前に義しいと認められることは、私たちにとって極めて大切な事柄だ。旧約聖書はそのために「律法」を守ることが必要と説く。律法の原点は「十戒」だが、後にこれが膨大なものに拡大した。主イエスはそれらを、神を敬い人を愛することの二つに集約した。

◇しかし律法そのものが私たちを救うのではない。「隣人を愛せ」と言われてむしろ「愛せない」自分を知る。律法は自分の罪の姿を映し出す鏡だ。鏡には人を美しくする力がなく、むしろ不安にすることが多いように、律法にも人を変える力がないばかりか、罪悪感を与えるのみである。

◇だから人類の救いは、律法とは別の方法で実現されなくてはならない。「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ローマ3:21)。ルターは大学で詩編とローマ書の講義をしながら、「神の義」がいかなる行為にもよらず、当然免罪符購入にもよらず、ただ「信仰のみ(ソラ・フィデ)」によって与えられるものであると確信し、ここに宗教改革の理論的拠点を築く。

◇「信仰義認」はこのように、人間の内側に根拠を見ないで、徹底して我々の外側に救いを見出す。「22:イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」である。人の行為や功績によらないだけでなく、常識や判断にも、さらにはこの世の様々な因果関係にもよらない全く新しい「恵み」の規準がここにある。私たちは自分たちの内側に希望を掲げ、それにすがってきたが、失望も繰り返してきた。頑張っても報われない、忍耐しても改善しない。しかし私たちは信仰によって、外側に希望を見出すことが出来るのだ。

◇詩編46:11には「力を捨てよ、知れ、わたしは神」とある。「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」ようなときに、あらゆる世の思いを超えた神の臨在が、世界と個人の最後にして最強の支え、「砦の塔」となるのだ。この詩編を歌った讃美歌267「神はわがやぐら」はルターの作詞作曲による。詩人ハイネはこれを「宗教改革のマルセイエーズ(革命歌)」と言ったという。258番もルターの作詞。その3節「おのれの業には少しも頼らず、ひたすら恵みの力をたのみて…」。そのようにして生きることを志すとき、私たちは私たちの外側に神の恵みが充ち満ちていることを知るであろう。


                                    
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◆2004.10.24

「わたしたちの本国は天にある」
<在天会員記念礼拝>

エレミヤ書29:1,4-14   フィリピ書l3:12-21

  牧師 大村 栄

 


◇パウロはフィリピの人々に、「目標を目指して」(3:14)生きることを勧めつつ、次のように言う。「12:わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。パウロが勧めるのは、自らの動機に生きる者でなく、神の招きと選びの中に身を置く「捕らえられた者」になれということなのだ。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。


◇そのことを20節では「わたしたちの本国は天にあります」という言葉で言う。外国に派遣される外交官を連想する。自分の意志ではなく、本国の選任と派遣によって任地に赴き、そこで本国の徳を高めることを使命として働く。時が来たら本国に召還され、新たな任務を与えられる。私たちはそのような神の選びと派遣を受けて、今ここに生かされている。

◇しかしそこが、いつも都合のよい場所とは限らない。針のむしろのように思える場合もある。エレミヤ書29章はバビロンへ捕囚として連行された人々への神の言葉。「7:わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」。厳しい捕囚の地であっても、そこの人たちが時には敵に思えても、彼らのために祈れと命じられる。そのような使命をもって生きるのが、本国から遣わされて今ここに生きる人々の使命である。

◇そういう使命感なしに、自分の意志や周囲の圧力だけで人生の選択を重ねて生きる生き方について、パウロは「19:彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と、「18:涙ながらに」語る。そういう生き方から、真の命の目的を見出すものとされることが、すなわち信仰によって生きるということである。

◇今日はそうやって生きて死んだ方たち、在天会員を記念する礼拝。大宮溥先生が、「ヤコブのはしご(創世記28章)のようだなあ」と言われた324名の「在天会員氏名」リストがあるが、本国を天に持つとは、死後の事柄だけに関わるものではない。横の世界に生きる私たちに、本国を天に持つことによって、神との交わりという新しい縦の世界が今ここに開かれる。縦の世界を確信する者は、遣わされた横の世界に神の器として誠実に生きる。この縦と横を結ぶところにキリストの十字架が立つ。


                                    
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◆2004.10.17 全家族礼拝
< 「恐れるな」

マタイ福音書10:26-31
第1ヨハネ4:16-21

  牧師 大村 栄

◇マタイ福音書10章は使徒たちを伝道に派遣する場面。彼らにふりかかる苦難が予告されるが、三回も「恐れるな」と励まされる。そして恐れないでいられる三つの理由が示されている。その第一は、「26:履われているもので現されなものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という事実。人々に拒絶されようと、神の真理はやがて必ず明らかになる。

◇第二の根拠は、神を信じる人は、本当に一番恐れるべき方を知っているということ。「28:体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。体が死ぬことよりもっと重大なことがある。「28b:むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。死を越えたところを支配する神こそ恐れるべきであって、それに比べれば、他の何ものも恐れるに足らない。

◇そして第三に、神さまは私たちのすべてを見守り、支えていてくださるから、恐れる必要はない。「29:二羽の雀が一アサリオンで売られている」。二羽でやっと値が付く価値の低い食用の雀。「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。生まれる時も死ぬ時も、神が定めておられる。すべてが覚えられ、見守られているのだ。

◇このようにキリストの弟子たちは、真理を生きる者としての確信に満ち、本当に恐れるべき神だけを恐れ、すべてを見守って下さる神の愛に信頼しつつ、その愛を証言する者として世界に出ていった。弟子たちのあとも、多くの人々が伝道のために世界中で活動した。日本には明治時代になって大勢の宣教師が来日した。真剣に神の愛を語る彼らの姿に心打たれて洗礼を受けた若者の一人が、当教会の創始者平岩恒保先生。

◇私の通った幼稚園(父が園長)には、外国人宣教師の子供であるケニーちやんがいた。彼は在園中に白血病で天に召された。彼の両親は遠い日本の教会のために働く生活の中で、大切な息子を亡くしたのだ。神の愛を世界に宣べ伝えるために失われた幼い命。しかし雀一羽の命まで覚えて下さる神が、死んだ後も必ず見守って下さる。体が死ぬことよりもっと恐ろしいことがあって、そこを神が愛をもって支配しておられる。だから「恐れるな」と言われるとおり、恐れずに伝道し続けたのだ。

◇「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(第1ヨハネ4:18)。「完全な愛」は神の愛だ。私たちもその神の愛に支えられて、それぞれの遣わされる場に、勇気と信頼をもって出て行こう。


                                    
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◆2004.10.10  神学校日
「何事にも忠実であれ」

創世記39:1-6
ルカ福音書16:1-13

 東京神学大学助教授  中野 実 先生

◇聖書の言葉は私達を活かす命の言葉である。私達の魂は神の御言葉という霊的な食べ物によって養われる。しかし、必ずしもおいしい食べ物であるとは限らない。聖書がもっとおいしい食べ物ならば、キリスト者はもっと増えるのではないかと言われる。

◇聖書の持つ「躓き」という要素。それさえなければ文字通り命の言葉となるのか。しかし「躓き」こそが、正しく聖書を解釈する契機ともなることがある。例えば今日の箇所である。

◇このたとえ話のどこに「蹟き」を感じるか。8・9節あたりで、不正な管理人がほめられている点だけではなく、その不正な管理人を主御自身もほめていると解釈できる点であろう。しかしこの管理人と私達との間に共通点はないだろうか。更に「抜け目のないやり方」、賢さ・洞察力ともいえるが、それはいったいどういうものなのか。自分の置かれている状況を的確に捉える洞察力。管理人にとっては決定的な時が近づいていた。それは不正が明るみに出る時である。しかしこの人物は迫る危機をごまかすつもりはなかった。確かに私達にも人生を根底から揺り動かす時が迫っている。ある意味、この不正な管理人と同じ状況を生きている。しかし、迫り来る「時」の内容は異なっているのだ。

◇教会の敷居が高いとよく言われる。それだけではなく、信仰の本質からいっても、信仰に生きるということにはためらいを覚えることもある。つまり私達は救いをしっかりと見る勇気に欠けているのではないか。不正な管理人の不正をただ非難するだけではなく、良いものを見出すべきなのでは。

◇良いものとは、迫り来る時にふさわしく行動したということ。私達にとってその質さとは具体的に何であろうか。今という時を賢く生きること、新しい時の到来を知った時、管理人という地位よりも、自らに委ねられているものを利用し尽くした。私達に追っている救いの時にふさわしく生きるというのは、自分に委ねられているすべてをどのように用いていくかである。委ねられているものを自分のものだと考えてしまうことがあるが、私達のすべては神のものであり、私達は管理人に過ぎないのだ。

◇神に愛されている私達は、神の恵みを隣人へと手渡ししていくことによって、それにふさわしく生きることができる。この世は過ぎ去る。しかし神の救いは現に私達のところにもたらされている。ここから私達の新しい歩みは始まっていくのだ。


                                    
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◆2004.10.03 世界聖餐日・世界宣教の日礼拝
「深いかな、神の知恵」

箴言3:13-20
  ローマ書11:25-36

  牧 師  大村 栄

 

◇ローマ書9-11章でパウロは、神に選ばれた民でありながら、福音につまずいた同胞ユダヤ人の問題を痛みをもって論ずる。その終わりの部分に当たる今日の箇所 で、この問題は神の「25:秘められた計画」に関わる出来事だという結論に達した。 「25:兄弟たち、…次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、 一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであ り、26:こうして全イスラエルが救われるということです」。イスラエルの不信仰と いう悩ましい出来事の背後に、パウロは、それによって「異邦人全体が救いに達す る」という計画があることに気付かされた。

◇パウロは同胞ユダヤ人の拒絶を受けたため、向きを変えて異邦人伝道を開始した。 やがてキリスト教はローマ帝国の公認宗教と認められ、さらに16世紀の宗教改革以 後、全世界に福音宣教がなされた。今日は「25:異邦人全体が救いに達する」という 神のご計画を覚える<世界宣教の日>。この原点に「25:一部のイスラエル人がかた くなになった」という出来事があったのだ。神の「秘められた計画」にほかならな い。

◇人々のかたくなさや不従順も、その背後に神の「秘められた計画」があるというこ とは、伝道の困難に直面する私たちに、希望を与える。「31:彼ら(不信仰なユダヤ 人)も、今はあなたがた(ローマの信徒たち)が受けた憐れみによって不従順になっ ていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです」。ここに「今」が 二度出てくる。最初のは文字通りの現在だが、後のは近い将来という意味での「今」 である。今だ実現しないこととは言え、現在にも影響を及ぼして、希望となり力とな る将来。こういう時間の見方を「終末論」という。聖書の終末論は、救いと完成の時 を待つ希望を示す。神は天地の万物を創造し、それらすべてを目標に向かって生かし たもう。創造の目標は万物の救いである。

◇パウロは同胞イスラエルの不従順という問題に悩んだ。これは神の創造の秩序に反 するとしか思えなかった。しかしここにも必ず、神の救済計画が実行されているに違 いないと信ずるのがパウロの信仰であり、パウロにこれを書かせた神の意志である。 私たちも様々な罪の現実に悩み、世界と個人の破れに失望を繰り返すが、必ずや背後 に神の「秘められた計画」があることを信じよう。「33:ああ、神の富と知恵と知識 のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよ う」。


                                    
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