◇聖書の言葉は私達を活かす命の言葉である。私達の魂は神の御言葉という霊的な食べ物によって養われる。しかし、必ずしもおいしい食べ物であるとは限らない。聖書がもっとおいしい食べ物ならば、キリスト者はもっと増えるのではないかと言われる。
◇聖書の持つ「躓き」という要素。それさえなければ文字通り命の言葉となるのか。しかし「躓き」こそが、正しく聖書を解釈する契機ともなることがある。例えば今日の箇所である。
◇このたとえ話のどこに「蹟き」を感じるか。8・9節あたりで、不正な管理人がほめられている点だけではなく、その不正な管理人を主御自身もほめていると解釈できる点であろう。しかしこの管理人と私達との間に共通点はないだろうか。更に「抜け目のないやり方」、賢さ・洞察力ともいえるが、それはいったいどういうものなのか。自分の置かれている状況を的確に捉える洞察力。管理人にとっては決定的な時が近づいていた。それは不正が明るみに出る時である。しかしこの人物は迫る危機をごまかすつもりはなかった。確かに私達にも人生を根底から揺り動かす時が迫っている。ある意味、この不正な管理人と同じ状況を生きている。しかし、迫り来る「時」の内容は異なっているのだ。
◇教会の敷居が高いとよく言われる。それだけではなく、信仰の本質からいっても、信仰に生きるということにはためらいを覚えることもある。つまり私達は救いをしっかりと見る勇気に欠けているのではないか。不正な管理人の不正をただ非難するだけではなく、良いものを見出すべきなのでは。
◇良いものとは、迫り来る時にふさわしく行動したということ。私達にとってその質さとは具体的に何であろうか。今という時を賢く生きること、新しい時の到来を知った時、管理人という地位よりも、自らに委ねられているものを利用し尽くした。私達に追っている救いの時にふさわしく生きるというのは、自分に委ねられているすべてをどのように用いていくかである。委ねられているものを自分のものだと考えてしまうことがあるが、私達のすべては神のものであり、私達は管理人に過ぎないのだ。
◇神に愛されている私達は、神の恵みを隣人へと手渡ししていくことによって、それにふさわしく生きることができる。この世は過ぎ去る。しかし神の救いは現に私達のところにもたらされている。ここから私達の新しい歩みは始まっていくのだ。
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