◇農夫が羊と山羊を分けるように、再臨の主は「最後の審判」において義人と悪人とを選別する。その基準は、その人が愛に生きたか否か。と言ってもそれは努力目標に据える事柄ではない。救いに入れられた人々が、「主よ、いつわたしたちは…」(37)と驚くように、彼らには特に良いことをした自覚がない。キリストの求める奉仕とは意気込んで行う慈善ではなく、毎日の出会いの中で小さな愛の奉仕をすること。
◇左側に置かれて呪われる人々も、「主よ、いつわたしたちは、…しなかったでしょうか」(44)と自覚がない。彼らは悪いことをした訳ではない、ただ愛の業を「しなかった」のである。聖書の倫理は「なした罪」よりも「なさなかった罪」を指摘する。
◇愛の業のリストには、ユダヤ的な死者の弔いが欠けている。それは神に信頼して委ねるべき事柄である。代わりにユダヤ教にはない投獄者への援助が加わる。これには危険が伴う場合もある。真の愛の業は安全の上にあぐらをかいて行うことではない。自らを惜しみなく与える愛。その究極がキリストの十字架への歩みであり、独り子を世に差し出して下さった神の愛である。キリストに倣い、ヒトラーへの抵抗運動によって処刑されたボンヘッファー牧師のように、愛と正義のため命を捧げた人々もいるが、決して真似できそうにない。愛の業に躊躇するそんな私たちは、「呪われた者ども」(41)と審かれねばならないのか。
◇「信徒の友」11月号で小島誠志牧師(前教団議長)が「使徒信条」の「かしこよりきたりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」についてこう書いている。「この審きは…人間のすべてをくまなく点検し断罪する、そういう審きではありません。わたしたちの罪を贖って下さった救い主の審きなのであります。…わたしたちの罪の贖いのため十字架につかれた救い主は、もはやわたしたちの罪を問われないのです。罪のわたしたちの行ったわずかの善に目を留めてくださるのです。わたしたちの中にある善への小さなこころざしを認めてくださるのです」(P17)。この文章の副題は『主はわずかの善に目を留めて下さる』。
◇誰に何をしてやったなどと記憶に残らないような、ごく自然に行う小さな愛の業。そういうところまで認めて、喜んで下さるのがキリストによる最後の審きなのだ。「愛が冷える」(マタイ24:12)時代にあっても、「わずかの善(愛)に目を留めて下さる」主が、最後の正しい審き主として来られることを信じて待つ者でありたい。
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