阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2004年11月)   
◆2004.11.28 降誕前第四主日礼拝
「主の光の中を歩もう」
イザヤ書2:1~5 
ローマ書13:11~14  
  牧師  大村 栄

◇イザヤの預言する「終わりの日」には、「国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない」という平和な世界が実現する。ただしその時すべての人が神の前で、審きを受けねばならない。しかしその審きに私たちはキリストの恵みに包まれ、罪赦されて神の審きに耐える者とされる。「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13:14)。ここに私たちがキリストを救い主と信じる根拠がある。極端に「終わりの日」を強調する傾向に反発するあまり私たちはこのことを軽んじがちだが、確かに聖書は全巻を通して繰り返し「終わりの日」について語っている。

◇「終わりの日に、主の神殿の山(=シオンの丘)は、山々の頭として堅く立ち…」とあるが、こういう預言からシオン(エルサレム)が世界の中心になるというシオニズムの思想が生まれた。しかしそれが、今日世界の最大の苦悩であるパレスチナ問題の原因となったと言わざるを得ない。シオニズムは決して聖書的、信仰的ではない。シオンは世界の中心になるかも知れないが、だとしてもそれは人間が作りあげる事態ではなく、神のなさる御業なのである。

◇パウロはローマ書13:11で「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と宣べる。「時(クロノス)」は「終わりの日」を意味する。その時は「近づいている」。「終わりの日」を自らの手で到来させようとしたシオニズムの失敗を繰り返さなくても、救い主を身にまとって神の前に立つその「時」は近付いていることが聖書によって知らされている。

◇ただしキリストを着る前に脱ぐものがある。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(12)。脱ぐのは古い自分だ。アウグスティヌスは少女たちの歌声が「取りて読め」と聞こえたので自室に戻り、聖書を手に取って開いたところがローマ書13:11-14。これを読んで彼は回心を遂げた。

◇「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(5)とあるが、BC8世紀当時のイスラエルは、光を見出せない国家的危機にあった。のちのシオニズムのように、自力でこの事態を克服しようとする動きもあったようだ。しかしイザヤを通して告げられた神の言葉は、剣を持って立ち上がれではなく、「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」だった。順調だからではない、暗い現実にあっても、そこに光の到来を信じて「主の光の中を歩もう」と言いうる。それがアドヴェントの信仰である。


                                    
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◆2004.11.21 降誕前第五主日礼拝
「正しいさばきを待つ」
ミカ書2:12-13
マタイ福音書25:31-46  
  牧師  大村 栄
 
◇農夫が羊と山羊を分けるように、再臨の主は「最後の審判」において義人と悪人とを選別する。その基準は、その人が愛に生きたか否か。と言ってもそれは努力目標に据える事柄ではない。救いに入れられた人々が、「主よ、いつわたしたちは…」(37)と驚くように、彼らには特に良いことをした自覚がない。キリストの求める奉仕とは意気込んで行う慈善ではなく、毎日の出会いの中で小さな愛の奉仕をすること。

◇左側に置かれて呪われる人々も、「主よ、いつわたしたちは、…しなかったでしょうか」(44)と自覚がない。彼らは悪いことをした訳ではない、ただ愛の業を「しなかった」のである。聖書の倫理は「なした罪」よりも「なさなかった罪」を指摘する。

◇愛の業のリストには、ユダヤ的な死者の弔いが欠けている。それは神に信頼して委ねるべき事柄である。代わりにユダヤ教にはない投獄者への援助が加わる。これには危険が伴う場合もある。真の愛の業は安全の上にあぐらをかいて行うことではない。自らを惜しみなく与える愛。その究極がキリストの十字架への歩みであり、独り子を世に差し出して下さった神の愛である。キリストに倣い、ヒトラーへの抵抗運動によって処刑されたボンヘッファー牧師のように、愛と正義のため命を捧げた人々もいるが、決して真似できそうにない。愛の業に躊躇するそんな私たちは、「呪われた者ども」(41)と審かれねばならないのか。

◇「信徒の友」11月号で小島誠志牧師(前教団議長)が「使徒信条」の「かしこよりきたりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」についてこう書いている。「この審きは…人間のすべてをくまなく点検し断罪する、そういう審きではありません。わたしたちの罪を贖って下さった救い主の審きなのであります。…わたしたちの罪の贖いのため十字架につかれた救い主は、もはやわたしたちの罪を問われないのです。罪のわたしたちの行ったわずかの善に目を留めてくださるのです。わたしたちの中にある善への小さなこころざしを認めてくださるのです」(P17)。この文章の副題は『主はわずかの善に目を留めて下さる』。

◇誰に何をしてやったなどと記憶に残らないような、ごく自然に行う小さな愛の業。そういうところまで認めて、喜んで下さるのがキリストによる最後の審きなのだ。「愛が冷える」(マタイ24:12)時代にあっても、「わずかの善(愛)に目を留めて下さる」主が、最後の正しい審き主として来られることを信じて待つ者でありたい。


                                    
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◆2004.11.14 降誕前第六主日礼拝
「慰めの時が訪れる」
申命記18:15-22 
  使徒言行録3:11-26  
  牧師  大村 栄
  
◇使徒言行録3章は前半で、使徒たちが神殿で、足の不自由な男をいやしたことから論争が生じ、後半でペトロが「神殿で説教する」ことになった。ペトロとヨハネは神殿の「美しい門」で物乞いをしていたその男を「じっと見て」(4節)、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と命じた。すると彼はたちまち立ち上がり、大喜びして神殿に入って行った。彼を不自由にしていたのは足のトラブルだけではない。そこから派生する様々な心理的、社会的問題があったはずだ。世間体を気にする家族や、冷たい目で見る周囲の人々などの愛のない状況で、自らも愛すること、愛されることを放棄していたような男が、使徒たちの「じっと見る」愛の視線を受けて、しかもキリストの「名によって、立ち上がり」なさいと言われたとき、そこに愛の奇跡が起こったのである。
 
◇主イエスの使命は、神への完全な信頼の内に、お互いに尊び合い、生き生きと生きるよう創造されたあらゆる被造物を、神との正しい愛の関係に立ち返らせ、本来のあるべき姿に立ち上がらせることであった。そしてその働きを「使徒」たちに委ねられた。そしてこの使徒たちの働きを継承するのが、私たちの「教会」である。
 
◇ペトロは後半で、この創造の秩序回復のために来られた主イエスを当時の人々が拒絶し、十字架につけてしまったと告げる。しかし神はこの方を死からよみがえらせ、復活の証人となって力づけられた使徒たちにキリストの愛の業を継続させる。「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(19)。イエスを十字架につけた人々だけでなく、神の愛を疑い、悪しき思いに身を委ねてしまった人間が、そこからの方向転換を志すことが「悔い改め」である。そのときに次の20節が実現する。「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです」。
        
◇「美しい門」で物乞いをしていた男は、キリストの愛によって立ち上がった。「そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入っていった」(8)。これは彼が礼拝者に変えられたことを意味する。礼拝はこのように人を生かし、世界を生かす神の言葉が語られ、聞かれる場であり、そこから私たちがそれぞれの場へと遣わされていく原点である。この礼拝に連なる者へと人々を招くことが使徒たちの働きであり、教会のなすべき業なのである。




                                    
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◆2004.11.07 降誕前第七主日礼拝
「うつむいている者と共に」 
創世記13:1-18 
 ガラテヤ書3:7-14 
  牧師  大村 栄
    
◇アブラム(後のアブラハム)は飢饉を避けてエジプトに行った時に、妻のサライ(後のサラ)を妹と偽ってエジプトの王の略奪を避け、自分を守ろうとした(12:10-20)。そんな失敗を犯したアブラムは、甥のロトの一家と共にベテルに向かう。「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。そこはかつて神にすがって出発した原点である。私たちも原点に立ち返るべき時がある。誰にもある共通の原点は誕生の時。そこは自分の選択や決断ではなく、神の選びが行われた地点だ。そこにいのちの原点があることを覚えたい。


◇アブラムとロトはここから別々の道を歩み出す。アブラムは過去の苦い体験から、他者を押しのける強引さがなくなっており、ロトに先決権を与える。ロトは当然「ヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った」。そこは「見渡すかぎりよく潤っていた」のだ(しかしそこには罪の町ソドムとゴモラがある)。ロトが去ったあと、失意のアブラムを主が訪れて言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。それまでは、うつむいていたのだろう。そういう者に主はそっと寄り添い、「目を上げよ」と促す。


◇ロトも目を上げたが(10節)、それは良いものを物色する視線だった。アブラムが目を上げても、目の前に広がるのは荒涼たる荒野のみ。しかし主はそれを越えて「上を見よ」、すなわち「神を見よ」と命じている。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121:1-2)。時を超えて永遠なる神、人生と世界の出発点である神に目を上げるときに、時間の谷間でさまよっていた自分の足元が照らされる。このように神に目を上げることを信仰と呼ぶ。

◇「9:信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(ガラテヤ3:9)。うつむくしかないような時も共にいて寄り添い、「目を上げよ」と促して下さる神と共に生きる生き方に祝福があるとパウロは告げる。アブラハムが、かつてエジプトで失敗を犯したときも赦して下さった神。そういう神に人生の出発点があることを信じて立ち返ったアブラハム。私たちも自分たちのベテル、「主の御名を呼んだ場所」(=礼拝の場)に立ち帰ることを体験したい。この礼拝において仰ぐ神は、私たちがうなだれ、うつむいている時も共にいて下さる。この神を見上げつつ、人生の旅をたどってまいりたい。


                                    
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