◇この箇所に於いて主は「証し」について語っている。証しとは本人の言葉だけではなく、誰か他の人によるものでなけれぱならない。主の証しは父なる神と結びついているが故に、真実なものである。
◇神による証しは主にとって十分なものであった。しかしユダヤ人たちは受け入れず、パプテスマのヨハネが現われた時も結局、その証しを受け入れることはなかった。
◇しかし、ヨハネの為した証しは今日まで続いている。彼の為した証しは人々がそれなりに注意を払えば、救いの道を歩むことができたはずなのだ。
◇ヨハネは「燃えて輝くともし火」であった。しかしユダヤ人たちは「その光のもとで喜び楽しもうとした」。バプテスマのヨハネは燃え尽きた。しかし主は燃え尽きない。燃え尽きないというのは、「燃え尽きない柴」のように奇跡である。主は一見、十字架によって燃え尽きてしまったように見えたが、実際には燃え尽きることなく、この世を、そして人々を照らしているのだ。
◇しかしヨハネの証しは主イエスの証しが指し示すようなものではなかった。なぜなら主イエスは父なる神によって遺わされた方、父なる神から出た方であるからだ。
◇父なる神が子なるキリストを証ししている。しかしこれを正しく理解しなかったユダヤ人の姿がある。神の声を聴かず、神の姿を見ず、神の言葉を自分の内にとどめていなかった故に、まことの意味で神に従い、神との交わりを持つ者ではなかったのだ。
◇ユダヤ人たちは聖書の中に「永遠の命」があると考えて聖書を研究していた。聖書を正しく読んでいれば、聖書が主を証ししているということに気づいたはずである。しかし実際にはそうではなく、聖書が証ししている主イエスが目の前にいるにもかかわらず、敵対的な態度を取ってしまった。
◇「真理とは何か」という言葉は、ピラトの尋問の言葉である。ヨハネ福音書によれぱ、バプテスマのヨハネは「光」について「真理」について証しをする人物であった。ある註解者の言うように、「真理」とは「神の実体」であると同時に、「救いをもたらす福音」であるといえる。
◇「真理」というものが「神の実体」であるならぱ、私どもが先に喜び祝った降誕の出来事は「神の実体」がこの世に到来したことにほかならぬ。福音がもたらされ、神による救いの現実性を示された出来事である。そして人となり給うた主の十字架の出来事によって罪赦され、神の憐れみによって救いへと招かれている。そのことに感謝。
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