2000.4-6


もくじ

 

◆06.25「この世に生きる神の民」民数記22:1-8、ヨハネ黙示録2:12-17
◆06.18「望み見る信仰」申命記32:48-52、ヘブライ人への手紙11:1-3
◆06.11「老人に夢、若者に幻」ヨエル書3:1-5、使徒言行録2:1-13
◆06.04「命の冠」ヨハネ黙示録2:8-11

◆05.28「祈りと命と」申命記30:19-20、第1テサロニケ5:16-18
◆05.21「初めの愛」エレミヤ書2:1-9、ヨハネ黙示録2:1-7
◆05.14「太陽と灯台」マラキ書3:19-24、ヨハネ黙示録1:9-20
◆05.07「歴史の主」ヨハネ福音書20:19-23、ヨハネ黙示録1:1-8

◆04.30「キリストの僕」イザヤ書53:11-12、フィリピ書1:1-11
◆04.23「復活の転換」エゼキエル書37:1-10、ヨハネ福音書20:11-18
◆04.16「主の名によって来る者」マルコ福音書11:1-11、第1コリント1:18-25
◆04.09「永遠の命」ヨハネ福音書17:1-5、第1ヨハネ5:13-21
◆04.02「主を待ち望め」詩編27、ヨハネ福音書16:31-33

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◆2000.06.25 聖霊降臨節第3主日

「この世に生きる神の民」民数記22:1-8、ヨハネ黙示録2:12-17

       大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネ黙示録が書き送られた7つの教会のうち、ペルガモンは一番北にあり、「アジアで長く栄えた最も美しい町」(プリニウス)であった。アレキサンドリアと並ぶ大きな図書館、医術の神アスクレピオスの神殿と薬効顕著な鉱泉等を持つ宗教文化都市であった。しかしヨハネ黙示録は「そこにはサタンの王座がある」(13節)と厳しい表現をしている。異教の神々が祭られ、特に皇帝礼拝が強要されていたことと関係がある様に思われる。

 ◇古代教会がくぐり抜けなければならなかったローマ帝国によるキリスト教迫害の嵐がここで吹き始めていたのである。ペルガモン教会はアンティパスという殉教者(「証人」(13節)は後に殉教者を表す語となった)を出すほどの厳しい迫害を受けながら「信仰を捨てなかった」。嵐の中でも主に従ったのである。

 ◇ヨハネはこの英雄的な信仰を高く評価称賛しているのであるが、同時にこの教会の問題点をも指摘して注意を促している。この問題点をヨハネは「パラムの教え」(14節)と言っている。パラムは、イスラエルの民が出エジプト後40年の荒野の旅をして約束の地パレスチナに入ろうとする直前、モタブの王バラクの依頼を受けて、神の民を呪おうとした人物である(反数記22-25章)。ヨハネはこれを当時の「ニコライ派」(15節)と結びつけている。文脈から、異教の神に捧げた肉を食べてよいかどうかという古代教会の論争に関係するかとも考えられる。

 ◇この問題の根底には、多宗教乱立の中で、キリスト者がどう生きるかという問題がある。使徒パウロはアテネ伝道の際、町に多くの宗教があるのを見て、市民に彼らが信仰心に富むことは評価しつつ、「知られざる神に」という祭壇が示すように、唯一の神を知らない故に不完全であることを指摘した(使徒言行録17:22以下)。

 ◇神はすべての人を造り、生かし、導い一ておられる故に、神の存在と働きは万人に示されている(ローマ1:20)。従って他宗教を通じても神は語り、働いておられる。しかし人間は罪の中にあって、真の神との交わりが断たれている。これより救い出し、神と人との和解を成就されたのがキリストである。それ故われわれは第一に他宗教を全くの迷信邪教とさめつけるのでなく、人間中心の利己主義に対して、霊的真理への目を開くものとして学び合うと共に、第二に全き救いを与え、真の神へとわれわれを導くイエス、キリストに堅く結びつき、主の名を呼びつつ主に従うべきである。

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◆2000.06.18 聖霊降臨節第2主日

「望み見る信仰」申命記32:48-52、ヘブライ書11:1-3

       野崎卓道 伝道師

 ◇ヘブライ書11章は信仰の危機に瀬している者達への励ましの言葉である。私達の信仰生活全体は、長い旅に例えられる。J..ハンヤンの『大路歴程』では、クリスチャンという一人の男が、罪の大きな重荷を背負って、家族と故郷を後にして信仰の旅に出る。彼は紆余曲折を経た後、十字架に出会い、罪の重荷は取り去られ身軽になる。しかしそこで物語は終わらず、そこから天の都目指して長く厳しい信仰の旅が始まる。ヘブライ人への手紙は、まさに天の都を目指して旅の途上にある信仰者への励ましの手紙なのである。

 ◇11章1節の「確信」という言葉は「基盤」とも「保証」とも訳すことができる。ここでは、将来の希望の根拠は信仰である、ということが言われている。さらにその信仰を根底で支えているのは「神ご自身の真実」(11節)なのである。同時に信仰は現在の事柄にも関わる。1節後半の「見えない事実」とは、キリストによってもたらされた救いの現実のことである。私達は信仰によって、その現実の中に生きているのである。

 ◇さらに2節で、実際に信仰に生きた旧約の先達の生涯が記される。彼らは約束のものを手に入れなかったにもかからわず、はるかにそれを望み見て、喜びの声を上げ死んで行った(11:13)。それは、人生の最後に、ネボ山の頂きから約束の地カナンを遥かに望み見たモーセの姿に象徴的に現されている(申命記32:48-52節)。

 ◇目に見えるものは必ずいつかは滅びる。私達は目に見えるものに最大の価値を置くならば、最後には必ず失望して終わる。しかし、私達は信仰によって、世界の根源に目を向けることができる。この世界は神の例言葉によって創造され、今もその存在を支えられているのである。

 ◇今21世紀を担うであろう世代が将来への希望を持てず、刹那的な行動に走っている。私達の社会の土台は根底から崩壊しつつあるように思われる。本当の意味で人間を生かすのは将来に対する希望であるにもかかわらず、私達はどこに将来の希望を見出したら良いのか分からず途方に暮れている。

 ◇V.フランクルは『夜と霧』の中で「彼自身の未来を信じることのできなかった人間は収容所で滅亡して行って」と言っている。将来の希望こそが、私達に今を生きる力を与える。事実、私達は決して揺らくことのない希望の根拠を持っている。それは復活のキリストである。この方こそ私達を生かす真の希望の根拠なのである。

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◆2000.06.11 聖霊降臨祭礼拝

「老人に夢、若者に幻」ヨエル書3:1-5、使徒言行録2:1一13

       大宮 溥 牧師

 ◇五旬祭(ペンテコステ)は、ユダヤ最大の祭である過越祭から50日目の祝日で、元来は小麦の収穫感謝祭であった。主イエスは過越の祭のころに十字架につけられ、彼の地上生活はそこで終ったのであるが、それから50日目の五旬祭の日に、主イエスの弟子たちに聖霊が下り、彼らが力を受けて立ち上り、伝道を再開し、キリスト教会が成立した。この日は教会の誕生日である。

 ◇イエス┬疋キリストが十字架上で死なれた時、弟子たちは失望落胆し、また不安と恐怖に突き落された。3日目に主が復活されて彼らに現われた時、彼らは闇の中に太陽が昇ったように一條の光を見出したのであるが、内面的な確信と力にはならなかった。ちょうど外は太陽の光が輝いていても雨戸を閉ざした家の中は真暗なようなものである。その雨戸が外側から開かれ、家の中の隅々にまで光が射し込んできたのが、聖霊降臨節の出来事であった(使徒2:1-2)。主イエスは「あなたがたの上に生霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(同1:8)と約束されたが、この日にそれが実現したのである。

 ◇ユダヤから見て日本はまさしく「地の果て」である。この地に教会が立てられ、われわれが神の民とされているのは、今も生ける神が聖霊を送って、われわれを生かし、信仰へと目覚ませ、導いておられることのあらわれである。1830年代尾張小野浦の千石舟宝胴丸が嵐に遭って1年近く太平洋を漂流、バンクバー島近くに打ち上げられ、生き残りの三人の青年が、ハドソン湾会社の人々に救助され、世界を一周してモリソン号で日本に送り届けられた。鎖国のなお残る日本は彼らを拒否した(彼らはマカオでギュツラフに会い、最初の日本語訳聖書翻訳に従事した)。彼らを「地の果て」まで送り届けた人々の愛を思う。使徒達やその後継者たちが、「地の果て」まで福音を運んだのは、神はキリストを通じてすべての人を救われたので、それをすべての人に伝えなければならないという使命感からであった。そのような信仰と愛を燃え上らせたのが聖霊である。

 ◇最初の聖霊降臨祭の説教でペトロは、聖霊が下る時「老人は夢を見、若者は幻を見る」というヨエルの預言が実現したと告げた(2:17)。今日2000年という新しい千年紀に入ろうとしているのに、高齢少子化の社会の前途は不透明である。聖霊の光に照らされてこの世界を見る時、神の愛に導かれた世界として、希望が湧いてくる。神の希望の夢と幻を仰いで進もうではないか。

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◆2000.06.04 全家族礼拝

「命の冠」ヨハネの黙示録2:8-11

       大宮 溥 牧師

 ◇今日は「全家族礼拝」で大人も子どもも父なる神様に導かれている「神の家族」であることを心にとめて礼拝を守ります。私は小学校に入る前にはじめて教会に行き主イエスに出会いました。この主は今も私の心の中に生きつづけておられます。また高校1年のとき郷里の小さな教会の創立記念日に、「死に至るまで忠実であれ。そうすればあなたに命の冠を授けよう」(10節)という御言葉のしおりを贈られ、生涯神様を信じて生きようと決心しました。

 ◇この言葉を語られたのは「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」(8節)です。すべてのものの最初におられるのは神様です。そして最後にこの世を造り変えて下さるのも神様です。「一度死んだがまた生きた方」とは十字架について死んだけれど、復活して今も生きておられるイエス様です。自分が神様によって生かされ、神様に帰る者であり、主イエスが共に歩んで下さることを、今の人間はしっかりと知らなければなりません。最近子どもが殺されたり、少年が人を殺したりする事件が次々に起るのは、すべてが自分から、自分中心に動くように考えて、神の愛を知らず神を畏れることがないからです。

 ◇「冠」はオリンピック競技のような競走を勝ち抜いた人に与えられる称賛のしるしです。運動競技は選ばれた人だけが参加しますが、人生の競走はすべての人が参加します。そして生まれた時をスタートラインとして「死に至るまで」、死をゴールとして走りつづけるのです。わたしたちは神様からいただいた命を感謝して大切に受け取り、神様から与えられた自分のコース'自分の勉強、自分の仕事、自分の責任一を一生懸命走ることが大切です。◇競走の途中で、苦しい時もあります。勉強や仕事がうまくゆかなかったり、人とぶつかったり、傷ついたりすることもあります。その時大切なことは、このコースを自分一人で走っているのでなく、イエス様が一緒にいて、共に走り、励まして下さっていることを思い出すことです。マーガレット┬疋フィッシュバック┬疋バウエルという人が『足跡』という詩を書いています。自分の人生の足跡は自分一人でなく神様が共にいて下さる二人の足跡を残している。しかし苦しい時に一人分の足跡になる。それは神様が離れたのでなく、神様が私を背負って下さったからだというのです。

 ◇こうして私たちが人生のゴールに到着すると、神様はわたしたちに「命の冠」を与えて下さいます。これを覚えて走ろう。

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◆2000.05.28 特別伝道礼拝

「祈りと命と」申命記30:19-20、テサロニケ5:16-18

       青山学院大学講師 野村祐之 先生

 ◇小渕前首相が倒れた時、クリントン大統領はCNNのニュースで「私達は彼を祈りの内に覚えます」(We will keep him in our pryer)と話した。祈りはその人の生き方の中心にある。祈りにおいて、神の御前に誰にも言えないことを注ぎ出し、神から新たな息吹きを頂いて生きられるようになるのである。

 ◇私は過去に突然の大病をして、人生の落とし穴に落ちるような経験をした。しかし、その深い所で我々の存在を支えて下さる御手があることを知ったのである。1989年の後半、42才の時に、ある朝目が覚めると息ができなかった。急遽病院に担ぎ込まれて、医者に見てもらうと肝臓が末期状態であり、長くて来年の今頃、短ければ後15分の命だと宣告された。

 ◇それを聞いて、高校の頃の友達が訪ねて来て「俺の肝臓をやるから、お前生きろよ」と励ましの言葉を語ってくれた。その時「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)という主イエスの言葉を思い起こした。その言葉にはっと我に帰り、自分の命は自分だけのものではなく、神よりの「預かりもの」であることを悟った。また、「命を選べ」という申命記30章19前以下の言葉が頭の中を巡った。神は命も死も同じように人間の手の届く所に置かれた。それほどに私達を自由な存在として造って下さった。そして、神は「命の方を選べ」と私達に切なる思いで願っておられる。

 ◇その後、アメリカで移植手術をすることが決まった。アメリカに渡って、ある日曜日に義理の両親が通っていたメソジスト教会に行ってみると、そこには祈りの部屋があった。そこに置かれていた「祈りのノート」の中に、自分が倒れた時から今までの間ずっと目分の名前がそこに記されていることを発見した。自分の気づかない所で、ずっとこの人達は私を祈りの内に覚えていて下さったことに心打たれた。神は私達が祈る言葉を一語一語真に受けて覚えて下さる。祈りは空間だけではなく、時間をも越えて働くのである。

 ◇手術後、痛みの中にありながらも、自分の内に新しい生命の躍動が感じられた。何の見返りもないのに肝臓を提供された本人と家族の愛が一つの形を取って、今ここに支えられている。死と死が出会って新しい命が生まれた。「共に生きている」という強烈な思いが心を捕らえた。人間を支えているのは、IdentityではなくWedentityであることを悟った。

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◆2000.05.21 復活節第5主日

「初めの愛」エレミヤ書2:1-9、ヨハネ黙示録2:1-7

       大宮 溥 牧師

 ◇復活節第五主日は「歌えの主日」と呼ばれる。主の復活の力に触れた者は現実逃避することなく、神の力を讃美する生活を送るのである。

 ◇今日の箇所は当時のアジア県の最大の都市であるエファソに宛てられている。最初に著者は「右の手に7つの星を持つ方」(1節)と主イエスを紹介している。この言葉は、教会がただ地上にあるのみならず、星のように天において輝いているということを意味している。教会は昔から「見ゆる教会」と「見えざる教会」とを区別してきた。確かに教会はこの地上にある限り人間の組織という側面を持ち続けるが、その背後に霊的な目に見えない天にある教会が隠されているのである。そういう教会をキリストは右の手でしっかりとつかんでおられるのである。

◇黙示録の著者は、エフェソの教会が周囲の無理解や迫害のただ中で正しい福音に堅く立ち、真実の教会を立ててきたことを賞賛している(2前以下)。しかし、それが行き過ぎて、彼らがあまりに他者に対して批判的になってしまい、すべての人を愛するという「初めの愛」から離れてしまったことを指摘している(4節)。

 ◇16世紀の宗教改革によって様々な教派が生み出されてしまったが、20世紀になってエキュメニカル運動が起こり「主は一人、信仰は一つ」という点が改めて確認され始めた。自分達がどのように信じているかよりも、自分達が信じている主はお一人であると信じ、主を仰ぎ見て共に生きようとするようになったのである。カトリックは第二パチカン公会議以後、プロテスタント教会を「分かたれた兄弟達」として受け入れるようになった。また、17世紀の信仰覚醒運動の指導者リチャード┬疋バクスターは、一致の原則として「大きなことには一致を、小さなことには自由を、すべてのことに愛を」と語った。

 ◇「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(7節)。アダムとイヴが、エデンの園で罪に堕落した時、神は彼らが罪の生活の中に永遠に生きることがないようにと彼らを園から追放された。しかし、終末の救いを与えられる時、神は彼らに永遠の生命の道を備えて下さることを約束しておられるのである。私達の教会も初めの愛に立ち返り、互いに愛し合うようになることが求められている。

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◆2000.05.14 復活節第4主日

「太陽と灯台」マラキ書3:19-24、ヨハネ黙示録1:9-20

       大宮 溥 牧師

 ◇復活節第四主日は「よろこべ」の主日である(フィリピ4:4-5)。しかし最近の青少年犯罪事件の続発からも、われわれの社会は「よろこび」と逆の様相を呈している。豊かさや恵みに気付かず、挫折や打撃を受けると、すぐに憎しみや殺害に走る。自分の置かれた現実をどう受けとめ、どう対処するかという、生き方が問われている。

 ◇初代のキリスト者たちは、現在のわれわれには想像できないほどの苦しみや迫害の中を生きた。しかし憎しみに愛をもって立ち向かい、戦いに平和をもって対した。ヨハネ黙示録も、自分たちは主イエスの「苦難、支配、忍耐にあずかっている」(9節)と書いている。苦難の中でも、神の支配を信じ、それ故忍耐と希望をもって生きたのである。

 ◇今日の御言葉は黙示録執筆の場所と時を告げている。ヨハネは迫害を受けて、自分が牧会していた小アジアの7つの教会から追放され、エ一ゲ海上の小島パトモスに流されていた。そこで「主の日」(10節)に彼は愛する教会を覚えつつ、教会の礼拝と同じ時に、一人ではあるが霊において共なる礼拝を捧げていたと思われる。彼の前には七枝の燭台(メノーラー)に火がともされ、その上にキリストの画像があったかも知れない。

 ◇ヨハネはその時天からの声を聞いて、自分の前に、7つの教会がその地に灯台として輝き、その間を生ける主イエスが歩まれるのを見たのである。「足まで届く衣」(13節)は祭司の衣、「金の帯」は王の着けるものであった。主イエスはわれわれを神にとりなす祭司であり、われわれを導く王として立っておられるのである。この主の姿で特に印象的なのはその「顔は照り輝く太陽のようであった」(16節)という描写である。イエス┬疋キリストを仰ぐ時、われわれの人生は、夜が明けて太陽が昇るように、喜びと希望の光に照らされて歩むことができる(ローマ13:12)

 ◇この「世の光」であるイエス┬疋キリストが「右の手に七つの星を持っておられた」(16節)。星は運命を司ると考えられた。その星がイエス┬疋キリストの手中にあると言うのである。われわれはここに信頼を置き、希望に生きることができる。

 ◇このイエス┬疋キリストが、七つの教会の間を歩いておられる。教会はこの世を照らす福音の灯台として、人生航路を旅している人々に、進むべき針路と、前進する力を与えるのである。われわれの教会もまたこのような灯台として立てられている。この光に照され、その使命を果してゆこう。

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◆2000.05.07 復活節第3主日

「歴史の主」ヨハネ福音書20:19-23、ヨハネ黙示録1:1-8

       大宮 溥 牧師

 ◇今日からヨハネ黙示録の連続講解説教を始める。新約聖書は福音書(主イエスの言葉と働き)、使徒言行録(初代教会の歴史)の後、手紙(使徒の教え)の後に「黙示録」が来る。これは「預言の言葉」(3節)である。教会は「使徒や預言者という土台の上に建てられ、……そのかなめ石はキリスト┬疋イエスである」(エフェソ2:20)。そして使徒が地上のイエスに焦点をあてて語るのに対して、預言者は天にあってわれわれを生かし導く、今のキリストに焦点をあてて語るのである。

 ◇ヨハネ黙示録はキリスト教会が地中海世界に拡がり、ローマ帝国の弾圧をうけ、迫害と弾圧に苦しんだ時代に書かれた。多分紀元90年代のドミティアヌス皇帝の時代であろう。教会は風前の灯のように、前途は全く不透明であった。そのような嵐にもまれる小舟のような教会に、自分たちの歴史をどう把え、何を支えとして進むべきかを教えたのである。ここには、歴史を導く神の働きと、神の国に向って旅を進める神の民の姿が描き出されている。

 ◇ここには「黙示文学」の手法が採用されている。それは歴史を、教科書のようでなく、警や象徴を用いて、政治経済のような次元だけでなく、信仰的霊的次元にも拡がる壮大なドラマとして描いているのである。その中心に、十字架の死によってこの世の罪と悪と死の力に対決し、復活によってあらゆる力に打ち勝ち、神の支配を確立されたイエス┬疋キリストが立っておられる。これによってわれわれは、自分の生きている時代の真の姿を照らし出され、困難の中にあって忍耐と希望を与えられるのである。

 ◇このヨハネ黙示録の冒頭を、ハンス┬疋リルェは「大祭文」Introitという題をつけている。大祭文とは、礼拝を始める時に読み上げられる式文である。神の言葉をたずさえたヨハネの入場、七つの教会への祝福、教会の讃美、旧約聖書と主イエスの言葉の朗読という構成は、司祭の入場、招詞、頒栄、聖書朗読という礼拝前部の順序にそっている。礼拝においてわれわれは、自分の生きている歴史の最も深い次元に導かれ、神と共に神の国の歴史を築いてゆく様に導かれるのである。

 ◇ここで神およびキリストが「今おられ、かつておられ、やがて来る方」と言われている。人間は歴史の一駒を生きてすぐに去ってゆくはかない存在である。しかし実はわれわれの時は、神の祝福のもとに開始され、神に迎えられて終り、その間も主はエマオの旅人のようにわれわれと同伴して下さる。永遠の主と共に真の歴史が築かれる。

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◆2000.04.30 復活節第2主日

「キリストの僕」イザヤ書53:11-12、フィリピ書1:1-11

       須田 則子 牧師

 ◇「喜びの手紙」と呼ばれるフィリピ書は、信頼し合う者同士の間に生まれた書簡です。使徒言行録16章はパウロとフィリピ教会の人々との出会いに神の導きのあったことを特別の仕方で記します。「神が私たちを出会わせて下さった。共に福音に与るよう導いて下さった」との主への信頼が人と人との信頼関係も生み出しました。

 ◇信頼する者に対する「喜びの手紙」の冒頭で、パウロは自らを「キリストの僕」と名乗ります。当時のフィリピ教会の状況に対する牧会的配慮によると言われます。フィリピ教会とて何の問題もなかったわけではありません。文面から人々の高ぶる思いによって一致が保たれなくなり、優れた者、劣った者といった分け隔てが起こっていたと分かります。パウロはこの問題を解決するには互いにへりくだるしかないと捉えていました。それで自らを「僕」と呼んだのです。フィリピ書で「僕」の語は2回しか用いられません。一つはパウロの自己紹介。そしてもう一つは2章のキリスト讃歌においてです。キリストは私たちのために僕となられました。主は弟子たちの足を洗います。届んで人の足を洗う。これはまさに僕、つまり奴隷の仕事でした。主はこのことによって愛を示し、「互いに足を洗い合うように愛し合いなさい」と言われました。僕という言葉に、神に愛されている者たちの共同体のあり方が示されています。

 ◇ロマ書7章にも記されている通り、パウロはかつて罪のとりこ、僕でした。しかしキリストが助け出して下さいました。そしてご自分の僕として下さいました。パウロはこの手紙を書いた時、他の人々のとりこでもありました。人々は彼を捕えて獄に入れ、自分たちの言いなりにさせようとしました。けれどもパウロは言います。「私はキリストの僕。私の主はキリストだけである。」

 ◇パウロは、罪や他の人々の被害者であっただけではありません。教会の迫害者であり、そのことによってキリストの迫害者でした。パウロは憎しみによってキリストに戦いを挑みました。しかし主は、そのようにしてご自分を苦しめるパウロをも愛してやむことはありませんでした。パウロはこの恵みに負けました。キリストの愛に打ち負かされました。そしてキリストとの戦いに負けた捕虜、僕とされました。ある万の説教に「キリストの勝利の行進」というものがあります。キリストは私たちを僕としてご自分の勝利の行進に連ならせて下さいます。この行進の行く先は神の国です。

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◆2000.04.23 復活主日

「復活の転換」エゼキエル書37:1-10、ヨハネ福音書20:11-18

       大宮 溥 牧師

 ◇復活祭は英語ではイースターであるがこれは北欧神話の春の女神エオストレに由来する。春は生命の季節であるが、まことの命は死に打ち勝ったイエス┬疋キリストによってもたらされるのである。

 ◇旧約聖書において死者の復活を描き出している最も印象的な場面は、エゼキエル37章の「枯れた骨の復活」である。預言者エゼキエルは白骨累々たる谷間に立って、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」(3節)と間われた。20世紀は世界的な規模でこのような光景が出現した。アウシュヴィッツ、ソ連国境、南京大虐殺の現場、カンボジアのポルポト軍の住民虐殺現場。戦後にも国外にも国内にもそれが出現した。そしてアベルの血の叫びが地中から神に向って上げられたように、今日もそのような叫びが上げられている。

 ◇イエス┬疋キリストが十字架の上で死なれたことは、神がこの白骨の谷間に来られ、神御自身がわれわれと同じ運命を共にされたことを示している。主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫んだ時、神御自身が人間と連帯した。

 ◇そして主の復活は「白骨が生き返る」道を開いたのである。ピエロ┬疋デルラ┬疋フランチェスカの「復活」の絵は、春の朝が白みそめた頃、墓の前で4人の番兵が正体なく眠っている背後で、主イエスがすっくりと立ち上り、棺の端に足をかけて、今まさにこちらに出てこようとしておられる。そして真直にこちらに目を向けておられる。死の世界に、命の春の光がさし込み、「わたしが生ぎているので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:ユ9)と語りかけている。

 ◇ヨハネ福音書21章では、この復活のキリストが、墓の外で泣いていたマグダラのマリアの傍に立っているのに、彼女は気がつかない。主イエスが「マリアよ」と彼女の名を呼び、彼女が自分の思いから主の方へと振り向いた時、復活の主に気付いたのである。主に呼びかけられ、主に向くことによって、われわれも生ける主に出会う。

 ◇驚き喜んで主に身を向けたマリアに、主は「すがりつくのはよしなさい」(17節)とたしなめられた。昔の師を取りもどし自分の内に止めるのでなく、地上において人間と一体となられた主が、復活昇天して父なる神と一律となり、こうしてわれわれが神と固く結び合わされた者として、この世に出てゆくべきなのである。主は「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは世に勝っている」とわれわれを世に遣わされるのである。

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◆2000.04.16 棕梠主日

「主の名によって来る者」マルコ福音書11:1-11、第1コリント1:18-25

       大宮 溥 牧師

 ◇主イエスは堅い決意をもって都エルサレムに進んでゆかれた。「一行がエルサレムヘ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んでゆかれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う人たちは恐れた」(マルコ10:22)。主は神から与えられた自分の使命を果すためには、死をもいとわない覚悟を固めておられたのである。

 ◇エルサレムが目前に迫った時、主イエスは「向こうの村へ行って」まだ誰も乗ったことのない子ろばを引いて来るように(2節)命じられた。これは旧約聖書のゼカリヤの預言「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられる者。高ぶることなく、ろぱに乗る」(9:9)の通り、自分が神の民の王として来たことを示すためであった。

 ◇時はユダヤ最大の祭である過越祭が始まろうとしていた。この時期には、ユダヤとガリラヤの各地のみならず、全世界に離散している、いわゆるディアスポラのユダヤ人たちも、長い巡礼の旅を重ねて、エルサレムに集ってきた。彼らは都が見える所まで来ると詩編の「都に上る歌」を声をそろえて歌った。主イエスの入城の時も、群衆は主を囲んで、この歌を歌ったのである(詩編118:25-6→マルコ11:9-10節)。彼らは主イエスを「主の名によって来られる方」と呼んだ。彼らはユダヤを独立させる、軍事的政治的なメシヤを待ち望んでいた。

 ◇しかし主イエスは、御自分が王であることを示しながら、群衆の呼び声に対しては、沈黙して入城された。主は群衆が期待するような王ではなかった。ユダヤ人とローマ人という人間対人間の対立の一方に加担するのでなく、神と人間との関係を正し、神と人間との和解による神の国を築くために来られたのである。そのために御自分の身を献げる決意をもって都に入られた。

 ◇群衆はこのような主の御心を全く知らなかった。そして自分達の期待が裏切られると、熱烈歓迎から一転して、憎しみと怒りをもって、主を十字架につけた。しかし神はこのような人間の罪のわざをも用いて主の死によって人間の蹟罪の道を開かれたのである。

 ◇この主に対して、われわれはどのように主に対し、主を迎えるのかが問われる。自分の夢や欲望をかなえる手段としてか、それとも主の恵みと犠牲を感謝して受け、自分を主に献げて主に従うのかが問われる。マルティン┬疋ルサー┬疋キング暗殺は棕梠の主日直前であった。主の愛を受けて、敵をも愛する愛に生きた彼の生涯は、主の用に召された者の道を示している。

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◆2000.04.09 受難節第5主日

「永遠の命」ヨハネ福音書17:1-5、第1ヨハネ5:13-21

       大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネ福音書は、主イエスの死の意味を深く教えようとして、14-16章に主の最後の「告別説教」、17章に主の最後の「大祭司の祈り」を記している。この祈りの冒頭で主は「父よ、時が来ました」(1節)と切り出している。十字架の時こそ、主の生涯がこの一点に集中しているのである。

 ◇この時は「栄光の時」である。普通十字架は闇と滅びの時であり、栄光の時は復活だと考えられている。しかしヨハネ福音書は死と復活を一括して、イエス┬疋キリストが天に上げられる時と考えているのである(3:15参照)。受肉は主が天から地に下降された時であり、彼は生涯を通じて、この世の闇の中へ次第に深く沈み、十字架において世のどん底に身を置かれた。しかしその事によって、この闇の世界が、どん底に至るまで、主イエス┬疋キリストの恵みと愛の光によって照らされたのである。ゴッホはラザロが死して横たわる墓穴の中に太陽を描いた。主はこのような太陽である。

 ◇このイエス┬疋キリストは、人々に「永遠の命」を与えられる(2節)。「永遠の命」とは無限に生きるというよりも、「永遠者(父なる神と御子キリスト)と共に生きる生活」である(3節)。ヨハネ第一の手紙は、その結びにおいて、キリスト信徒に与えられる救いについて、第一に「永遠の命」、第二に「祈りはすべて聞き入れられる」、第三に「罪の赦し」を挙げている。

 ◇「永遠の命」については、われわれが御子キリストを信じる時、われわれは主と命の通い合う生活を与えられ、「生くるにも死ぬにも、われわれにとって唯一の慰め」(ハイデルベルク信仰問答1)である、キリストのものとされる。

 ◇「祈り」について、主はわれわれの祈りをすべて聞いて下さる(14-15節)。祈りの内容がすべて叶うとは限らないが、神が確かに私の祈りを聞いて応えて下さことを確信できるのである。主が生きてわれわれに相対して下さるからである。

 ◇「罪の赦し」について、ここでは赦されない「死に至る罪」とは何かが問題になる(16節)。これは罪の賦いであるイエス┬疋キリストを拒否することであり、悔い改めのない態度である。主は、御自分を十字架につけた人々の罪のためにも赦しを祈って下さり(ルカ24:34)、裏切ったペテロをも赦して下さった。この無限の愛を知る時、われわれは悔改めて、主に立ち帰らずにはおれない。この悔い改めへの招きとしてこの言葉を受け取るべきである。受難節(レント)はこの悔い改めへの招きの時である。

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◆2000.04.02 受難節第4主日

「主を待ち望め」詩編27、ヨハネ福音書16:31-33

       大宮 溥 牧師

 ◇阿佐ケ谷教会の2000年度の教会標語は「主を待ち望め」である。この御言葉に励まされ、導かれて、新しい千年紀を踏み出したい。

 ◇詩編27は、その冒頭「主はわたしの光」Dominus illuminatio meaと歌い出す。これはオックスフォード大学の標語でもある。この詩の作者は苦難の中で徹夜の祈りを棒げているうちに、朝の光が上から射し込んできたのであろうか。「明け易し真夜の祈りと思いしに」(ハンセン病の女流歌人玉木愛子)。この光を浴び、この神がわたしを救う助け主として傍に立ち、「命の砦」としてわたしを覆って下さる時、わたしは何ものをも恐れないと、詩人は告白する。奈落の底にっき落されたような人生の危機にも、神共にいます限り、その光に闇は払われ、立ち上ることができるのである。それ故彼の唯一の願いは、神との出会いが与えられ、深い交.わりの中に生きることである。これは真の礼拝経験である。

 ◇この神に向って、詩人は自分の弱さと限界を告白し、神の助けを嘆願する。彼は自分の心に呼びかけ、我と我が身を励ますようにして、ひたすら神にしがみつく。ここで詩人は「神の怒り」を問題にしている。われわれが最後に帰るところは神以外にはないが、その神の前で自分の罪が問題になる。ここでわれわれは改めて、イエス┬疋キリストの贖罪の大切さを知る。主イエスの十字架によって、われわれは神共にいます確かさを与えられるのである。

 ◇詩人は旧約の人であるけれども、神が自分に出会い、迎え、共にいて下さることを確信し、最後の部分で隣人に向っで「主を待ち望め」と呼びかける。この「待ち望む」(カーワー)という言葉は、元来網、縄、ひも、糸をあらわす言葉で、何かに巻きつき、からみつくような、激しい執拗な態度を示すものである。神にむしゃぶりついて離れない姿である。「雄々しくあれ、心を強くせよ」(14節)とすすめられているが、それは自分の力に頼むのでなく、外からの力に支えられ、強めて頂いて、自分一人では尻込みするような嵐の中へも、勇気をもって乗り出してゆくのである。

 ◇新しい千年紀は、近代後(ポストモダン)の時代である。近代主義は人間の自力で社会を形成しようとした。そこから環境破壊、民族対立、エゴイズムと深刻な行きづまりに直面している。自己中心から神中心へと生活を転換する外に活路はない。自己の傲慢を砕かれ、神を愛し人を愛することこそが、明日の希望である。「主を待ち望み」つつ、この道へと冒険してゆこう。

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