2000.7-9


もくじ

◆09.24「聖徒の交わりを信ず」創世記28:10-17、ヨハネ黙示録7:1-17
◆09.17「試練の時」マルコ福音書4:35-41、ヨハネ黙示録6:9-17
◆09.10「主をほめたたえよ」詩編117:1-2、イザヤ書63:7-10
◆09.03「白馬の騎士」ゼカリア書1:7-13、ヨハネ黙示録6:1-8

◆08.27「ただ神のみを神とせよ」出エジプト記20:1-6、マタイ4:1-11
◆08.20「歴史の解読」イザヤ書53:6-10、ヨハネ黙示録5:1-14
◆08.13「キリスト・イエスの愛の心」ホセア書11:8-9、フィリピ書1:3-11
◆08.06「神の歴史」エゼキエル書1:1-14、ヨハネ黙示録4:1-11

◆07.30「待ちつつ急ぎつつ」マタイ福音書16:13-20、ヨハネ黙示録3:7-13
◆07.23「目を覚まして生きる」マタイ福音書25:1-13、ヨハネ黙示録3:1-6
◆07.16「喜び歌いつつ」イザヤ書35:5-10、第2コリント書12:7b-10
◆07.09「世の光」ヨハネ福音書8:12、ヨハネ黙示録3:14-21
◆07.02「明けの明星」マルコ福音書1:21-28、ヨハネ黙示録2:18-29

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◆2000.09.24 聖霊降臨節第16主日礼拝

「聖徒の交わりを信ず」創世記28:10-17ヨハネ黙示録7:1-17

       大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネ然示録6章で、歴史絵巻の第六の封印が開かれると、人間のあまりの無軌道な生活のために、世界の舞台が踏み破られ、世界を支える神の手が引き抜かれて、世界が崩壊する姿が示されている。21世紀を前にして、人口爆発、食糧不足、砂漠化等の危機の警告と重ね合わされて、現実感をもって受け止められる。

 ◇ところが7章では、そのような世界崩壊の危機が、神の命令によって差し止められて、人々に一時の休息が与えられる。そして一息ついて我に帰った人々のうち、神の民である144,000人の額にしるしがつけられる。神はどのような危機の中でも、神の民を忘れることなく、一人一人を心に刻んで守ってくださるのである。

 ◇9節になると、神が救われるのはユダ人という旧約の民だけでなく、全世界から集められた「数え切れないほどの大群衆」であることが示される.彼らは「白い衣を身につけ、手になつめやしの枝(勝利のしるし)を持って」(9節)神の前で礼拝をささげている。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊(キリスト)の血で洗って白くした」(14節)といわれる。

 ◇この青葉で第一に示されるのは、神の民は、この世の外に隔離されて平安無事に守られているのでなく、彼らも大きな苦難に苦しむことが見据えられていることである。それと共に「衣を小手の血で洗う」という言葉は印象深い。彼らは苦難の人生において、その衣は泥と汗と血にまみれ汚れていたにちがいない。神の前ではそれが洗われて白くなる。しかもそれを白くするのはキリストの血である。主イエスがわれわれのために命を捨て、罪と汚れから洗い清めて下さるのである(ヨハネ13章参照)。

 ◇更にここでは神の民が「洗われる」という受身でなく、「洗う」と能動態で書かれていることに注意しなければならない。黙示録では、姦婦バピロンが人々を不義のぶどう酒で酔わせ、その衣を汚させると書かれている(17章)。人間の権力欲と物欲が、富める者、力ある者を誇らせ、権力の絶対化と貧しい者への抑圧搾取を招き、神を縦軸とし隣人を横軸として築かれるべき、人生の座標紬(愛の座標軸)が破壊されてしまっているのである。このような罪の生活から身を洗って、神のみを神とし、隣人愛に生きる新しい生活を築くという、生活の転換を、神の民は苦難の只中で取り組んでゆくのである。イエス・キリストの救いの約束にあずかり、この主がわれわれを洗って下さる恵みにこたえて、われわれも憎しみの世に信仰と愛の道を築いてゆこう。

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◆2000.09.17 聖霊降臨節第15主日礼拝

「試練の時」マルコ福音書4:35-41ヨハネ黙示録6:9-17

       大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネ黙示録の本論は天上の壮厳な礼拝で始まるが、6章になると天上の輝きとは対照的な地上の暗黒の姿がリアルに描き出される。今日の個所では神の祭壇の下に多数の殉教者の魂が重なり合い、自分たちが受けた不当な暴虐に、神が正義の審判を下してくださるように、大声で叫んでいる。これは当時の教会が置かれていた厳しい状況が隠されずに描き出されているのである。

 ◇人間はしばしば見たくない現実に目をつぶって、それから逃避して内に龍もる。しかしそれでは、現実は少しもよくならないばかりか、最後には自分の夢と現実とのギャップによって、自分が引き裂かれてしまう。ヨハネ黙示録は、当時の世界や教会が経験していた自然の及害、社会の分裂、教会の蒙った迫害という現実を、無視したり逃避したりしないで、しっかりと見つめ、自分の悲しみや怒りを、神に向かって吐き出しているのである。聖書にほ、地底から響くアベルの血の叫び(創世記4:10)、嵐に悩む弟子の叫び(マルコ4:38)、そして殉教者の訴えく10節)が、神につきつけられているのである。

 ◇この殉教者の叫びに対して、神はそれが決して空しく消えることなく、神の耳に届き、神の心に刻まれていることを告げられる。そして「その一人一人」に例外なく「白い衣」が与えられた。死者は「肉体」を剥ぎ取られた「裸」の状態と考えられていた(コリント?5:3)。それに対して潔い命の衣で被われるというのである。われわれは、キリストの恵みを与えられる時「キリストを者る(身にまとう)」(ローマ13:13)。その恵みの衣が、肉体の衣を剥がれた魂を、更に豊かに更に厚く被うのである。そして、神は彼らを決して忘れておられるのではないが、救いの時は神の御計画の中にあるのだから、自分の判断で、いら立ったり絶望したりするのでなく、希望を持って待つようにさとされたのである。ここに「待ちつつ急ぎつつ」(ブルームハルト)生きる信仰が記されている。

 ◇第六の封印が解かれた時、天地が崩れ、世界が砕けた姿があらわれる。世界を支える神の手が引き抜かれた時に、世界は根底から崩れるのである。それは何人も支え切れない終末である。新約聖書では、このような世界崩壊の状況が、キリストの十字架の死の時にも起ったと記している(マタイ24:29、27:45-52)。イエス・キリストは、この崩壊する世界の中に釆て、人間と連帯し、自らも死を経験されると共に、それに勝利して復活された。この主が共にいます故に、われわれは恐れずに生きる。

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◆2000.09.10 聖霊降臨節第14主日礼拝

「主をほめたたえよ」詩編117:1-2イザヤ書63:1-7

       大宮 チヱ子 牧師

 ◇旧約聖書の詩編は150編あるが、多くの作者によって長い年代にわたって作られたので、その内容はさまざまで、巾広く豊かである。多くの人々の人生が実に深く、切実にうたわれている。詩編は祈りの宝庫といわれるが、深い闇と底知れない苦難の中から神を呼び求めている祈りの歌が少なくない。神にすがりついて訴え、祈っている歌を数多くみることができる。

 ◇同時に、詩編には、祝福と感謝、喜びと讃美が溢れるばかりに歌われている。各詩編の表題に、「指揮者によって」、「・・・・・・のしらべに合わせて」、あるいは「伴奏付き」などの指示があることから、詩編は当時のエルサレム神殿における礼拝で用いるために編集されたと考えられる。詩編の作者達は、底なしの深みでもがくような苦しみを経験しながら、その深い渕の底にも神は来てくださり、神は共にいてくださるとの確かな信仰に立って、感謝と讃美の歌をうたうことができたのである。

 ◇詩編は5巻に分けられており、各巻の終わりの詩の最後には神をはめたたえる頒栄が記されている。「主をたたえよ、アーメン、ハレルヤ」と。詩編は主をほめたたえる讃美のうたであり、信仰の詩である。そして、多くの人々が、心のうた、わがうた、わが祈りとして愛読し愛唱してきた。

 ◇117編は詩編中最も短い2節の詩であるが、力強く神をほめたたえている。この詩人は、神は全世界の主であるとの信仰に立って、すべての国、すべての民に「主をはめたたえよ、ハレルヤ」とすすめ、その根拠、理由を述べている。波乱万丈のイスラエルの歴史、自らの人生の中に、変わらぬ神の力強い恵みのみ手の働きを確信して「主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを超えて力強い」と讃美している。

 ◇イザヤ書63章は、いわゆる第三イザヤといわれる無名の預言者の言葉であるが、ここにも神の慈しみと憐れみへの讃美がある。主の慈しみを、いつまでも忘れることなく心に留め、記念し、覚え続けて、人々にも告げ知らせようとしている。価なしに資格のない、ふさわしくないものに与えられる、神の無償の恵み、慈しみの故に、神は、イエラエルの民を、そして私達を「わたしの民、わたしの子」と呼んで救い主となってくださった。人間の苦しみをご自分の苦しみとして、共に痛み、購い、救い、常に、負い、担ってくださるお方である。自分の重荷も隣人の苦難も負い切ることができない私達を赦し、購い、常に担ってくださる神をはめたたえ、仕えて歩みたい。

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◆2000.09.03 振起日礼拝

「白馬の騎士」ゼカリヤ書1:7-13、ヨハネ黙示録6:1-8

       大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネ然示録は4章に入って天上の礼拝を描き、イエス・キリストが神の歴史の奥義を記した巻物の封印を解き、歴史の意味を明らかにする姿を示している。6章では、主イエスが最初の4つの封印を開くと4頭の馬に乗った4人の騎士が現われ、世界を駆けめぐった。4という数は東西南北に関係し、世界を展望させるものである。

 ◇4つの馬のうち、第2から第4の馬とその乗り手の意味ははっきりしている。世界の民を集う、戦争と飢饉と死である。今日の世界も、冷戦時代が終っても戦争は続き、各地で多くの命が奪われ家が炊かれ、人々の悲しみと怒りの声が天にこだましている。21世紀を迎えようとして、世界人口は爆発的に増大し、食糧危機、また地球上の資源の楢渇が追っている。「小麦1コイニクス く1.18)は1デナリオン(労働者一日分の賃銀)」とは飢饉による物価高騰を示している。「青白い馬」は植物が萎えた色で生命が断ち切られる死を示している。人間は死すべき存在である。これら4つの馬は、この世の終り、終末の危機をあらわしている。世界と人類は絶滅の崖っ淵に立っているのである。

 ◇このような滅びの力が世界を踏みにじっている中で、白馬とその乗り手が駆けてゆく。これが何を意味するかは種々の解釈がある。一つは19章の白馬の騎士と同じと考え、これをイエス・キリストと解釈する。しかしここでは4頭が同じように描かれており、むしろ白を東方(太陽の昇る方向)であり、東方からヨーロッパを侵攻した獰猛な蛮族を指すという解釈もある。しかし白馬の騎士はイエス・キリストの姿と似ており、他の馬のように無気味な色でなく、純白であり、また「弓」は「虹」をも意味するので、この騎士は神の民、教会、あるいは福音のシンボルと解釈できる。この世は戦争と飢饉と死の力が人々を踏みにじっているが、その中で人間を助け、励まし、救う恵みの力もまた働いているのである。

 ◇キリストの恵みが運ばれてゆく時、人人は他の馬があらわしている破壊の力に打ち勝つことができる。戦争の力に対してキリストはわれわれを憎しみから愛へと変えることによって、それを砕く.また飢饉に対しては、われわれを奪い合う生活から分かち合う生活へ変えることによって、これを克服させる。死に対しては、復活の力を示して希望の道を開くのである。キリストは、闇の力に苦しむこの世に来て、われわれと連帯し、その力に勝利された。その勝利は初穂としてのキリストにおいて成就したのであるが、最後の勝利を約束する。

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◆2000.08.27 聖霊降臨節第12主日礼拝

「ただ神のみを神とせよ」出エジプト記20:1-6、マタイ4:1-11

      野崎 卓道 伝道師

 ◇十戒を代表とする律法は、一見私達の生活を縛り不自由にするものと思われる。しかし、ここで十戒を通して語られている方はイエス・キリストの父なる神である。イエス・キリストを通して私達を救おうとなさる神がここで語られているのである。

 ◇神は、エジプト人の奴隷として非人間的な生活を強いられたイスラエルの民を嫌い出し「わたしは主、あなたの神」と語りかけられた。ここで、イスラエルの民は、神の子として自由に生きる生活へと招かれているのである。神は民が奴隷の生活へと逆戻りすることがないよう「あなたには、わたしをおいてはかに神があってはならない」と民を御自分の下に留めようとされているのである。

 ◇主イエスは荒れ野において、高い山に連れてゆかれて、世の宮を見せられて誘惑された時、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」とサタンを退けられた。サタンは、様々な機会を利用して、私達の心を神から逸らそうとしている.私達は、この世の宮、知識、仕事、時間、子供の教育などのことで頭をいっぱいにしてしまって、もはや生ける神が 入る余地がなくなってしまうことがある。「人間にとっての神とは、その人が自分の心を寄せ、執着させているもの」なのである。生ける神から離れるならば、必ず私達の生活のどこかに歪みが生じてくる.神は「あなたには、わたしをおいてほかに紳があってはならない」と命じられて、私達が限度を超えて、神以外のものの虜にならないように配慮してくださっているのである。

 ◇また、神は偶像を造ることを禁じられた。それは生きて働かれる神を、動くことも、語ることも、聞くこともできない偶像として固定してしまうことがないためである。霊である神を見える形に固定化することによって、私達は神と生き生きと交わることができなくなってしまうのである。

 ◇神は、今や「見えない神の姿」くコロサイ1:15)である御子を通して、ご自身の姿をはっきりと現してくださった.私達はもはや自分達で努力して神を追い求め、神の形を造り出す必要がなくなった。御子は御言葉を通して、私達の近くに臨んでくださる。神は御子の十字架の死をもって、私達を罪より購った。他の誰にも魂らない、燃え滾るるような情熱をもって「あなたはわたしのものだ」と私達をぎゅっと掴んで放さないのである.この御子を通して、私達の子孫にまで神の尽きることのない慈しみが約束されているのである.

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◆2000.08.20 聖霊降臨節第11主日礼拝

「歴史の解読」イザヤ書53:6-10、ヨハネ黙示録5:1-14

       大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネ黙示録は紀元1世紀の終りごろエ一ゲ海上の孤島パトモスに流刑になったヨハネが、日曜日に一人で礼拝を守っていた時に、神から与えられた幻を記している。彼の前には門が開け、天上において天にある者と地にある者が共に礼拝を捧げている。その大群衆の礼拝に加わっているのを経験した。われわれの礼拝も、そのような「聖徒の交わり」の中で行われているのである。

 ◇天上の礼拝で、その中央の玉座に座っておられる神の御手に、一巻の巻物があった。その「表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた」(1節)。神の御心と御計画が、書き切れないほど記入されていたのである。この個所は「内側に字が書いてあり、外側は七つの封印で封じられていた」とも読める。神の御計画と御心は外側からは全くうかがい知れなかったのである。ヨハネはそれに衝撃を受けて「激しく泣いた」(4節)。人間は歴史を展望、洞察して、その意味を理解することはできない。19世紀の進化論的歴史観も、20世紀の共産主義的歴史観も、歴史の事実によって崩壊してしまった。そしてわれわれは21世紀以前にして、展望が開けないのである。

 ◇絶望して泣いていたヨハネに、長老の一人が「泣くな、見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(5節)と告げた。これは創世記49:9イザヤ書!1:1から取られた表現で「ダビデの子」であるメシヤを指しており、イエス┬疋キリストこそ歴史の謎を解き、われわれの人生の意味を解き明かすことができる方であることを示している。

 ◇「獅子」として、王者として君臨すると思われたイエス┬疋キリストは「屠られたような小羊」(6節)として登場する。それはイザヤ書53章が示す「苦難のしもべ」の姿である。十字架につかれたイエス┬疋キリストこそ歴史の秘密を解く鍵だというのである。主は罪の中で滅びる外のない人間を捨てず、人間と連帯し、人間のためにご自分の命を与えて、人間を死より命へと導き出して下さった。このキリストの十字架の出来事の一点に、人間の歴史の救いと意味が示されている。これは教主は世の経りまで共におられるという約束と、歴史はこの主の愛を受けて、共に生きようとする愛によってのみ築かれることを示レている。

 ◇この十字架の主が巻物を受け取った時、神の民と天使の大群と被造物全体が、讃美と祈りをささげて、礼拝した。歴史の主との全き交わりが歴史の目標である。

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◆2000.08.13 聖霊降臨節第10主日礼拝

「キリスト・イエスの愛の心」ホセア書11:8-9、フィリピ書1:3一11

       須田 則子 牧師

 「キリスト┬疋イエスの愛の心」国牧師須田別子◇フィリピ教会はパウロの伝道を通して生まれました。そのパウロが福音を宣べ伝えたために捕らえられ獄に入れられました。「私たちに福音の喜びを伝えてくれた人が、その福音のために苦しんでいる。」教会の人々はパウロに人や物を送って支えました。パウロは、変わらずに信頼を寄せ気遣ってくれる人々への手紙で「感謝と喜び」を語りました。ただし、教会に対して直接的でなく神に向かってでした。(3,4節)パウロにとって重要だったのは、人々が自分をどう思ってくれるかだけでなく、その人々が神と正しい関係にあるかということでした。パウロヘの協力にフィリピ教会が福音に与っていること、神に結ばれていることが表れていました。それが嬉しかったのです。(5節)パウロは、人々を福音に生かすという善い業を始めてくださった神に感謝しました。

 ◇パウロは、神が過去、現在のみならず将来も善い業を続け、キリストの日に全ての人を完全な者としてくださると「確信」していました。(6節)当時、フィリピ教会には教会の不一致がありました。互いに自分の方が優れている、正しい。相手が間違っている、劣っていると言い合っていました。しかし、パウロは繰り返し、あなた方一同、あなた方一人残らず全てが私と共に恵みに与る者だと思っていると強調します。(7節)キリストの赦しの恵みに与っていること、将来完全な者とされること、このことに分け隔て、例外はありません。神が善き業を全ての人になさるからです。

 ◇パウロとフィリピ教会の人々は、互いに相手を心に留め、相手のいる場所を心に持っていました。そればかりでなくパウロは、キリスト┬疋イエスの愛の心の中であなた方を思っていると告げます。(8節)愛の心と訳されるのは本来、はらわた、内臓をあらわす言葉です。はらわた揺さぷられるような愛の心です。ある方はイエス┬疋キリストの存在そのものが神のはらわただと語ります。さらにキリストは私たちを神のはらわた、ご自身の愛の心に織り込んでくださると語ります。キリストは、かつての教会の迫害者、今も愛において不完全なパウロを憐れみ、赦し、愛の心の中にしっかり捕らえておられます。この愛の心の中でパウロは教会を思いました。

 ◇パウロは、本当に重要なことである神のお考え、計らいを知り、見抜く愛が増すようにと教会のため祈りました。私たちにはキリストの愛を目指し、愛する者としてくださいと願うことがゆるされています。

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◆2000.08.06 平和主日礼拝

「神の歴史」エゼキエル書1:1-14、ヨハネ黙示録4:1-11

       大宮 溥 牧師

 ◇日本基督教団では8月第一主日が「平和主日」と定められている。広島長崎の被爆、第二次大戦敗北の日を前にして、平和への祈りと決意を新たにするのである。日本があの無謀で侵略的な戦争に向った一つの契機として、当時の日本民族を神格化した歴史教育があった。それが絶対化し、他国侵略を正当化したのである。旧約聖書はイスラエル民族をエジプトの奴隷であったのが、神の救いによって一国を成し得たと教え、それ故自分たちも他者を思いやらなけれがならないと命じたのである。神が創造立であり、歴史の主であることが明らかになる時、人も民族も謙遜になり、他と共に生きようとする。ここに平和を造り出す道がある。

 ◇ヨハネ黙示録は4章から本論に入るが、その冒頭でヨハネは開かれた門から、天上の歴史の舞台を見たのである。その中央に神の玉座があった。世界の歴史は、この神によって始められ、この神によって完成するのである。ここから歴史の本当の姿が見えてくるのである。

 ◇玉座を囲んで座している24人の長老は旧約のイスラエル12氏族の長たちと新約の使徒たちである。神の民が神を囲んで礼拝をささげているのである。彼らの内側で玉座の前にいる4つの生き物は、命あるものの中で王的存在(百獣の王である獅子、家畜の代表としての牛、万物の霊長の人間、鳥類の王者である鷲)である。これは命ある全披造物の代表が神の前に出ているのである。

 ◇神の民と全被造物は、神の前で讃美を歌い礼拝を捧げている。「聖なるかな」を繰り返す三聖頌は神の聖なることを強調して讃美している。神は世界がいかに混乱汚濁しても、それに動かされることも汚されることもない。「かつておられ、今おられ、やがて来られる方」とは、歴史の主であることの告白である。この讃美の中で24人の長老たちは冠をささげる。神への全き服従である。神の恩寵の主権によって歴史は正しく導かれるのである。

 ◇このような天上の礼拝は、空想上のことではない。当時の社会では町々に皇帝の玉座が設けられ、皇帝礼拝が強制された。これに対してキリスト者は、皇帝ではなく神のみが主であることを告白したのである。人間は一時権力をふるっても、やがて必ず滅び去る。それ故、高ぶるのでなく、また絶望して卑屈になるのでなく、神のもとでへり下って、共に生きるのが、歴史の主の御旨である。このように神を畏れ、高ぷるのでなく仕えて生きるのが平和の道である。

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◆2000.07.30 聖霊降臨節第8主日礼拝

「待ちつつ急ぎつつ」マタイ福音書16:13-20、ヨハネ黙示録3:7-13

       大宮 溥 牧師

 ◇フィラデルフィア(「兄弟愛」を意味する)という地名は、米国で独立宣言が公布され自由の鐘が鳴り響いた都市として有名であるが、新約聖書では黙示録が書き送られた7つの教会のうち、最も称賛された教会の所在地である。「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(8節)。小さく弱い教会が、迫害の嵐に苦しみつつも、信仰を貫いたのである。

 ◇この教会は特にユダヤ教から異端として迫害されたようである(9節)。「ユダヤ人」は神の選民と考えられ、キリスト教はそれに対抗するものとして、いかがわしい新興宗教と非難されたのである。しかしキリスト者は、イエス┬疋キリストこそ旧約の神の救いの歴史の完成者であると信じ、その主に従ったのである。主イエスはその信仰が正しいことが必ず証明されると約束しておられるのである。

 ◇ここでフィラデルフィアの教会は「忍耐」の教会として称賛される(10節)。キリストの昇天から再臨の時までは「忍耐の時」である。それは神の愛と命が人々を救い導く時であるが、同時に神に敵対する憎しみと滅びの力も激しい時である。光と闇、命と死のぶつかり合う時である。その中で生きるキリスト者にとって必要なのは忍耐である。今日の人間の問題も、挫折や逆境の中で砕かれ崩れるのでなく、それを受け止め、担い、立ち上り、押しもどしてゆく忍耐の力を養うことである。

 ◇忍耐する神の民に、主イエスは「わたしはすぐに来る」と約束される(11節)。初代のキリスト者は礼拝の中で「マラナ┬疋タ」と唱和した(第1コリント16:22)。「主よ来てください」というアラム語(パレスチナの言葉)である。これは「アッバ」(父よ)、「アーメン」(然り)と共に、初代教会の信仰の核であった。これは再臨待望の祈りであると共に、この祈りに応えて、主が今ここに来られると信じ、その主に支えられたのである。◇フィラデルフィアの教会が弱かったにもかかわらず信仰を貫き通したのは、主が「わたしはあなたの前に門を開いておいた」(8節)と語っておられるのを信じたからである。それは天への展望を与えてくれた。天とはわれわれが今生きている歴史の深層である。アウグスティヌスは『神国論』で、世界の歴史を「神の国」と「地の国」の対決の歴史として描いた。天の門でわれわれは神と出会い、神と共に歴史を形成する。われわれはその主を「待ちつつ、急ぎつつ」、主と共に生きるのである。          もくじへ 


◆2000.07.23 聖霊降臨節第7主日礼拝

「目を覚まして生きる」マタイ福音書25:1-13、ヨハネ黙示録3:1-6

       大宮 溥 牧師

 ◇小アジアの7つの教会に対して、主イエスは「神の七つの霊と七つの星を持っている方」(1節)として語られる。教会は地上にあって試練や戦いの中を生きているが、同時に天に国籍をもつものとして「世にあって星のように輝」いているのである。

 ◇サルディスの教会もそのように、神の霊を注がれ星のように輝いているのであるが、この教会に対するキリストの言葉は大へん厳しいものである。「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。これは病気の自覚症状のない人間に、実は致命的な重病であることを宣告しているようなものである。あの「十人のおとめ」の物語で、花婿の来るのが予想外に遅れたため眠ってしまって、今度は予想外の時に花婿の到着を知らされ、迎えに出ようとして灯油が切れているのを発見し、愕然とした愚かなおとめの姿である。われわれは、主が来られる時、また主の前に呼び出される時、いつでも出られる備えがあるであろうか。

 ◇おとめが用意しているべき「油」とは何を意味するのであろうか。それは普段の信仰生活のことである。主イエスは「見える姿」で「再び来たり給う」のはまだであるが、「見えない姿」では日々にわれわれに出会って下さる。礼拝においてわれわれは「生けるキリストの現臨」に接するのである。サルディスの教会が霊的に瀕死状態にあったのは、この見えざる主との日々の交わりが欠けていたのである。

 ◇この危機から立ち直るために、第一に「目を覚ませ」(2節)と勧められる。信仰の目を覚まして、日々生けるキリストと交わるようにと勧めるのである。第二は、信仰に入った最初のころを「思い起し、かつ悔い改めよ」(3節)と命じられる。「思い起す」とは単に過去を思い浮べるのでなく、過去の出来事が現在のこととして再起するのである。聖餐がキリストの犠牲の「記念」といわれるのも同じ意味である。第三は「衣を汚さない」生き方である(4節)。これは現実生活から逃避して身を守る姿ではなく、人生の旅において衣を汗まみれ血まみれにしつつも「その衣を小羊の血で洗って白くする」(7:14)のである。十字架の血によって潔めて頂くのである。

 ◇サルディスの教会には、警告と共に、約束も与えられている。「わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはない」(5節)。古代文書の多くが蝋の上に書かれしばしば熔けて消えた。しかし、神の命の書に記された名は消えない。主イエスは我々を決して忘れない。これが希望である。

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◆2000.07.16 聖霊降臨節第6主日礼拝

「喜び歌いつつ」イザヤ書35:5-10、第2コリント書12:7b-10

       大宮 チヱ子 牧師

 ◇預言者イザヤは最も偉大な預言者、神の言葉の忠実ですぐれた取次者といわれる。紀元前8世紀の前王国ユダに生まれ、後半の40年余にわたって活動した。激動のきびしい時代の混乱の中で、聖にして義であられる神の御旨と確かな導きを語り、正義の預言者といわれる。また、救いと恵みを与え、祝福の道を備えてくださる神の御業を伝え、救いと回復の預言者、慰めの預言者ともいわれる。神の救い、解放の福音を慰め深く預言し、「残りの者」、「喜ぴのうちに救いの泉から水を汲む」者について語った(10:20-22,12:3)。

 ◇今日読んだ35章にも、「見よ、あなたたちの神を」と呼びかけ、「神は来て、あなたたちを救われる」と宣言し、その救いの日、解放の時の様子を預言している。美しく、喜びに溢れた姿が描かれている。荒れ野に水が湧いて川となり、乾いた地をうるおすように、救いの泉から水が湧き溢れ、主の救いが、多くの人に及び、人々をうるおし生かす様子が語られている。

 ◇主イエスはシカルの町のヤコブの井戸のそばで、人目をさけて水を汲みに来たサマリアの女に出会われ、『生きた水」について語られた。井戸の水を飲む者は、また渇くが、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:l4)と。

 ◇永遠の命に至る「生きた水」、命の水を飲む者は、目が開かれ、耳が聞こえるようになり、弱った足、開かなかった口が強められて、「鹿のように躍り上がる」ことができ、「喜び歌う」(5-6節)者に変えられると告げられている。

 ◇使徒パウロは、重い持病に悩んで、その「とげ」が抜かれ、病いが癒されるようにと何度も神に祈った。しかし、パウロの切なる祈りは聞き届けられなかった。聞かれない祈りの中で、パウロは神の御声を聞き、神の恵みの深さと豊かさを知った。癒されないままに、神の恵みは十分であり、満ち溢れていると知らされた。病いが治ることにはるかに優る神の救いの恵みを知らされたのである。「大いに喜んで自分の弱さを誇り」、「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足」することができる信仰を確かにされた。恵みを見、聞いたのである。

 ◇私たちの罪を蹟い、多くのしがらみ、嘆きと悲しみから解き放ち、聖なる、救いの「大路」を先立ち歩まれるキリストを仰ぎ、「喜び歌いつつ」主に従いたい。

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◆2000.07.09 伝道礼拝

「世の光」ヨハネ福音書8:12、ヨハネ黙示録3:14-22

       大宮 溥 牧師

 ◇「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。主イエスはいろいろな方法で、私たちの心の扉をノックされる。この礼拝で証をされたK兄には、主が音楽という形で彼の心の扉をたたかれたのである。

 ◇べ一トーヴェンの交響曲第五番は、「運命」と呼ばれ、突然嵐が戸を破って襲いかかって来るような旋律で始まり、それが終りまで折々現れては消える。べ一トーヴェンは「運命はこうして戸を叩く」と語った。今日のわたしたちの生活にも、われわれを打ちのめし、不安を感じさせるようなノックの音が聞こえる。このところ立て続けに起る少年犯罪によって、われわれは人間が憎しみの嵐の中に放り出され、人間崩壊の荒野に立たせられているような、衝撃と不安を感じている。これは人々の座標軸の縦軸である神との関係が切れることにより、横軸である人間関係も崩れてきたことを告げているのではないであろうか。

 ◇このような運命のノックする音の背後に、イエス┬疋キリストがわれわれの心の扉をたたいておられる。ラオデキアの教会に対して主イエスは、この教会が町の人々と同じく、豊かさを誇っているが、実は霊的に惨めで哀れな者であることに気付かない「豊かさの貧困」(P.ヴァクテル)状態にあることを告げている。彼らは霊的には「冷たくも熱くもなく」「なまぬるい」のである(15節)。このように語りかけつつ、われわれに目覚めて、われわれと共に交わり、共に生きようとして入り来ようとされる主を迎えるように、主はノックされる。

 ◇1945年の太平洋戦争敗戦の時、日本の神国思想が、実は国家エゴイズムによる侵略の美化であったことを知らされ、そのようなエゴイズムは、戦争を生み、自滅に終ることを知らされた。私はその時代に、福音に接して、人間と社会の基礎は愛であることを知らされた。1989年のヘルリンの壁の崩壊により、冷戦が終結した時も、同じことが示唆されたのである。しかし、人間は愛を必要としつつ、自分のうちに愛のないことを痛感する。そのような中で、人間の救いのために十字架について自分を犠牲にし、復活によって命の道を聞かれた主イエスの愛が、われわれを支え、われわれを愛の道へと導くのである。主はこの道をわれわれと共に歩もうとして、われわれの心の扉をノックされるのである。今わたしの家の戸を叩かれる主を扉を開いて迎えよう。

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◆2000.07.02 聖霊降臨節第4主日

「明けの明星」マルコ福音書1:21-28、ヨハネの黙示録2:18-29

       大宮 溥 牧師

  ◇西東京教区には約100の教会がある。この地域を100の灯台が照している。全国には教団で1700、プロテスタントとカトリック合わせて8000の灯台が輝いている。教会を灯台と表わしたのはヨハネ黙示録であるが、今日の御言葉はその一つのディアティラの教会に送られたものである。

 ◇ここでイエス┬疋キリストの「目は燃え盛る炎」のようであった(18節)。主の目は夜の闇の中でも見え、人の心の奥底までも見通す。また「足はしんちゅうのように輝いている」。それは肉の足のように疲れたり傷ついたりすることなく、また罪や汚れに染まることがない。主はこの教会のように社会の片隅で苦労している教会を、しっかりと見ておられ、その群を担って歩んで下さるのである。

 ◇主はこの教会に「わたしはあなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている」(19節)と語られる。ここに教会の本来の姿が端的に描き出されている。まず愛の教会である。当時の教会は周囲から迫害を受けて圧迫され傷づけられていた。怒りに燃え攻撃的になって当然であった。しかしディアティラ教会は、ステファノ(使徒言行録7章)のように顔を輝かせ、愛をもって生き抜いたのである。そのような愛(人生の横軸)を確立するのは、イエス┬疋キリストを仰ぐ信仰(人生の縦軸)である。十字架の愛を受けて、われわれも愛へと押し出される。信仰と愛は「奉仕」という形をとる。主イエスは「仕える人」(ディアコノス、僕)であった。キリスト者は「僕の僕である。信仰と愛は逆境にあって「忍耐」という姿を取る。絶望して倒れるのでなく、希望をもって忍耐し、担い抜く。

 ◇ヨハネはつづけて「更に、あなたがたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている」と称賛する。ディアティラ教会は信仰と愛において成長する教会であった。ジョン┬疋ウエスレーは「キリスト者の完全」について教え、キリスト者は神と人への愛において、愛以外の何ものも感じないほどの完全に進むと説いた。われわれもこの目標に向って前進する(フィリピ3:14)。

 ◇称賛のあと、異端への警告が発せられる。異端は自説を絶対化して、教会を生けるキリストとの交わりから切り離す故に、危険なのである。教会がそれらの誘惑と試練を克服する時、主は「明けの明星を与える」(28節)と約束される。「明けの明星」は地上は闇の中にある時にすでに朝が来たことを告げる。復活のキリストは「輝く明けの明星」(22:16)。この主と共に生きる時、教会もまた希望の星として輝く。

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