2000.10-12


もくじ

◆12.31「共にいまし給う神」エゼキエル36:26-27、ヨハネ福音書14:15-21
◆12.24「希望の星」イザヤ書60:1-6、マタイ福音書2:1-12
◆12.17「神われらと共に」イザヤ書7:10-14、マタイ福音書1:18-23
◆12.10「来るべき方」士師記13:2-14、マタイ福音書11:2-19
◆12.03「目覚めて待つ」イザヤ書2:1-5、マタイ福音書24:36-44

◆11.26「前からも後ろからも」詩編139:1-12、イザヤ書52:9-12
◆11.19「無限の苦しみと救い」創世記9:12-17、ヨハネ黙示録9:1-12
◆11.12「御国の子どもたち」マタイ福音書19:13-15、ヨハネ黙示録12:1-6
◆11.05「夜明け前」ダニエル書12:1-13、ヨハネ黙示録8:6-13

◆10.29「神の都」ヨハネ福音書11:25-26、ヨハネ黙示録21:9-27
◆10.22「父の家」ルカ福音書2:41-52
◆10.15「福音の前進」イザヤ書55:6-13、フィリピ書1-12-20
◆10.08「失われた者を捜して救う」ルカ福音書19:1-10
◆10.01「激動の歴史と安息の時」申命記5:1-15、ヨハネ黙示録8:1-5

 

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◆2000.12.31 歳末礼拝

「共にいまし給う神」エゼキエル36:26-27、ヨハネ福音書14:15-21

         野崎卓道 牧師

 ◇主は弟子達との別れに際して「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14:13)と約束された。私達は20世紀を締めくくる礼拝において、一体何を私達の最も切実な祈りとして神に祈り求めるであろうか。

 ◇主はその直後に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」く14:15)と言われ、弟子達がまず神に祈り求めるべきものを教えておられる。「わたしの掟」とは「互いに愛し合いなさい」(13:34)という掟である。私達が目に見えないキリストを本当に愛しているかどうかは、目に見える隣人を愛するかどうかで判断されるのである。

 ◇私達は相次ぐ青少年の犯罪に困惑を覚えるが、聖書には「兄崩を憎む者は人殺しです」(?ヨハネ3:15)と記されている。私達もまた兄弟を心の中で憎むならば人殺しなのである.その罪の根源は神に対する畏れと愛の欠如にある。今私達が一番必要としているのは、それらを私達の内に造り出して下さる「聖霊」を求める祈りなのである。

 ◇そのような私達のために、キリストは「別の弁護者」である「真理の霊」(14:16、17)を父に祈り求めて下さっている。ここで言う「真理」とは、イエス・キリストご自身のことであり(14:6)、聖霊は今も生きて天におられるキリストを、私達の所にまで運んで下さる方なのである。「世」はこの霊を見ることも受けることもできない(14:17)。私達は新しく生まれ変わらなければ、決して聖霊を見ることはできない。

 ◇聖霊は「洗礼において最も顕著に働く。エゼキエルは、イスラエルの民の捕囚からの帰還との関連において、この聖霊の働きについて述べている(36:25節以下)。イスラエルの民は、神との契約に背いたために神に見捨てられ、民全体として」みなしご」としての運命を辿ることになった。しかし、主なる神は、彼らを捕囚から帰還させるのみならず、頑なな民の心を神の霊によって根本から新しく造り変え、神を愛し、神の掟を守ることができるようにして下さると約束して下さった。それはイスラエルを取り巻く諸国民にまで波紋を及ぽすような出来事となるく36:23)。

 ◇新しく始まる世紀の歩みは「聖霊を与えたまえ」という祈りにかかっている。この祈りには、神なき世界を根底から覆す力が秘められているのである。

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◆2000.12.24 降誕祭礼拝

「希望の星」イザヤ書60:1-6、マタイ福音書2:1-12

         大宮 溥 牧師

 ◇2000年のクリスマスにあたり、世の光であるイエス・キリストが、新しい世紀を導く希望の島としてわれわれを照らし導かれるように祈るものである。

 ◇キリスト降誕の時、輝く明星が東方の博士たちを導いてユダヤの地まで旅をさせた。彼らは民族主義的閉鎖性が強かった当時のユダヤ人にとっては別の世界の人間であった.しかしベツレヘムの星は人々をそれぞれの自分の世界から連れ出し、互いに出会わせ、共に歩むように導いたのである。今日われわれは地球時代を迎えて一つの運命共同体として歩まなければならないが、それを可能にするのはキリストである。

 ◇東方の博士たちは「占星術の学者」であった。占星術は古代の天文学である。それは現代の天文学と違って、外の宇宙を客観的に観察するだけでなく、そこから人間の運命、精神的内的世界をも解明しようとした。今日人間は科学技術的には大きく進歩したが、自分自身の内なる世界については全く未熟で、自己制御する力がない。博士たちほ星に導かれてユダヤにやってきた。この地では内的世界の解明が、何百年にもわたって続けられていた。そこでは天地の造り主である神が一人一人の人間と、人格的に一対一の関係を結んで下さり、共に歩まれるという救いの歴史がたどられていたのである。預言者たちは、闇の中を歩む同胞に対して「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(イザヤ60:1)と告げ、その力によって新しい歴史を築くように励ましたのである。

 ◇このユダヤの地に東方の博士がやって来たのは深い意味をもっている。旧約の歴史は、神が恵みをもって全人類を創造したけれども、人類は神に背いて滅びの中に迷い出たので、神は人類の中からイスラエルを選び、神の民としたと告げる。しかし彼らも逆って、残りの民は更に搾られ、最後にはイエス・キリストお一人が残る形となった。ところが神はこの一人を通して人類の救いを成しとげられた。旧約は世界の救いが搾られて主イエスー人に集中した歴史である、新約は救主一人から発して救いが全人類に及ぶ展開となった。それ故異邦人である博士たちが、旧約の民ユダヤ人と出会い一つとなったのである。

 ◇イエス・キリストは世界を造りて導かれる大いなる神が、「人の人間として生まれ、人間のために命を捧げげて下さるという恵みの凝結となって下さった。このキリストがすべての人の人生を、喜びと希望の星として照らして下さる。今日の世界も、人の心の世界も暗い。主を仰いで光を得よう。 

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◆2000.12.17 待降節第3主日礼拝

「神われらと共に」イザヤ書7:10-14、マタイ福音青1:18-23

         大宮 溥 牧師

 ◇マタイ福音曹はイエス・キリストの誕生をイザヤのインマヌエル預言の成就として記している。このインマヌエル預言は、シリア・エフライム戦争の時に語られた。当時の世界を支配していたアッシリアに対して対抗同盟を結成したシリアとイスラエルがユダに対しても加盟を求めた。ユダの王アハズがこれを拒否すると、両国はユダを攻め滅ぼそうとした。この報に動揺する王に対し、イザヤは神に信頼して断固として立っことを勧めた。しかしアハズは確信が持てず、アッシリアに頗って隣国を滅ぼそうとした。この不信仰と姑息な王に失望したイザヤは、函の将来は今生まれようとしている「インマヌエル」によってのみ開けると預言したのである。

 ◇このインマヌエルが誰であるか。これをアハズの子ヒゼキヤと解釈することもできる。列王記は彼をユダのすべての王の中で最も固く信仰に立ち、国を救ったと評している。しかし後にこの預言は、旧約全体が待望した救主の来臨を指すものとして受け取られたのである。

 ◇処女降誕という表現は、古代においては王や賢人について、その人が神から特別な賜物や能力を受けていることのしるしとして用いられた。主イエスの場合も、それによって、王が真の神の子であることが言いあらわされているのである。主イエスの誕生は、神が人間と直接的に結びついた形で起ったことを示している。神の人間奪取の行為(熊野義孝)である。人間は神によつて、神の像に似せて造られた。しかるに人間は神に背を向け迷い出ている。それによって、神以外のものの奴隷になっている。金や名誉や憎しみや怒りの奴隷であり、最終的には罪と悪魔と死の奴隷である。このように人間を縛り閉じ込めている力を打ち砕いて、人間の只中に乗り込んで釆て、人間が神から離れる余地が全くない形で、神人結合をなしとげられたのがイエス・キリストである。王イエスが悪魔を追い出す力を発揮されたのは、そのためである。それ故主はインマヌエル(神は我々と共におられる)(23節)と呼ばれるのである。

 ◇ヨセフはイエス誕生の告知を受けた時それを全き信仰をもって受け取り、主イエスを迎えた。マリアは信仰を告白して御子を迎え、ヨセフは沈黙の中で行為をもって御子を迎えた。主イエスを迎えるには、主とわれわれとの間に何も介入させない、全き信仰が求められる。中世の人々は、信仰者の姿として祈って御子を迎えるマリアとキリストを担って嵐の中を川を法るクリストフォロスを描いた。この道を歩もう。 

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◆2000.12.10 待降節第2主日礼拝

「来るべき方」土師記13:2-14、マタイ福音書11:2-19

         大宮 溥 牧師

 ◇待降節第二主日は聖書主日とされ、キリスト証言としての聖書を覚え、その頒布のために尽くす日である。今日の旧約日課は土師サムソンである。この人は土師の最後の人物であり、その働きには問題もあった。ある注解者はサムソンが、自分の愛を幾度となく裏切られながら、一筋に愛する姿の中に、背きつづけるイスラエルを愛しつづける神が示されているという。その意味でサムソンの働きでなく存在そのものが、神の愛のしるしである。このような聖書の救済史の頂点としてのイエス・キリストは神そのものの受肉であり、その存在と働きを適して、人間の救いを成しとげたのである。

 ◇旧約の証人たちの最後が洗礼者ヨハネである。彼はイエスがメシアであることを洞察し、証言した。しかしメシアが来たというのに、ヨハネの生涯は華々しい出発の後、マケラスの砦に幽閉され悲劇的な最後をとげた。牢の中でヨハネは自分の人生は何であったかと問い、あのイエスは来るべきメシアだったのだろうかと深刻に問うたのである。

 ◇このヨハネの問いは二つの点を含んでいる。第一は王イエスの姿はヨハネが抱いたメシア像とは違っていたということである。彼は厳しい審判者としてのメシアを想定していた。しかしイエスは、当時の宗教家たちが罪人として排除していたような人々と交わり、彼らを神の民として迎え入れられた。第二は、イエスは真にメシアであるかどうかという問である。それに対して主は、彼がどのような存在であるかは、彼の働きによって知られると答えている(5節)。ヨハネは恐らく、その働きは自分のところにまで届いていないとつぶやいたかも知れない。

 ◇主イエスは、苦しむ者の場に来て、彼と連帯された。苦しむ者は、孤立した状況でなく、主イエスと共に生きることができた。その時「日の見えない人は見え、足の不自由な人は歩」くことが起ったのである。ヨハネもまた孤立していたのでなく、あの十字架について滅びの只中に立たれた、主イエスと共にあったのである。

 ◇しかし主イエスの「時代」(16節)の人々は、「笛吹けども踊らず、悲しみの歌うたえど嘆かず」(17節)という、無関心の状態であった。神の子が自分たちのところに来ておられるのにも気付かず、隣人に対しても無関心であった。今の時代も同じではなかろうか。「わたしにつまずかない人は幸いである」(6節)と語られる主イエスを、心新たに迎えよう。

 

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◆2000.12.03 待降節第1主日礼拝

「目覚めて待つ」イザヤ書2:1-5、マタイ福音書24:36-44

         大宮 溥 牧師

 ◇待降節はクリスマスを待つ時であるが、同時にキリストが再び来られるのを待ち望む思いを深める時である。2000年のクリスマスを迎えて、21世妃に入ってゆこうとする時、われわれは何を待っているであろうか。20世紀に入ろうとする時、人々はわれわれよりはるかに希望に満ちていた。生物進化論から発展史的展望を持ち、生活の進歩向上を確信していたのである。それに対して現代は、人口爆発、食糧危機、資源枯渇、環境破壊等の問題がつきつけられて、発展どころか、生き残りが可能かどうかが問われている。

 ◇ここで求められるのは、人間が自分と環境に対して管理責任を果す「責任社会」の担い手になることである。「成人した世界」(ボンへッファー)を形づくることである。ところがそのような要請とは反対に現代の人間は幼児化し、人間崩壊が起っている。このような中で、明日の世界を築き得る、新しい人間の創造が切望される。そのためには、第一に、未熟で問超に満ちた現実の人間が、拒否され排斥されるのでなく、受け入れられることが必要である。愛されて、自分も愛する者とされることが必要である。それと共に第二に、愛の中で成熟し、現実の挑戦に対して責任ある応答ができる人間が形成されることである。

 ◇このような時代の要請に対して、待降節は何を語っているであろうか。日本基督教団の教会暦は、今年から4年サイクルの主日聖書日課を採用しているが、今日のテキストで、旧約の御言葉は終末の希望を伝えている(昨年の教会標語)。ここには、神関係の確立(2-3節)と平和の確立(4節)が語られている。これは人間における神との関係という縦紬と、隣人との関係という横抽とが確立することである。人生の座棲紬がしっかりと踏まえられて、新しい人間が生まれることによって、新しい世界が開けるのである。

 ◇新約の御言葉は、キリストの来臨を目覚めて待つようにとの勧めである。初代教会は再臨が何時あるかをめぐって動揺していた。それに対してこの御言葉は、再臨の時を計算したり先取りしたりするのでなく、それを主の手に委ね、いつでも主を迎えられるように、目覚めていることを勧める。そのためには、救主はすでに来られて、われわれの救いを成しとげて下さったことを想起することが大切である。キリストは、世界を一挙に変えるのでなく、一人の人間として来られ、われわれ一人一人を救って下さった。こうして人間が受け入れられて成熟し、現実の挑戦に応答して明日を開く。

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◆2000.11.26 契約節第4主日礼拝

「前からも後ろからも」詩編139:1-12、イザヤ書52:9-12

         大宮 チヱ子 牧師

 ◇来週から待降節に入るので、今日は終末主日、今週は教会暦の最後の週である。最後の預言者ヨハネを先ぶれとして、預言の成就者、完成者である主イエス・キリストが来られた。キリストは預言の時を終らせ、新しい時、救いの時を到来させられた。キリストは、私たちの時を根本的に変えられた。キリストによって、私たちの人生は死に向かい、終りに向かって進む人生ではなく、新しい生命、キリストによる全き祝福に向かう人生にかえられた。

 ◇詩編139編は、神の全知と遍在をうたっている。究める、知る、悟る、見分ける、通じるなど、1-4節の各節に違うことばを用いて、神の全知を讃美している。神はわたしをよく知っておられ、知りつくしておられる。わたしたち自身よりも更に深く知り、理解し、受けいれてくださっているのである。神はわたしたちを囲み、とらえていてくださる。「前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる」、「御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる」(5、10節)のである。

 ◇また、神はどこにでもおられる方であり、神の御手、神の御目から離れることはできない(7-10節)。「陰府に身を横たえようとも」、「海のかなたに行き着こうとも」神はそこにもおられる。

 ◇神は、放り出され、見放されたように思える、死の床、闇の中にも共にいてくださる。神は、明るい所、恵まれたように思える所にだけおられる方ではない。重い病いの床、深い悲しみの場、嘆きの渕にも必ず共にいてくださる。ヤコブもこのことを経験した(創世記28:16)。「夜も光がわたしを照らし出」し、「闇も、光も、変わるところがない」(詩139:1卜12)。

 ◇イスラエルの民は、たび重なる苦難、深い闇を経験した。彼らは異郷の地、神の恵みの外と思われる所に連れて行かれた。しかし、そこにも神はおられ、救いのみ手、解放のみ手が働くことを知らされた。「立ち去れ、そこを出よ」(イザヤ52:11)と告げられた。

 ◇しかも、急ぎあわてる必要はないと言われる。「先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(イザヤ52:12)である。軽い足どりでは歩けない時、重荷の故によろめき、思い悩んで釘づけになり、行く先が見通せないために歩けない時、わたしを知り、とらえ、囲んでいてくださる神が、先に立って道を示し、更に後にまわって守り支えてくださる。

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◆2000.11.19 契約節第3主日礼拝

「無限の苦しみと救い」創世記9:12-17、ヨハネ黙示録9:1-12

         大宮 溥 牧師

 ◇地球表面の汚染した大気が北極附近に蓄積されて、煙のような膜ができているということである。ヨハネ黙示録9章には「底なしの淵」から「大きなかまどから出るような煙が立ち上り、太陽も空も煙のために暗くなった」(2節)と記されている。更に「煙の中からいなごの群が地上へ出て来た」(3節)。このような地上を覆う闇といなごについては、出エジプトにも記されている。これらは、世界がその根源から破壊され、ちょうどダムが決潰して海流に押し流された附近の地のように、世界が崩れてゆく姿が示されているのである。

 ◇ヨハネ黙示録は世界崩壊の姿を次々に描き出しているが、9章の特徴は、その崩壊が外部的なものでなく、人間の内面の崩壊として描いていることである。いなごの大群は普通は「華や青物や木」(4節)を食い尽すのであるが、ここではそれが禁じられて、人間だけを苦しめることを命じられている。心がつぶれるような苦痛に襲われるので、人々は苦しみから逃れるために死を願うのであるが、死ぬことができず、無限の苦しみを生身で感じなければならぬというのである。

 ◇これは実は神のない世界の姿である。神が私をしっかり支えてくださらないなら、私は支えを失って、どこどこまでも落ちてゆくのである。このいなごの王の名が「アバドン」「アポリオン」(11節)といわれているのは、いずれも「滅び」という意味で、底なしの沼に落ちてゆく姿である。

 ◇旧約聖書のノアの物語は「地上に人の悪が増し」(創世記6:5)創造の秩序が破壊されて、洪水による滅びとなった。しかし神はノアとその一族を救い、これと虹の契約を結んで、二度と大地を呪うことはないと、愛の誓いを立てられた。この愛の働きを完成されたのが、イエス・キリストである。主イエスは黙示録9章に描かれているような、底なしの滅びの淵に身を投じられた。主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫ばれた時、底なしの滅びの中に落下されたのである。しかしそのことによって、神の手がその底にまで届いたのである。それ故にわれわれは、どんな闇の中、無限の苦しみの中にあっても、そこに神の手がのひてわれわれを捕えて下さることを信じることができるのである。今日人間は、神なき世界の深淵を見ようとせず、「見えるものだけを追いかけて、人間の心や宇宙の生命のような、目に見えないものへの想像力や畏敬の念を失ってしまった」(瀬戸内寂聴)。神関係の再建が急務である。

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◆2000.11.12 契約節第2主日礼拝

「御国の子どもたち」マタイ福音書19:13-15、ヨハネ黙示録12:1-6

         大宮 溥 牧師

 ◇只今幼児洗礼式を取り行い、わが教会の最も若い枝が主イエスの幹につながれた。

洗礼は神の「見えざる恵みの見えるしるし」であると共に、人間の「信仰のしるし」でもある。しかしこの二つは同列のものではなく、恵みが基礎である。幼児洗礼はこの「先行のめぐみ」に基礎を置くものであって、信仰の面では両親の信仰にもとづき、受洗者の信仰の告白は将来に期待されるのである。この際、われわれ各自が自分の子ども、自分の家族が主の御手にとらえられ、信仰に導かれるように、真剣に祈り、そのために務める使命を新たにしたい。

 ◇今日の聖書は、福音書では幼児を祝福される主イエスが示されており、この主が今も幼児を祝福しておられることを教えている。黙示録12章では、子を生もうとしている女と、生まれた子を食い尽くそうと女の前に立ちはだかっている竜が描かれている。この子どもは明らかにイエス・キリストを指しているので、その母は主の母マリアであると理解し、天上の祝福に包まれた姿で多くの絵が製作された(ムリリョやデューラー)。しかし全体的にみて、これは地上においてイエス・キリストを宿すものとしての教会を象徴していると解釈するのが適当であろう。

 ◇教会は太陽や月や星のような天の恵みに輝いている。しかし他面では子を生むために痛みと苦しみに泣き叫び、また荒野の旅の中にある。そしてサタンの攻撃の只中で生まれて来る子を守らなければならないのである。従ってこの女は厳しい世界の只中において、サタンの誘惑と戦い、神の国を目指して進み、また主イエスを人々に運ぶ教会の姿なのである。教会はキリストによって育てられ導かれているのであるが、外から見ると、キリストは教会を通してこの世に宣べ伝えられ、人々のところに運ばれてゆくのである。

 ◇それと同時に、教会はわれわれを神の子として生み出す「母なる教会」である。われわれは教会を通して、イエス・キリストと出会い、キリストの恵みを受け、神の子として生まれ出るのである。われわれは教会によって養われつつ、荒野のようなこの世の旅を、ひるまず臆せず進んでゆくのである。しかし他面教会とはわれわれ自身のことである。われわれが母として、自分の幼な子を養い育ててゆく責任を与えられているのである。今日人間が神との関係という縦軸と人との関係という横軸を失い、崩壊の危機にある。教会は真の人間を生み出し育てなければならない。「涙の子は滅びない」(アウグステイヌス)を信じて。

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◆2000.11.05 契約節第1主日礼拝

「夜明け前」ダニエル書11:1-13 ョハネ黙示録8:6-13

         大宮 溥 牧師

 ◇東京大聖書展に展示されている紀元元年ごろの人々の生活器具に触れ、死海写本を見ているうちに、当時の人々の生活と信仰が大変身近なものに感じられた。ヨハネの黙示録の時代のキリスト者も、われわれと同じような日常生活を送っていたのであり、彼らはわれわれと同じような世の中の動きの中から、神が自分たちに語っておられることを聞き取ったゐである。

 ◇黙示録8章後半には世界の天変地異が記されているが、この光景は出エジプト記・8-9章の神の審判の状景と似ており、また執筆当時の不穏な社会の動き(例えばヴエスピオ火山の爆発によるボンベイやヘルクラネウムの町の埋没)が反映している。

「苦よもぎ」(11節)はロシア語では「チェルノブイリ」で、われわれがあの原子力発電所の事故を聞いて、恐怖と不安におびえた、あのような末世的不安が描かれているのである。黙示録は、そのような現象を通して神が何を語っておられるかを聞こうとしたのである。

 ◇このような天変地異の原因は、神の計画によるのでなく、人間が神の意志に背いてサタンと結託し、自分のために巨万の富を築き、自分が神であるかのように振舞った(バビロン)結果として起っている。自然が荒れはて、地球が汚染されるのは、人間に責任がある。その根本には、神と人間との関係、隣人との関係、更には自然と人間との関係が崩れているという問題がある。それが崩れる時に、ここに描かれている様に、緑の大地は焼けた砂漠となり、海は水俣のようになり、空は異常気象によって寒冷地が生じるのである。

 ◇しかしここで、大地も海も川も空も、損われるのは三分の一だと言われていることが注目される。それは深刻な被害ではあるが全滅ではない。まだ回復の希望が残されているのである。神の警告を聞いて目を覚まし、悔い改めて出直すならは、回復のチャンスは残されているのである。特にキリスト者は、世界の終りのような破局の只中にあっても、絶望せずに希望をもって歩むことができる。イエス・キリストは十字架の滅びの只中から再起し、復活の勝利を得て、われわれを導いて下さるからである。

 ◇旧約の黙示文学の代表であるダニエル書も、試練の時は3時期半、3年半だと告げている。7という完全数の半分である。夜はやがて明けるのである。金大中氏がかつて死刑判決を受けた時「夜明け前には闇が最も深くなる。諸君、希望をもって歩もう」と語った。ここにキリスト者の信仰と希望が告白されている。

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◆2000.10.29 在天会員記念礼拝

「神の都」ヨハネ福音書11:25-26 ョハネ黙示録21:9-27

         大宮 溥 牧師

 ◇ヨハネ黙示録21章は神の都の幻を記しているが、ここで天使はヨハネに「小羊の妻である花嫁」を見せてあげようと告げている(9節)。「小羊」とは、わたしたちの救いのために犠牲となって下さった主イエスのことである。その主が人間を花嫁として愛し、迎えて下さるのである。これは個人としての人間というより、神の都、教会、聖徒の群である。主は人類を自分の愛のパートナーとして選び、愛し、共に歩んで下さると約束されるのである。

 ◇この神の都について「四角い形で、長さも幅も高さも同じである」(16節)と語られている。米国の黒人解放運動の指導者であったマルティン・ルサー・キング牧師が、ここをテキストとして説教し、「全き生命の三次元」について語っている。「長さ」とは「自分を成長させる」次元であり、「幅」とは「他者と共に生きる」愛の次元であり、「高さ」とは「神と共に生きる」信仰の次元である。われわれの人生は、この三方向において成長を遂げることである。神がわれわれをありのままに受け入れ、主の十字架を通して救って下さることを知る時、われわれは深い感謝をもって、自分を主の御用のために捧げる。召命に生きるのである。それが与えられた自分の最善を冬す人生となり、隣人と神を愛する人生となる。今日の人間は、この生命の三次元が失われ、あるいは幅と高さを欠いた人生を歩んでいる。そこに人間喪失の原因がある。

 ◇このような、いびつな人生が、神の都においてはつり合いの取れた「長さも幅も高さも同じ」正方形になるというのである。神の都は地上の生活の完成態である。在天会員の方々に触れて、神が人間を荒けずりな、あるいは欠けの多い生活から、次第に訓練されて成熟した「神の作品」(エフェソ2:10、口語訳)として下さることを知らされた。またクリストフ・ブルームハルトがゴットリーピン・ディトゥスの終りの姿から神の勝利の確信を与えられて牧師として立ち上ったことなども、神の都に対する希望を与えるものである。

 ◇また「都の中に神殿を見なかった。神と小羊とが都の神殿だからである」(22節)。神殿は、地上における神不在の不安の中で、神の存在を思い起させるものである。しかし神の都はどこでも神を見て生きるので神殿は不用である。「この都には太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりである」(23節)。神御自身が、われわれの命と愛の光である。われわれは死の闇に消えるのでなく、神の栄光に照らされて生きる。

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◆2000.10.22 全家族礼拝

「父の家」ルカ福音書2:41-52

         大宮 溥 牧師

 ◇今月南アフリカで聖書協会世界連盟の世界大会があり、世界の140ほどの国から400人ほどの人が集まり、聖書を世界のどの言葉でも読めるようにして、すべての人にとどけようと話し合いと計画を立てました。聖書協会の起りは1804年イギリスからですが、その設立の力になったのはメリー・ジョーンズという少女の話でした。彼女は聖書の話によって喜びや力が与えられたので、何とかして自分にわかるウエールズ語の聖書が欲しいと思いました。しかしそのころは聖書は高価で仲々買えませんでした。彼女は働いてお金をため、山の向こうの町に聖書を持っている人があるというので、遠い道を出かけてゆき、靴が破れてはだしになりながらたどり着いたのですが、そこにあったのはウエールズ語聖書ではありませんでした。この話を聞いた人々は、聖書は心の糧なのだから、世界中の誰でもが自国語で、しかも買うことができる値段で、聖書を持つことができるようにしようと話し合い、英国内外(英国及び外国)聖書協会を作ったのです。

 ◇この運動は英国から世界中にひろがり、今では130の各国聖書協会があります。日本もスコットランド、英国、米国の聖書協会が125年前に活動を始め、現在は独立した日本聖書協会になっています。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)。だから、すべての人に聖書がとどけられ心の糧がとどけられることが必要なのです。

 ◇イエス様は、聖書を通して、この世が「父の家」であることを知っておられました。世界が父の家だとわかると、どんなところへ行っても、わが家のように安心し、人々を神の家族として受け入れ合って生きることができるのです。

 ◇南アフリカに行った時、ノーベル平和賞を受けたこともあるデスモンド・ツツ大主教にお会いしました。南アフリカの有色人種差別政策の徹廃のために、勇気をもって働いた人です。この人が自分は小さい時から聖書を通して、この世界は神様によって造られ、神様が父として働いておられる「道徳的な世界」だということを教えられてきた。だから、政治や軍隊の力で一部の人間が他の人間を押しつけ、無理を通そうとしても、神様の御心にかなわないことは決して長つづきしないことを信じて、どんなに苦しい困難な時でも、希望を失わず、投げやりにならずに、最後まで頑張ることができたと、話されたのです。世界が父の家だと知っている人の信仰に触れました。

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◆2000.10.15 聖霊降臨節第19主日礼拝

「福音の前進」イザヤ書55:6-13、フイリピ書1:12-20

     須田 則子 牧師 

 ◇パウロは自らの逮捕、監禁、裁判という一大事にあったが、その苦しみをくどくど述べるより、どうしても伝えたいことがあった。この事態によって福音が前進したことである。

 ◇パウロはこつのことに前進を見た。第一に彼が監禁されているのはキリストのためであると兵営全体、その他全ての人々に知れ渡ったことである。兵営とはエフェソかカイザリアの地方総督の官邸、あるいはローマ皇帝の親衛隊のいた場所である。パウロはここに監禁され裁判を受けていた。

主イエスを裁いたローマの権威の面前で、パウロは「キリストは復活された」と福音を語った。福音は敵地の真っ只中に進み行つた。また、裁判の進行につれ、パウロは不名誉なことで捕らわれているのでなく、福音の信仰のためだと多くの人々が知るようになった。

 ◇もう一つの前進は、多くのキリスト者たちが確信を得、恐れることなくますます勇敢に御言葉を語るようになったことである。パウロの逮捕で伝道活動は打撃を受けると誰もが思った。もしこのまま福音が廃れるなら、事柄を左右するのは福音そのものでなく福音を語る者となる。才能ある伝道者がなんとか福音という言葉を作り上げ前進させるのである。しかし福音は神の言葉である。福音、神の言葉自体が伝道者を作り上げるのである。

 ◇この手紙が書かれた30年ほど前、ステフアノの殉教にはじまった大迫害の時も福音の危機と思われた。指導者たちが殺され、捕らえられた。この危機の時、神は福音の敵であるパウロを召しだした。罪を赦す福音によって彼を伝道者に作り出した。今やパウロの逮捕において、神は新たに多くの伝道者たちを百しだし福音を語らせた。これまで遠慮、席捲していた伝道者たちも自ら語る時と確信し、共に御言葉を語った。

 ◇ただしパウロに対する妬みの念によって伝道する者もいた。しかしパウロは意に介さない。妬む者の気持ちをよく理解できた。かつて自らもキリスト者を羨み苦しめた。彼らの方が神に愛され選ばれていると思うと我慢ならなかった。だが主がどれほど愛してくださっているかを知った時、妬む思いは軽くされた。神はまだ完全に主の愛に気づかず、妬む者をも福音宣教のために用いたもう。用いられるうちに、福音を聞きつづけるうちに、その妬みも癒される。そしてただキリストあがめられんことを願う。パウロの願いは一人でも多くの人が福音を聞き、公にキリストをあがめることであった。この福音の前進のため我々も労したい。

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◆2000.10.08 特別礼拝-神学校日・伝道献身者奨励日-

「失われた者を捜して救う」ルカ福音書19:1-10

     ロンドンJCF牧師 盛永 進 先生 

 ◇エリコの町にザアカイという人がいた。正しい人、あるいはヤーウェは覚えられるという意味の名である。信仰者の家庭に生まれユダヤ教徒になるための教育を受けたことであろう。だがこの人は微税人の頭だった。微税人はローマ帝国の手先となって同胞から税金を徴収するだけでなく、一定額を納めてしまえばあとは腕次第でいくら取り立てても構わなかった。人々は微税人を罪人、売国奴と言って軽蔑していた。

 ◇ザアカイは欲したことは人目を気にせず実行した。イエスを見たいと思ったが、背が低くて群衆に遮られて見ることができないとなると、走って先回りをし、いちじく桑の木に登った。ユダヤ人が走るというのは尋常なことでない。いちじく桑は簡単に登れる木ではない。なぜ、ザアカイはそこまでしてイエスを見たいと思ったのだろうか。救われたかったからである。

 ◇ザアカイは何から救われたかったのだろうか。微税人としてこれまで人々を悲しませ傷つけてきた「加害者」であることから救われたかったのである。主イエスは何ょりも加害者、罪人に下されるであろう裁きのために泣け、嘆けと言われた(ルカ23:28-31)。今年のヨーロッパの修養会はオランダが主催し、主題は「和解」であった。アニーさんという女性が、日本軍の作ったインドネシアの収容所での経験を語られた。12-18歳までのことであった。厳しい収容生活のため解放時には8歳位にしか見えないほどであった。長い長い間、そこで受けた傷、悲しみ、恐れは癒されることがなかった。

 ◇話を聞いた者たちは日本人であることの恐ろしさを思い、申し訳ないことをしたと謝った。しかし同時に、このような「被害者」の方には慰め・救いがあるが、「加害者」である日本には慰めのないことも示された。戦後55年、悔い改めてキリスト者となった日本人の数は人口の0.8パーセントであり、それが減少しつつあると言われている。我々は「加害者」日本のために泣くべきではないか。

 ◇ザアカイは救われたいと走っただけだった。しかし主イエスはその願いに十字架の死による罪の購い、赦しをもって応えられた。神との和解を得たザアカイは人々と和解するため立ち上がった。和解は口先ではない。痛みを伴って初めて可能である。ザアカイは償いを申し出た。罪を自覚することなしに、自らを投げ出すことなしに平和を築くことはできない。命をかけて日本の宣教のために尽くすよう我々は招かれている。

 

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◆2000.10.01 世界聖餐日礼拝

「激動の世界と安息の時」申命記5:1-15ヨハネ黙示録8:1-5

       大宮 溥 牧師

 ◇シドニーオリンピックでは、多くの白熱のドラマが展開された。ヨハネ黙示録はオリンピックのようなエリートの晴舞台でなく、人類全体が直面する、現実の厳しいドラマである。それは世界の破滅のドラマであると共に、その破滅の中から芽生える新世界のドラマでもある。

 ◇そこには激動のドラマが描かれているのであるが、8章冒頭では突然一切の音が消え、静かな沈黙が世界を包むのである。その沈黙の中で7人の天使が神の前に立ち各自ラッパを与えられて、それを吹く準備をする。それが甘く時世界は崩れる。更にもう一人の天使が金の香炉を手にして祭埋の前に立った。香炉には聖徒の祈りが盛られ、神の前に登りゆくと共に、香炉が地上に投げつけられると、大音響と共に地の基が震え動いたのである。

 ◇この沈黙の時は、激動の歴史を生きる人々に、神が「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:10)と語りかける時である。人生も歴史も際限なく走り続けることはできない。休み、自分を取り戻し、体制をたて直してまた進むのである。聖書が一週間に一度の安息日を定めているのも、人間が神の前でその歩みを止め、沈黙し、神の言葉を聞き神と交わることによって真の歴史の担い手となることを教えているのである。そこで人間は、神が歴史の主役であり、自分は神に召され、使命を与えられて生きていることを確認するのである。

 ◇今日の御言葉で特に印象深いのは、天地静寂の中で、天使が聖徒の祈りを盛った香炉を、神の御前に登らせると共に、それを地上に投げると、大地が大音響を立ててゆるぎ動いたという光景である。これは第一には祈りは必ず神の耳に届き、心に刻まれることをあらわす。そして第二に、聖徒の祈りは大地をゆり動かすはどの力があることを示している。

 ◇「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(ヤコプ5:15-16)。祈りは、人間の力の発揮ではなく、感応電流のように、神がその祈りに応えて下さることによって、この世界を動かすことができるのである。長崎の原爆はカトリック信者の多い浦上地区に落ちた。この地の信徒たちは、同胞への神のさばきを自分たちが代って受けたと理解し、戦後は同胞の癒しと慰めを熱心に祈ったと言う。戦後の日本の平和は、そのような聖徒の祈りが聞かれたのではなかろうか。

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