◆09.30「自己回復の道」マルコ福音書5:1-20
◆09.23「謙遜」詩編113:1-9、フィリピ書2:1-11
◆09.16「神の国と地の国」エゼキエル書37:23-28、ヨハネ黙示録17:1-14
◆09.09「目覚めへの促し」出エジプト記9:1-7、ヨハネ黙示録16:1-21
◆09.02「解放の岸辺にて」出エジプト記15:1-6、ヨハネ黙示録15:1-8
◆08.26「人生の結末」マタイ福音書12:43-56、ヨハネ黙示録14:14-20
◆08.19「七の七十倍までも」マタイ福音書18:21-35、ローマ書5:1-11
◆08.12「恵み」エレミヤ書15:15-21、フィリピ書1:27-30
◆08.05「新しい歌」ホセア書6:1-6、ヨハネ黙示録14:1-13
◆07.29「忍耐の時」マタイ福音書8:5-13、ヨハネ黙示録13:1-18
◆07.22「荒れ野の教会」ダニエル書12:1-3、ヨハネ福音書12:1-18
◆07.15「見よ、神の小羊」ヨハネ福音書1:29-34
◆07.08「神の国」イザヤ書49:14-21、ヨハネ黙示録11:15-29
◆07.01「主の証人」申命記26:1-10a、ヨハネ黙示録11:1-14
「自己回復の道」マルコ福音書5:1-20
大宮 溥 牧師
◇20世紀に入る前にドストエフスキーは当時のロシア社会でニヒリズムや革命思想が吹き荒れているのを見、それがやがて人間の憎しみと自己破壊に終ることを予感して『悪霊』という長編小説を書いた。これはマルコ福音書5章の悪霊物語にヒントを得ている。この予言は20世紀末のソ連崩壊という形で適中した。最近のテロ事件は「悪霊」の21世紀版ではないであろうか。
◇主イエスがガリラヤを離れて異邦の地に行かれた時、一人の異様な形相の男に出会った。彼は「墓場を住まいとしていた」(3節)。墓は普通の人なら長く留まろうと思わない。そこに敢えて住むというのは、彼が死者よりも生きた人間を恐れたからではないか。彼は社会の中で深く傷つけられ人間恐怖症に陥っていたのかも知れない。しかも墓さえ彼にとっては安住の地でなかった。悲鳴をあげ、石で自分の身を傷つけていた。自己分裂に陥っていたのである。
◇彼は「レギオン」に憑かれていた。レギオンはローマの軍隊で、6000人から成る軍団のことであった(2000人とも言う)。彼の内には数千の悪霊が住んでいた。これはいろいろの衝動や欲望が吹き出して自己分裂を起し、人格的制御がきかなくなった状態を示している。
◇この男に向って主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」(8節)と権威をもって命じられた。この人は神のものであり、神の愛の対象である。神以外の何物もこの人を支配することは許さないと宣言されたのである。そして豚2000匹を犠牲にしてもこの一人の人を救おうとされた。その窮極は、人々の救いのために自分の命をも投げ出すという十字架の犠牲愛である。このようなすさまじいばかりのキリストの愛に触れた時、悪霊は退散し、この人は正気に戻ったのである。
◇ドストエフスキーの『悪霊』の中で、多くの青年たちが虚無思想と革命思想に駆られて挫折してしまった時、彼らの思想的教師であった人物が、これまでの経過を回想して、ロシアはゲラサの悪霊に憑かれた男のように、いろいろな思想や運動によって自己分裂し、苦悩している。しかしそのような祖国をやがて「偉大な思想、偉大な意志」が照らすにちがいない。そして病んだロシアも癒やされてイエスの足もとに座るにちがいないと語るのである。21世紀になっても、われわれの社会や世界は憎しみや敵意の悪霊に取り憑かれて、自己分裂を起している。個人もそうである。このようなわれわれにも、「お前は神のものだ」と宣言し、命と愛を注がれる主を仰ぎたい。
「謙遜」詩編113:1-9、フィリピ書2:1-11
須田 則子 牧師
◇「あなたがたがずっと幸いであるように。」パウロは願いを込め、フイリピ教会の人々に手栽を書き送りました。私どもの幸いは、神に祝福されるにあります。パウロは神の祝福が既にフイリピの人々に与えられていると示しました。1節の「キリストの励まし、愛の慰め、霊による交わり」は、フイリピの人々が礼拝の度毎に聞いていた祝祷、祝福の宣言でした。パウロは「あなたがたは既に祝福を受けている。だから、その祝福に背を向けないでほしい。一つ思いとなり、私の喜びを満たしてほしい」と願いました。
◇パウロの喜びは神の喜びと結びついています。パウロの愛するフイリピ教会には、神を喜ばせるだけでなく、悲しませるもの、不和、争いがありました。原因は利己心、虚栄心です。利己心は、日雇い人として働く意味から来ています。パウロは「あなたがたは、その日暮らしのため、がむしやらに自己主張し、周りを押しのけなければならない立場ではありません。祝福された神々の子供です」と説きました。
◇そして神の喜ぶ道を示します。「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、他人のことにも注意を払いなさい。」(3-4節)平等と言うだけでなく、相手を自分の上に置きなさい勧めました。世界貿易センターピルのテロ事件において、多くのレスキュー隊員が、一人でも多くの人が助かるようにとビルに向かいました。隣人の命を自らの命をかけるほど大切に思い、その命を救うことを自らの「使命」とする人々でした。
◇フイリピの人々は全て、神を証しする「使命」のため聖別された人々です。傲慢、張り合う姿は神を証ししません。真の神は、へりくだる神です。6節から11節は当時の讃美歌と言われ、主の謙遜の美しさを讃え歌います。詩編113寓6節の「なお低く下って」は、主がこの私どもをめがけて下ってこられたことを示します。主は、人となり、僕として神と人に仕え、私たちを救わんとする父の御心と思いを一つにして、十字架の死を遂げてくださいました。
◇キリストは神の身分でありながら、神と等しくあることにしがみつかれはしませんでした。どうしようもない罪人をご自分の上に置き、私たちのため、人として最低、最悪の逼を歩まれました。主のへりくだるお姿は、本来、私どもの姿でもあったのです。真実の生き方は、一度失われましたが、天に用意されています。この生き方を今はじめなさいと主は招いておられます。
「神の国と地の国」エゼキエル書37:23-28、ヨハネ黙示録17:1-14
大宮 溥 牧師
◇先週ニューヨークとワシントンで起った同時多発テロは、多くの人の命を情容赦なく犠牲にするという非人道的な惨事であった。110階建のビルが炎上倒壊する情景を見て、旧約聖書のバベルの塔の崩壊の姿を思い浮かべた(創世記11章)。天に届くかと思われた塔が廃墟となったのは、人々の言葉の乱れ、コミュニケーションの断絶が原因であった。今回の惨事も、テロリストたちが他の者にとっては絶対に受け入れることのできない「力の言葉」を実行に移したことから起った。自分の要求と力を押しつける「力の論理」は、人類の破滅に至る。今回の惨事は「力の言葉」を語る者への悔改めと、われわれが地球規模で「愛の言葉」を語るようにとの決意を促すものである。これは黙示録の現代版である。
◇ヨハネ黙示録17章は、罪の母とも言うべきバビロンに対する審判を措いている。ここには「赤い獣にまたがっている一人の女」(3節)が登場する。この女は旧約聖書が記しているフェニキヤのティルス(エゼキエル28:13)、メソボタミヤのバビロン等の姿をしているが、実際には当時のローマが考えられている。繁栄と不道徳の都である。また「獣」はローマの政治的支配者である。「以前いて今はいないが、やがて来る」(8節)というのは、再来が恐れられていたネロ皇帝と思われるが、「今おられかつておられ、やがて来られる方」(1:8)である神に対抗する者である。
◇この獣と小羊との戦いは、ローマ帝国のキリスト教迫害が示唆されている。そして「小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」(14節)との約束は、「地の国」に対する「神の国」の勝利を告げるもので、ある。ヘンデルの「メサイア」のハレルヤコーラスのように、われわれは「the King of kings, teg Lord of lords」の勝利を信じ、主を讃美し、希望をもって生きるのである。
◇その際、バピロンの滅亡は神の反撃によるのでなく、女と獣の同士討ちによって自滅するように描かれている。「あの獣はこの淫婦を憎み……火で炊き尽くすであろう」(16節)。悪は自らの悪によって滅びるのである。それ故初代のキリスト者たちは迫害に対して非暴力抵抗の道を歩んだ。「愛する人たち、自分で復曹せず、神の怒りに任せなさい。……悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロ-マ書12:19、21)。今日も「力の言葉」に対して「愛の言葉」が語られ、実を結ぶことが求められる。
「目覚めへの促し」出エジプト記9:1-7、ヨハネ黙示録16:1-21
大宮 溥 牧師
◇キリスト教は歴史的宗教である。神は歴史の流れの中に働き、歴史を通して人類を救うと信じるのである。そして歴史の目標は神の国である。われわれは「御国を来らせたまえ」と祈りつつ、またこの世を神の国をモデルとして築こうとつとめる。
◇ヨハネ黙示録16章は、神の国が来る前の最後の審判の幻が描かれている。七人の天使が「神の怒りが盛られた七つの金の鉢」を地上に傾けると、恐ろしい天変地異が起こり、人々は苦しみもだえる。これは出エジプト記に描かれている、神の与えるわざわいが全地球的規模で下されている。人間が高ぶり、神と人間の位置を逆転させると、世界の秩序が破れ、母なる自然が怒れる自然に変わって人間を襲うのである。
◇今日自然破壊によって生態系が崩れ、人間の健康と環境が引き裂かれるという間遠に直面して、現在の世界が黙示録的な姿に変わっていることを感じる。これは神が人間を自覚ませるために警告を与えておられるのである。エゴイスティツクな資源浪費、生命軽視などのライフスタイルの変革が求められると共に、その根本にある神の否定や無視に対する、神御自身の警告が発せられているのである。神を無視することによって人間生活の基礎が崩れている。それに対して「お前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモス4:12)と呼びかけられているのである。「人よ何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
◇ところが黙示録16章では、神がこのような警告を発しておられるのに、人々は悔改めるどころか「神を冒頭した」(9、11節)。ここに人間をますます頑なにする闇の力、サタンの力が働いていることが明らかになる。アウグステイヌスがこの世の歴.史を「神の国」と「地の国」というこつの力の抗争として措いている。「神の頭」とは神への愛によって動く力であり、「地の国」とは自己愛によって動く力である。その対決の場が「ハルマゲドン」(16節)である。ハルマゲドンは「メギドの山」という意味で、旧約聖書におけるユダ王国宗教改革の名君ヨシュアの敗北と戦死の地である。天下分け目の戦いの決戦場である。神とサタンとの決戦場である。主イエスは十字架と復活を通じて、このハルマゲドンの戦いを戦い、勝利をもたらし、人間救済の道を開かれた。われわれはその勝利の力を与えられ、主に従って戦わなければならない。「イエスは今に至るまで苦しんでおられる。わたしたちは呪ってはならない」(パスカル)。
「解放の岸辺にて」出エジプト記15:1-6、ヨハネ黙示録15:1-8
大宮 溥 牧師
◇黙示録15章には最後の審判開始の情景が描かれている。鏡のように静かな海の岸辺に、聖徒の群が立って、手に堅琴を持ち、神をほめたたえている。この情景は直ちに旧約聖書に記されている出エジプトの出来事を思い起させる(出エジプト15章)。エジプトの奴隷となって苦しんだイスラエルが、助けを求めて神に叫んだ時、神は葦の海(紅海)の水を二つに分けてイスラエルのために脱出の道を開き、それを追跡してきたエジプト軍には水を流れ帰らせて打ち破った。民は海辺に立って、神の救いを日のあたりに見、感謝と歓びの歌をうたったのである。
◇最後の審判においてもこの出エジプトのような救いの業が再現する。ただ彼らが立つのは「火が混じったガラスの海」(2節)である。火は神の裁きを示し、ガラスは透明な濁りのない状態を表すので、この海をくぐり抜けるというのは、神の裁きを受け、潔められることをあらわしている。この世で信仰の戦いと試練に会った者たちが、十字架の血によって潔められ、この世の悩みと苦しみから解放されて、御国の岸辺に立つのである。
とではなかった。この海辺は彼が立っているパトモス島の海辺と重なり合っていた。彼は迫害と追放の波を乗り越えて、ここで「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と語られる主との交わりを与えられていた。この信仰の勝利を最後の審判においても与えられるとの希望を彼は与えられていたのである。
◇神の民に対する救いと共に、神の敵に対しては「神の怒り」が注がれる。その裁きが16章に描かれているが、15章ではその怒りが「金の鉢」に盛られていることが注目される(7節)。これは「神の怒り」はそれが注がれたものを単に滅ばすだけの葦のようなものでなく、「神の怒りは神の愛の燃焼」(バルト)であり、罪人を懲らしめて悔い改めに導こうとする、激しき愛であることが示されている。神は愛するが故に怒られるのである。
◇神は悔改めて立ち帰るものに、御子の購罪による新生を与えられる。しかし神の怒りによっても悔い改めず立ち帰ることをしない者の結末がどうなるかは、われわれ人間にはわからない。最後の審判が終るまで「だれも神殿の中に入ることができなかった」(8節)とは、人間の救いは神のみの知り給うことを示している。われわれは日毎に悔い改めて、最後の審判に備えたい。
「人生の結末」マタイ福音書12:43-56、ヨハネ黙示録14:14-20
大宮 溥 牧師
◇秋が近づいた。収穫の時である。われわれの人生にも秋がある。人生の春や夏を一目散に駆けてきた人が、停年などの一つの区切りを迎えて、これまでの自分の歩みは何であったかが問われる。ある老牧師が自分の生涯を回顧して、徒労とも思えるような貧しい歩みであったが、このような者を主が用いて下さったことを感謝していると語られた。人生の収穫は、自分の業績を誇るよりも、神のまかれた恵みが自分の人生を通じて育ち実ったという点にあることを思わせられた。
◇ヨハネ黙示録の今日の個所は、世界の歴史がその終末において「刈り入れの時」(15節)を迎えることを告げている。先ず天上において収穫の主であるキリストが現れる。「人の子のような方」(14節)とはダニエル書7:14に預言されているメシアである。彼は「頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持つ」(16節)。すべてのものを支配する王、また歴史の審判者として立たれるのである。
◇神の国の出現は、ぶどうの房が摘み取られ酒ぶねで踏まれ、真赤な汁が溜る情景で示される(19節)。このおびただしい流血のイメージは「神の怒り」の審判を示している。ここには人間の歴史の一面がそのまま描き出されている。人頚の歴史は戦争の歴史、血で血を洗う歴史であった。そこで示されているのは、人間が救われるためには、一度死んで生まれ代るほどの、徹底的な変革が必要だということである。最後の審判は、神がその変革を断行されることである。
◇神はそのような裁きを「都の外で」(20節)行われた。「都の外なる丘」(讃美歌261番)にはゴルゴタの十字架が立っている。そうだとすると、この都の外で流されたおびただしい血は、イエス・キリストの十字架の血である。主イエスは血の海の中で滅びてゆく人類を救うために、血を流し命を捨てて下さったのである。またこれは迫害を受けて殉教の死を遂げたキリスト者の血である。「キリスト者の血は福音の種」である(ヘブライ書13:12-13参照)。
◇神が人間の歴史を通して種まき育ててきたものを収穫される終末において、刈り取られるものは、人間の業績と言うよりも、主イエス・キリストが御自分の血を流し命を捨ててなされた働きによって、人間が生まれ変わり救われることである。主の血は「都の外」に追放されて威びるべき人間を救うのである。われわれの人生の結末、歴史の結末はこの救いであることを信じ、主の畑のよき働き人として歩みたい。
「七の七十倍までも」マタイ福音書18:21-35、ローマ書5:1-11
山本信義 伝道師
◇私たちは「他人を赦すこと」の難しさを良く知っている。傷つけられた現実は「心から赦す」ことでしか解決出来ない。それでも、私たちには赦すことが出来ない。このジレンマの中で叫びたい思いに駆られる。「私に赦すことなど出来るのか。どうしたら、どうやって、どこまで、私は赦すことが出来るのか。」
◇ペテロは主イエスにぶつけた問いは、教会が教会の頭なる方にぶつけている問いである。主にある兄弟が互いに傷つけ合い、誰かが群れから切り離されざるを得ないような悲しい現実の中でペテロは主イエスに教会の赦しの可能性を真剣に問うているご「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)七という完全数を用いて、「私は、教会は、この兄弟を、どこまででも赦すというのですか。赦せるというのですか。」と教会の頭なる方に問うのである。
◇「七の七十倍までだ」と主イエスはお答えになる。人が思いつく限りの「どこまででも」をはるかに凌駕する果てしない赦しを主は示される。「七の七十倍までも赦しなさい」く22節)私たちにそう命じられる。しかし、主はただ命じられるのでなく先立って赦しの宣言をなさっている。「教会には果てしなく大きな赦しがある。だからどこまでも赦しなさい」と主はおっしゃる。
◇『仲間を赦さない家来の誓え』と題される誓えは実際にはF神の信じられないほどの赦しと恵みの誓え』である。一万タラントンという絶対に返しようのない家来の借金を、ただ「憐れに思った」が故に赦し帳消しにする主人の替えである。
◇途方も無い赦しは現実のものとなった。莫大な負債の引き受け代が私たちの主イエス・キリストである。この方が十字架につけられたそのことによってわたしたちの途方も無い罪が赦され義とされた。十字架の主イエス・キリストが神の愛を私たちに指し示す(ロマ5:5-8)。
◇誓え話の家来は、自分に借金のある仲間の家来の一人を赦せなかった。途方も無い主人の憐れみによる途方も無い赦しを見失ったからだ。「私はあの負債を赦されたのだ。」この大いなる赦しに立つ以外に私たちに解決の術は無い。
◇ひたすらにこの方の十字架を仰いで行きたい。十字架の主イエスが私たちの心に神の愛を注ぎ込んで下さっている。神の大きな憐れみによって示されたこの途方も無い神の赦しに生きるとき、私たちは本当に赦す者へと変えられて行くのである。
「恵み」エレミヤ書15:15-21、フィリピ書1:27-30
須田 則子 牧師
◇パウロは苦しんでいるフイリピ教会の人々に「あなたの苦しみは恵みです」と伝えました。恵みは神のご好意。何の取り柄もないのに特別に愛され選ばれることです。パウロは、「あなたは特別に愛されている。だから苦しんでいるのです」と主の御心を伝えました。
◇フイリピ教会は福音の信仰のため「反対者たち」と戦い、苦しんでいました。反対者たちは、キリストの反対者、十字架の敵対者です。自分の業にこだわり、主の十字架の御業を軽んじる人々でした。反対者たちと戦うとは武器を持って殺し合うことではありません。ひたすら、福音にふさわしい生活を送ることです。「生活を送る」とは、元来ポリスで市民として生活し、市民の義務を遂行すること、「福音にふさわしく」生活を送るとは、神の国の福音に相応しく、天の市民として生活することです。私たちの国籍は天にあります。そして今既に天からの霊が私たちに与えられています。
◇天では神を神として崇め、礼拝します。しかし、この世は神ならぬもの、人間や富を拝むことを強要します。ここに戦いが生じます。主の反対者たちは、主の霊の宿る者をも攻撃します。キリストの償いによる救いを信じさせないよう脅しをかけます。福音を宣べ伝えないよう妨害をします。私たちの希望を奪おうとします。この戦いは人間を孤立させます。神や隣人に不満を持たせます。だからパウロは事態を明らかにしました。「あなたは一人で戦っているのではありません。」私たちはこれまでずっと戦ってきた神の民の信仰の戦いを戦っているのです。
◇この戦いの苦しみをパウロは「恵み」と伝えました。キリストの苦しみ、キリストのための苦しみに与っているからです。全ての人のための購いである十字架の御業は一回限りです。しかし、今も主は私たち全てのため戦い続けてくださっています。忍耐し、世界を支えておられます。その主が私たちを御前から退けることなく、「私を愛しなさい。私に従いなさい」と近くに呼んでくださいます。私たちは主を愛させていただけるのです。近くにいるから主の苦しみが伝わってきます。主の受ける反対も受けます。私たちはもはや自分の罪のため、誰かの罪のため苦しむだけではありません。キリストと共に、キリストのために苦しむ恵みを与えられています。この苦しみは死に終わる苦しみでなく産みの苦しみ、キリストの勝利に連なる戦いの苦しみです。
「新しい歌」ホセア書6:1-6、ヨハネ黙示録14:1-13
大宮 溥 牧師
◇日本基督教団は大村勇牧師が総会議長となった1962年に8月第1主日を「平和聖日」とする決議をした。当時の緊迫した東西冷戦はなくなったが、局地戦は激化し、聖地での対立は厳しい。日本が近隣諸国また世界の国々との間に平和と和解の道を築くよう祈り、平和を作り出す者となりたい。
◇ヨハネ黙示録は12章13章において地上における「戦闘の教会」を描いている。ところが14章ではその同じ教会が、天においてすでに勝利の喜びと平和を与えられている「勝利の教会」としてあらわれている。天では「小羊(人間の救いのために犠牲となったイエス・キリスト)がシオンの山(神の都)に立って」いる(1節)。使徒信条では復活して天に上られたキリストは「父なる神の右に座したまえり」と語られている。それがここでは「立って」おられるのである。ステファノの殉教の時イエスは立っておられた(使徒7:66)。教会の危急の時に、主は座視するのではなく、立って助け、迎えて下さるのである。
◇この主イエスのもとに「14万4千人」の人々が迎え入れられる。これは7章でその額に神の刻印を押された僕たちである(12×12は最高の完全数である)。彼らが人生の戦いを終えて神のもとに帰った時、一人も欠けていなかったのである。われわれは逃げたり負けたりしても、主がわれわれを潔め魂めて下さるからである。この恵みに感謝して彼らは讃美の「新しい歌」をうたったのである(3節)。
◇ここに描き出されているのは天上の礼拝である。神の国はこのような礼拝の捧げられるところである。神は人間が、すべての被造物と共に、造り主である神に感謝し、神をほめたたえ、神と交わって生きることを望んでおられる。これが歴史の目標であり神の国である。
◇ヨハネ黙示録はこの天上の礼拝を描くことによって、われわれが今すでに神の国に迎え入れられていることを確信させ、深い慰めと励ましを与える。そこから地上を見た時?地上のすべての人々に「永遠の福音」が伝えられ?バピロンに象徴されるサタンの国が倒れ?各人が神の前で自分の人生が審判されるという歴史が見えてくる。
◇この終末の救いにあずかる約束を与えられて「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(13節)。われわれは先達の死の際に神が与えてくださる、永遠の平安をたびたび見てきた。それに励まされ、われわれも主の選びを受けた14万4千人の一人であることを感謝しつつ歩みたい。そして「平和をつくり出す者」として歩もう。
「忍耐の時」マタイ福音書8:5-13、ヨハネ黙示録13:1-18
大宮 溥 牧師
◇新約聖書における政治について、また国家についての教えは、ローマ書13章とヨハネ黙示録13章に代表的に示されている。このこつの個所では政治や国家に対して正反対の態度が取られている。ローマ書では「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13:1)と、服従が説かれている。これは上に立つ者が神の委託を真摯に受け止め、神に仕える者として正義と真実をもって責任を果たしている限り、人々はこれに服従し、秩序ある社会を形成すべきことを教えているのである。
◇しかしその反対に、上に立つ者が自分を絶対化し、権力欲と我欲に走り、人々に絶対的服従を強要する様な場合に、人々は断固として否を言い、抵抗すべきことを、ヨハネ黙示録13章が教えているのである。これが書かれた時代は紀元90年前後のドミティアヌス皇帝の時代であった。彼はローマ帝国内に自分の像を立て、人々に皇帝礼拝を強要したのである。
◇ここには二匹の獣が登場する。一匹は「海の中から上って来て」「十本の角と七つの頭がある」(1節)。これは前の章にも出てくるローマ帝国の姿である。それが豹・熊・獅子に似ていたというのは、ダニエル書7章に出て来るユダヤを支配した国々であるが、ローマ帝国はそれらを合わせたほどに強大であることが示されている。3節の「死んだと思われたが、この致命的な傷も治った」というのは、再生のネロという噂を伝えている。
◇第2の獣はローマ帝国の皇帝礼拝を強要する努力を示している。これが小羊に似ているのは(11節)、イエス・キリストに対抗する力だからである。皇帝礼拝は人々に「皇帝は主である」と誓わせようとした。それに対してキリスト者は断固拒否し「イエスは主である」と信仰を告白し、殉教の死をも辞さなかったのである。ここに権力の悪魔化の姿が描き出されている。
◇これは昔起こっただけでなく、20世紀のドイツや日本でも起こったのである。戦争中の日本は天皇制の絶対化により、キリスト教の牧師が憲兵隊に呼び出され、キリストと天皇とどちらが偉いかと問われ自分の信仰を告白すると不敬罪として投獄された。敗戦はそのような悪魔化した国家の崩壊であった。人間の高慢を神は必ず砕かれる。今日ローマ皇帝のような絶対権力者はいない。しかし民主主義の社会でも人間が自分の力ですべてを動かせるかのような権力欲や傲慢が働いている。各人が神の委託に答え、仕え合う生活を築かなければならない。
「荒れ野の教会」ダニエル書12:1-3、ヨハネ福音書12:1-18
大宮 溥 牧師
◇ヨハネ黙示録12章には、天上に映し出されたこつの「しるし」が示されている。第一は「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた」(1節)という天の女王の姿である。この女が産む男の子は明らかにイエス・キリストであるから、この女性を主の母マリアとする解釈もある。しかしむしろ神の民あるいは教会の姿と取るのが妥当であろう。教会は「その国籍は天にある」(フイリピ3:20口語訳)共同体である。天とは見えざる世界、神の領域であり、教会は見える部分の裏に神に直結した見えざる部分があるのである。この女が「身ごもって、子を産んだ」(2節5節)というのは、キリストが神の民の中から生まれ、今も神の民である教会によってこの世に宣べ伝えられていることを示している。
◇もう一つのしるしは「火のように赤い大きな竜」(3節)である。これは「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの」(9節)である。この竜の「七つの頭、十の角、七つの冠」は、七つの丘の上に築かれ、10人の王によって統治されたローマの姿である。ヨハネはローマ帝国のキリスト教迫害の動きの中に、神の民を滅ぼして神の救いの働きを阻止しようとする力を見たのである。
◇天上における女と竜との対決は、神の団とサタンの国との戦いを示す。サタンはその尾で天の星の3分の1を地上に掃き落す。つまり天上界を破壊するほどの勢いで神の国を壊滅しようとする。そして妊婦から産まれ出る子を食べようとする。主イエスが十字架上で死に呑まれたことを思わせる。しかし死と滅びに勝利して復活し「全能の父なる神の右に座し」勝利の力で世界を支配される(5節)。こうして天では神の団の決定的な勝利が打ち立てられる(7-12節)。
◇しかし地上においてはまだその戦いの決着はついていない。サタンは地上に投げ落されるが、神の民を追って攻撃をしかけてくる。地上の歴史と教会の歴史は、一時神の国が来たかに見えても、やがてまた神とサタンとの戦いの渦中に巻きこまれる。太平洋戦争後の歴史も、一時の上昇とその後の試練や葛藤に見舞われてきたのである。
◇しかし女は竜から守られて荒野に移される。「荒れ野」は不信忘恩のイスラエル(神の民)に対する神の審判の場であると同時に、神の恵みの出発点に立ち帰り、素朴な生活の中で物や欲に溺れず、神を愛し人を愛して生きる基本を確立する場である。かつては焼跡に立って貧しさの試練に会ったが、今は豊かさに自分を失う試練の中にある。神に立ち帰り、自己を確立しよう。
「見よ、神の小羊」ヨハネ福音書1:29-34
大宮 チヱ子 牧師
◇今日の箇所は、1章19節以下に続く、洗礼者ヨハネの証しである。洗礼者ヨハネは、主イエスの公生涯、福音宣教の開始を伝える先ぶれをした人、先駆者である。旧約の時代が終わり。神の御子・主イエスによる救いの時がすぐに来ると告げた。その救いを受けるために、罪を悔い改めて備えをするようにすすめ、ヨルダン川で洗礼を授けた。罪ある人間と同じ立場に立ち、罪を担ってくださるために、主イエスもこのヨハネから洗礼を受けられた。
◇人々は、このヨハネこそ、待望の救い主、メシアではないかと期待した。しかしヨハネはそれをきっぱりと否定し、救い主の到来を告げる「声」、主の証人にすぎないと語った。
◇ヨハネは主イエスを見て、「見よ」と強く呼びかけた。教会が、キリスト者が目を挙げて、心を向けて見るべきものは何であろうか。世の初めから、神と共におられ、世界の創造に与られ(ヨハネ1:1-3、14、コロサイ1:15-17)、「世の罪を取り除く神の小羊」として来られた主イエスに注目するようにとヨハネは語った。
◇人間には帳消しにすることができない罪、世界の、全人顛の罪を赦すために、神ご自身が用意してくださった「神の小羊」主イエスを「見よ」と告げる。
◇人々は、「罪を取り除く神の小羊」として、(1)出エジプトの時、その血によって民を災いから守った小羊(出エジプト記12章)、(2)贖罪日に民の罪の赦しのために身代りとして捧げられた雄羊(レピ記16章)、(3)犠牲として引かれて行く小羊のように、人々の罪を身に負い、苦しみを担った「主の僕」(イザヤ書53章)の姿を思い起こしたことであろう。
◇ヨハネは、主イエスを「神の小羊」と証しすることによって、わたしたちが、罪の赦しをえるために、御子・主イエスの血が流され、御子の十字架の死が必要なことを告げている。神は御子をも惜しまず与えてくださった。神の限りなく大きい愛、主イエスの深い愛の故である。主イエスは、「世」の救い主、全世界、すべての人の救い主である。
◇ヨハネは、この主イエスを「見よ」という。私たちは、いつもこの主イエスを見ているであろうか。十字架の主イエスを仰ぎ見ているであろうか。身辺のことに心を乱し、主を忘れていないだろうか。主の十字架の恵みに心を向け、人々に主を指し示したい。教会の生命は、主を証しし、伝道をすることによって強められ、増し加えられ、受け継がれて行くのである。
「神の国」イザヤ書49:14-21、ヨハネ黙示録11:15-19
大宮 溥 牧師
◇黙示録の記者ヨハネは、天使のラッパの音によって、地上に注がれていた目を天に向けた。そして天上の礼拝に連なった。そこで彼は「天にさまざまな大声」が交わされているのを聞いた(15節)。それは「白い衣を身につけ、手になつめやしの杖を持つ」14万4千人の「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う人々」(7:9)聖徒の群が歌い交わす讃美であった。われわれも礼拝においてこのような聖徒の交わりに入れられるのである。
◇聖徒の群は「この世の国は、我らの主と、そのメシヤのものとなった。主は世々限りなく統治される」(15節)と歌った。これはヘンデルのメサイアのハレルヤコーラスの一節となっている。ここで「この世」がすでに神の国となったと、過去形で語られている。「この世の国」は元来神の支配の下にあるが、現実には闇の力と人間の権力支配のもとに置かれている。しかし神は歴史の主として主権を回復し、神の国を来らせられる。それは将来の希望であるが礼拝においてわれわれは、それを現在のこととして経験する。それは歴史の主なる神と出会うからである。世界という船は嵐の中にあるが、この船には熟練した船長(神)が乗っておられる。われわれは礼拝において、その船長としっかり結び合わせられるのである(マルコ4:35-40参照)。
◇天上の礼拝において24人の長老が神に呼びかけ「今おられ、かつておられた方」と言う(17節)。ここにも「やがて来られる方」(1:8)という未来形がなくなっている。礼拝における神の国の現在形が示されているのである。18節の言葉は詩編2が思い起される。これは王の即位式の歌である。王の交代の機会にこれを覆そうとする力に対して、神が王を堅く立てることが宣言されている。このことがイエス・キリストの働きによって成し遂げられた。主イエスは闇の力と人間の反乱によって死に追いやられた(十字架)が、復活によって闇と死と悪の力に勝利し、神の国の基礎を据えられたのである。神の国は王なるイエスの救いの業によって打ち立てられたのである。その完成は終末の希望であるが、礼拝においてわれわれは終末の現在化を経験する。
◇ヨハネは「天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えた」(19節)と言う。ソロモンの神殿は、すでに消失し、十戒をおさめた契約の箱も失われた。しかし、それは天において保たれている。われわれはこの神の保証に励まされ、天を仰いで望みを新たにし、地上における信仰の戦いを勇ましく戦うのである。
「主の証人」申命記26:1-10a、ヨハネ黙示緑11:1-14
大宮 溥 牧師
◇聖書は世界の歴史を神の導きと救いの歴史として描いている。そして人々の中から選び出された者を神の民とし、救いの歴史の担い手とされる。申命記26章の「旧約聖書のクレドー(信仰告白)」は、神の民の歴史を感謝をもって思い起こしており、ヨハネ黙示録はその歴史の完成を展望しているのである。
◇ヨハネ黙示録11章は、ここから最後までにかけて展開する終末史の鳥撤図である。前の10章でヨハネは天使から一巻の小さな巻物を与えられて食べる。神の言葉を与えられ、それを宣べ伝える使命を受けるのである。11章になるとその同じ天使が、杖のような物差しを与えて「神殿と祭壇を測り、そこで礼拝している人たちを数えよ」(1節)と命じる。測量するというのは、そこが自分の所有であるとの確認の行為である。神が教会を御自分のものとして確認し、守り導くことが約束されているのである。
◇しかし教会の外の領域は、神を知らない異邦人の手に委せられる。現在のこの世が神が見放し手放したような混迷の中にあり、展望がきかないことが示されている。しかしそれは「42か月」「1260日」である。これはユダヤ人の歴史の最も暗かった、ユダヤ戦争の期間(前168年6月~171年12月)である。しかし3年半は完全数である7年の半分である。限られた期間である。世界が混乱の中に放置されたように見えてもそれはいつまでも続くものではない。故に夜明けを信じて、希望と忍耐に生きるのである。
◇神はこの闇の世界に「二人の証人」をお遣わしになる。彼らは「主の御前に立つ二本のオリ←ブの木、また二つの燭台である」(4節)。これはモーセとエリヤの姿をしているが、それを教会の姿として描き出している。混乱して絶望的な世界の只中で教会はキリストの救いの福音を大胆に宣べ伝えてゆくのである。神はイエス・キリストを通して、世界を救おうとしておられる。この救いを教会は時がよくても悪くても宣べ伝え、キリストを人々に運ぶのである。
◇任務を果した主の証人は、闇の力によって打ち倒されて、都の大通りに死体をさらす。しかしそれは3日半である。滅びの挫折の中にいつまでも放置されるのでなく再起するのである。主イエスが十字架の後よみがえられたように、教会は再起するのである。教会は、厳しい時代の中でも、主の勝利の力に導かれて立ち上がる。教会とキリスト者は主の証人として、主が立てて下さることを信じ「したたかに生きる」(加藤常昭)のである。