◆12.30「星のように輝き」創世記15:1-6、フィリピ書2:12-18
◆12.23「栄光われらの内に宿る」ヨハネ福音書1:1-14、ヘブライ書1:1-6
◆12.16「主わが内に宿りたもう」ルカ福音書1:26-38、ローマ書1:1-7
◆12.09「身を起こし頭を上げよ」ルカ福音書21:25-33、ペトロ第二1:16-21
◆12.02「主の御腕を待ち望む」イザヤ書51:4-11、テサロニケ第1 5:1-11
◆11.25「新しい天と地」マタイ福音書25:1-13、ヨハネ黙示録21:1-8
◆11.18「神の約束」詩編113編、ヘブライ書6:13-20
◆11.11「福祉千年の恵み」エレミヤ書31:31-34、ヨハネ黙示録20:1-6
◆11.04日「神の言葉の勝利」マルコ福音書13:24-31、ヨハネ黙示録19:11-21
◆10.28「命の水の川」創世記2:4b-14、ヨハネ黙示録22:1-5
◆10.21「闇に輝く光」コリント書二4:6
◆10.14「美しきその足」イザヤ書52:7-10、ローマ書10:5-18
◆10.07「小羊の婚宴」ヨハネ福音書2:1-11、ヨハネ黙示録19:5-10
「星のように輝き」創世記15:1-6、フィリピ書2:12-18
須田 則子 牧師
◇キリストは父なる神に従い、低き者よりさらに降ってその者たちのために仕える従順の道、へりくだりの道を歩まれました。私たちは下へ下へ、なぜこんなところにという場所におかれていくことがあかもしれません。それは神様に見放されたのではありません。低きに降る主が私たちを近くに呼ばれたのです。
◇パウロは、私どもが「星のように輝く」と言い切ります。クリスマスの時に神の揮き、光については聞いてまいりました。それでは私どもが光り輝くとはどのようなことでしょうか。これまで輝くような美しさを世界中で称えられてきたある人は、自分の子供たちに一つの物語を幾たびか語り聞かせました。その中に次のような言葉がああります。「輝く瞳とは、他者の美点、美しいところをいつも見いだそうとする目です。美しい口とは、いつも親切な言葉を語ろうとする口です。」光り輝くとは自分が輝こうとすることでなく、隣人の内に光を見いだそうとする生き方、姿勢です。
◇父なる神様の私たちを見ていてくださる御顔はいつも光り輝いています。取るに足りない小さな私どもの「よいところ」をいつも見いだそうとしてくださるからです。私どもが自慢したり、自惚わることは、神の御前に「よいところ」ではありません。自分が光り輝こうとする傲慢さこそ、禅様の光とかけ離れた闇です。父なる禅様は、へりくだり私たちの内に宿ってくださるキリストという「よきもの」を見て、瞳を輝かせてくださるのです。キリストもまた、私たちを天の父がかけがえのないものとして愛しておられる者と見ていてくださいます。父の御心を重んじ、ご自身もまた極みまで私どもを愛してくださいます。私どもを見つめてくださる主イエスの御顔も光り揮いています。
◇主なる神の御光に照らされ、私どもも星のように輝くと言われます。隣人の内にキリスト、「美しきよきところ」を見いだすからです。互いに不平や不満、理屈ばかりを言う時代にあって、隣人に注がれている主の貴き愛を見いだすからです。私どもは不安や失望、焦燥、苛立ちの時代に、キリストという真実の希望、世の救い主をいつも見ていなさいと言われています。
◇主なる神様は、キリストの十字架において私たちたちの最も深刻な問題、病と死と罪の問題を解決してくださいました。全てを時間の問題としてくださいました。私たちはアブラハムのように、その約束の実現を信じて待てばよいのです。その希望から全てを行い、考え、感謝してよいのです。
「栄光われらの内に宿る」ヨハネ福音書1:1-14、ヘブライ書1:1-6
大宮 溥 牧師
◇21世紀最初のクリスマスにあたり「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)と切に祈るものである。
◇イエス・キリストの降誕について、ヨハネ福音書は、マタイやルカのような美しい情景描写的な物語ではなく、その深い意味を説いている。主イエスの誕生は天地創造に匹敵するような重大な出来事であった。創世記冒頭には、原初の混沌に向って神が「光あれ」と語られると、光が輝き出て秩序ある世界(コスモス)が出現するようになったと記されている。ヨハネ福音書はこの時神が言葉によって万物を創造したことに注目している。言葉とは自分をそれに託して相手に届けるものである。神が言葉を発する時、それは神が御自分の内に籠るのでなく、外へ出て行かれる。この外へ出て他に働きかける神の姿をヨハネは「言」と現したのである。世界と人間は、この言が無からわれわれを呼び出されることによって存在しているのである。「言」が命を与え暗きを照らすのである。
◇しかし神が言として人のところに来て人と交わろうとされた時、人はそれを拒否した。ヨハネ福音書1:9-12節は、イエス・キリストが来られる前の人間の姿であり、また旧約の歴史である。しかしこの時代にも神の言を受け入れて信仰をもって生きる人には「神の子となる資格」が与えられた。
◇しかし神は一部の人間でなく、すべての人間を救うために、決定的な一歩を踏み出された。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)のである。天地創造の時の神の働きは、被造物を外から支え生かす働きである。しかし人間が内側から崩れ腐敗し病んでいる時、外側からの働きかけでは間にあわない。そこで神は「肉」すなわち人間になることによって、人間を内側から造りかえ生かそうとされた。
◇言の受肉、すなわち神が人間になるということは、人間の知恵では理解できない奥義である。しかし神は愛であり、真の愛は愛するものになり切ろうとするものであるから、これは神の愛の全能の業である。神は人間を愛された時、人間になり切り、人間になり代って、人間の救いをなし遂げて下さったのである。これによってわれわれは内側から潔められ新しくされる。新しい創造である。
◇クリスマスは、このキリストを新しくわれわれの内に迎える時である。そして罪を焼き潔めて頂き、新しい命を与えられ、キリストの潔さと愛に溢れさせて頂き、われわれも平和の器として歩み出す時である。
「主わが内に宿りたもう」ルカ福音書1:26-38、ローマ書1:1-7
大宮 溥 牧師
◇おとめマリアヘの天使ガブリエルの御告げの冒頭の挨拶「おめでとう、恵まれた方」(28節)はラテン訳ではHaue gratia plenaとなっており、そこから「アヴェ・マリア」という言葉が生まれた。「主があなたと共におられる」はクリスマスの意味が要約されている。アダムとエバの堕罪以来、人間は聖なる神を直接見ることはできず、神を見るものは死ぬと言われた。そのような神なき生活の只中に、神御自身が近づき、共にいて下さったのである。
◇この天使の受胎告知にマリアは深いとまどいを覚えた。「戸惑う」(29節)と訳された言葉は海の荒れ狂う様を示す。激しい動揺である。神が側に来られるだけでも畏るべきことであるのに、今やマリアの胎内に宿ると告げられたのである。これはマリアにとって驚くべき一大事であったが、実は神にとっても一大事であった。人間の胎内に宿ることは、自分の存在を託することである。神が脆い人間の内に自分を預けるのである。これは「神の冒険」(左近淑)であった。神は人間を造り導かれるが、その人間が内部から崩れてゆく時、外側からでは救うことができない。その内側に入って、一心同体の形でしか、癒し救うことはできない。そのためにあのような冒険を敢行して、人間として生まれたのである。「神は近い。われわれが自分自身に近いよりももっと近い」(テオロギア・ゲルマニカ)。神はマリアの胎内に宿ることによって、われわれの内に宿りたもうたのである。
◇マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」(34節)と問う。それに対して天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)と答える。自分のような小さな者が、宇宙も包み得ない神を宿すことがどうして出来るのか。「有限なるものは無限なるものを容れ得ない」。しかし「無限なるものは有限なるものを容れ得る」。マリアに神を容れる大きさと力があるのではない。しかし神は小さなマリアの内に入り得るほどの力と能力を持たれるのである。愛の全能である。
◇主イエスは人間として生まれ、しかも貧しく低いところに身を置かれた。そのことによって、人間が罪赦され永遠の命を得る道が開かれた(第2コリント 8:9).「御子は、肉によればダピデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」(ローマ1:3-4).人間としてわれわれと密着し、聖霊を宿す神として、われわれを生かして神の子とされる。この主を宿して生きよう。
「身を起こし頭を上げよ」ルカ福音書21:25-33、ペトロ第二1:16-21
大宮 溥 牧師
◇「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)。これは待降節によく読まれる御言葉である。イエス・キリストの来臨は、困難な戦いの只中に強力な援軍が来るようなものである。地に倒れてうなだれていた兵士たちが、援軍来たるとの知らせに、希望と勇気を与えられて立ち上るように、われわれも立ち上って主を待ち望むのである。
◇ルカ福音書21章は「小黙示」といわれている。黙示は歴史の流れを絵物語のように印象深く描き出す。主イエスはその生涯の終りに、世界の将来についての預言をされた。世の終りに世界は崩壊し、人々は恐怖の巷に投げ込まれる。しかし「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて霊に乗って来る」(27節)。この助けを信じて「身を起して頭を上げなさい」と励ますのである。
◇「人の子が霊に乗って来る」というのは、旧約聖書のダニエル書の預言である。当時のユダヤはアンティオカスというシリアの王によって迫害を受け、棄教と異教崇拝を強いられていた。これをダニエル書は獣の支配と特徴づけ、神はこの状態を放置されず、「人の子」すなわち愛と真実に富む救主を遣わされると説いて、人々に信仰を守るように励ましたのである。人々はこれに励まされて立ち上り、勝利と独立を得たのである。
◇主イエスは「小黙示」において、「人の子」は終末にも来られて神の民を救うと約束された。この小黙示が十字架の場面の直前に置かれていることは探い意味がある。ここでは世の終りのことと主イエスの十字架と復活の出来事とが深い関係にあることが示唆されているのである。主の十字架の死は、この世界には神の子をも打ち砕く闇の力が猛威を振るっていることを示している。しかし主はその力を砕いて復活された。従って主の死と復活は、世界の滅亡と神の国の開始を示している。ここで主において個人的に起ったことが、人類的な規模で起るのが終末である。
◇終末には主が肉の姿で再び来りたもうのであるが、その主は霊の姿においては今も来たりたもう。それを心に刻むのがアドヴェントであり、クリスマスである。アドヴェントはクリスマスを前にして、心と体を潔め、不信仰と霊的無感覚に陥っている自分を主の方に向き返らせ、「心を潔め宮となして」主を迎える修練の時である。今日はまた「聖書主日」である。聖書は「幼子イエスの伏される飼い葉桶」(ルター)である。御言葉によって主に近づこう。
「主の御腕を待ち望む」イザヤ書51:4-11、テサロニケ第一 5:1-11
大宮 溥 牧師
◇待降節(アドヴェント)は、イエス・キリストの来臨について、2つの来臨を覚える時である。1つは「過去における来臨」で、2000年前主がユダヤに生まれ、この世に来られたことを想起する。もう1つは「将来における来臨」で「主の再び来り給うを待ち望む」(日本基督教団信仰告白)のである。われわれはかつての来臨を思い起して、救いがすでに確立したことを確認して喜びと感謝に満たされる。そしてやがての来臨を思って、将来に対して希望に満たされるのである。
◇救主イエス・キリストの誕生について新約聖書はこれを旧約の預言の成就であると告げている。イザヤ書51章の今日のテキストも、その預言の1つである。これは第二イザヤと呼ばれる無名の預言者の言葉である。彼はバピロン捕囚の暗い時代の中で旧約聖書の信仰の頂点とも言うべき使信を語った。彼によって旧約の唯一神観は確立し、神が世界の創造者であり歴史の主であることが力強く語られた。またこの神は、遠い天の彼方に坐しておられるのでなく、具体的な歴史の中に働き、人間と国々を、ある時は裁き、ある時は救う神である。歴史を神の支配の過程として把えたのである。
◇彼は挿囚後半世紀を経て、神が新しい歴史を切り開き、捕囚民を故郷に帰還させようとしておられるのを知った(4-8節)。そしてこの神に向って「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ」(9節)と呼びかけたのである。彼はカオスの怪獣ラハブに勝利しての神の創造、出エジプトの救いを思い起しつつ、歴史が救済史であることを確信し、その救いを今与え給えと祈った。
◇この第二イザヤは神の救いの担い手としての「主の僕」(52:13-53:12)について預言した。主イエスこそこの「主の僕」であった。この主イエスの来臨によって、この世に朝が来た(テサロニケI 5:5)。しかし、現在は昼と共に夜も来る、光と閣とが交錯している。しかし主の再臨により、夜のない栄光の時が来る。われわれはそれを待ち望み、希望をもって生きるのである。
◇聖書は主の来臨について、過去の来臨と将来の来臨(再臨)のみならず、現在における「霊的来臨」について語っている。クリスマスは、この霊的来臨の主を心新たに迎えるのである。「キリスト幾千たびベツレヘムに生れ給うとも、汝の心に生まれ給わずば、汝は永遠に詛われてあらん」(アングルス・シレジウス)。われわれはこのアドベントに、心と体を潔め、新たに主イエスを迎えたいものである。
「新しい天と地」マタイ福音書25:1-13、ヨハネ黙示録21:1-8
大宮 溥 牧師
◇古くから使われている教会暦では今日が「終末主日」である。この日に黙示録の神の都完成の預言を学べることは意義深い。黙示録は世界の歴史をドラマティックに描いているが、21章はそのクライマックスである。ここには「新天新地」という自然環境の変化、「神の都」という都市の変貌、「神自ら人と共に住む」という新しい共同体が描き出されている。
◇第一に「新しい天と新しい地」が示される(1節)。古代人は宇宙が「天と地と海(地下)」という三層構造と考えていた。そして「海」がなくなるというのは、死と滅びの世界がなくなることを示している。今日環境問題等が深刻になり「宇宙船地球号」の将来が危ぷまれている。これは真剣に受けとめなければならないが、この船にはパイロットである神が乗り込んでおられる。人類が滅びの中に漂流していた時、神はキリストを遺して、その犠牲によってわわわれを神のもとに立ち帰らせて下さった。この神が「新しい天と地」へとわれわれを導かれる。この希望のもとに、それ故にわれわれも、神のパートナーとして、神から委任された使命と取り組んでゆかなければならない。
◇第二に「聖なる都、新しいエルサレム」の出現が描かれる。ここで神の都は人々が天に登るのでなく、その都が天から地に下って来る。われわれは今すでに天に国籍を持ち、ある意味で天に迎えられている(コロサイ3:3-4参照)。われわれは地上において心身の破れを経験するが、神の前に立つ時完成された姿とされる。しかも孤立した個人としてでなく、都の一員として、隣人と共に共同体として立つのである。
◇第三に、神の都においては「神が人と共に住み、人は神の民となる」(3節)。ここには神殿がない(22節)。神殿はこの世の中で神の現臨を示すものであるが、そこだけが聖域となり他は世俗領域という風に、神が閉じ込められる。しかし神の都は、人間の生の全額域で神が人間に触れて下さるのである。「神の幕屋」はテントであるが、ヨハネ福音書で「言は肉となってわたしたちの内に宿られた」(1:14)という句の「宿る」と共通の言葉である。それはさかのぼって、イスラエル40年の荒野の旅で主が民と共に宿ってくださることをも思い起させる。その神が民と共に歩んで、ついに目的地に着き、「見ずして信じる」状態から「顔と顔を合わせて」相見る祝福を与えて下さるのである。この約束に慰められ励まされつつ、われわれは十人のおとめ(マタイ25章)のように、御前に立つ備えをする。
「神の約束」詩編113編、ヘブライ書6:13-20
大宮 チヱ子 牧師
◇2週間後に待降節を迎えようとしている。「きたりたまえ、われらの主よ」(第二編112)と心を熱くして、祈りつつ主を待ち望むのは、主にこそ救いがあることを信じ、主の救いが与えられることを願うからである。
◇詩編113縞は、主の救いを感謝し讃美している「ハレルヤ詩編」、あるいは「エジプトの讃美」(113~118編)と呼ばれる詩編の一つである。エジプトから解放され、救われた歓喜と感謝に溢れている。初めと終りだけでなく、この短い詩の中に6回、「讃美せよ」と繰り返している.「すべての国を超えて」、「天を超えて」高く、輝いている神が、「弱い者」、「乏しい者」を顧み、苦しみあえぎつつ歩む人間と共にいてくださるために、「低く下って」くださったことを力強く讃美している。人となられた御子イエス・キリストによって、神の限りない謙卑と深く広い愛を知らされる。
◇私達はすでに、救い主イエスを与えられた。神の光、救いの光に漁らされている。しかし、まだ闇は取り去られてしまったわけではない。私達は、神の恵みの光に照らされているけれども、なお闇の中にあり、苦しみや痛み、深い罪の中にある。
◇私達は「約束されたものを受け継ぐ」ものであり、「目指す希望を持ち続けようとして」いるものである(ヘブライ6:17-18)。「目指す希望」は、「前におかれている望み」(口語訳)、「目の前にある望み」である。「わたしたちが持っているこの希望」(19節)とあるように、明白な特定の希望、約束である。この希望は、神の約束と誓いという「二つの不変の事柄」によって保証されている。年を経ても必ず実現する約束である。アブラハムの例で示されているように、人間には不可能な状況の中で、神がなさる以外に実現されようもない時に成就する約束である。それ故、あきらめないで、忍耐強く、「根気よく」、信じて「待つ」ことが必要である。
◇「この希望」は、「安定した錨」のように頼りになる確かなものである。激しい風雨の中、しっかりと舟をつなぎとめ安全に守る錨のように、激しく変化し、思いがけないことが頻発する、荒れ狂う嵐の中にあるような社会にあっても、ゆるがない生活を可能にしてくれる。この希望は、主イエスの来臨によって現実となった。「先駆者」、「永遠の大祭司」として、キリストは私達を至聖所に導き入れ、神との交わりを可能にしてくださった。信仰の導き手であり完成者であるキリストと共に歩もう。
「福祉千年の恵み」エレミヤ書31:31-34、ヨハネ黙示録20:1-6
大宮 溥 牧師
◇黙示録は人間の歴史を神とサタンとの戦いの経過として描いているが、20章ではサタンが取り押さえられて底なしの淵に鎖でつながれ、千年の間キリストと聖徒の群が支配する、神の国のような時代が出現すると記している、これを千年王国説もしくは福祉千年の教えという。
◇この「千年王国」を、ある人はキリストの救いによって教会が出現した新約時代を指すと解釈する(アウグステイヌス等)。しかし他の人は、これから始まる歴史の預言と解釈する(宗教改革時代の農民戦争の指導者トマス・ミュンツアー)。この過激な解釈を受け、ルター派ではこれを教会の教えから取り除いた。
◇これはヨハネの心に閃いた一つのヴィジョンであって、そわを歴史の一つの時代に文字通りにあてはめるのは間違いである。しかしこれを逆に全くの空想として取り除くのも正しくない。この千年王国は、人間の歴史の中に折々出現する、神の国を思わせるような時代を理想化して描いているのではないであろうか。歴史の流れの中である時代は神がこの世を見捨ててしまわれたかのような地獄を思わせる時である。しかし他面神の囲が来たかのような祝福の時代もある。
◇ヨハネ黙示録が書かれた時は教会がローマ帝国の迫害の只中にある夜の時代であった。しかしヨハネはそれを3年半、一時のことと教え、人々に希望と忍耐を与えた。そして神の祝福は千年に及ぶと、信仰によって見える勝利の歴史を描いたのである。実際に迫害は300年つづいた。そしてキリストが勝利するかに見えるような時期は、一瞬の夢のように短く終ることを、教会は幾度も経験したのである。だから千年王国のヴィジョンが示そうとしているのは、時間の長さの間遠ではなく、この世の歴史の中に、闇が猛威をふるう時があるが、それは神の目から見れば一時であり、その闇を破り祝福をもたらす神の力の方がはるかに力強く働いているのだと言うことである。
◇日本のキリスト教の歴史でも、千年王国のヴィジョンが実現するかに見えた時もあった。日本近代史で、国際主義的時代はキリスト教が盛になり、民族主義的時代は.キリスト教が排斥され、それが十年毎に交替したと言わわる。今後はどうなるであろうか。アフガン戦争で聖戦思想が問題になっているが、単純な一神教が単純に敵味方を分けるのに対して、キリスト教は「とりなし」の宗教であり、そこに和解による共生への道が開ける。千年王国はとりなしの主キリストの支配を示し、希望を与える。
「神の言葉の勝利」マルコ福音書13:24-31、ヨハネ黙示録19:11-21
大宮 溥 牧師
◇只今幼児洗礼式を執り行い、最も新しい技が主の幹(教会)に連なった。主が「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)と、主の手の心に刻んで下さった。主にあって成長し、恵みの器として歩むよう祈りたい.。
◇ヨハネ黙示録19章後半には、天が開けて白馬の硫士が登場する。イエス・キリストが「王の王・主の主」(16節)として立たわるのであるこ。白馬の騎士はすでに6章に現れている。しかしあそこでは白馬だけでなく「火のような赤い馬」(戦争)、「黒い馬」(飢餓)、「青白い馬」(死)も出てくる。これらは世界の歴史を動かす様々な力である。従ってイエス・キリストだけが勝利し支配しているわけではない。今日後に描かれた馬たちが一斉にアフガニスタンを駆けめぐっている様に思われる。
◇しかし19章では、悪夢のような夜が明けて、白馬のイエス・キリストだけが地上に姿を見せている。世界史は戦いと飢えと死に引き廻される阿鼻叫喚の巷であるが、最後にはイエス・キリストがそれらを鎮め、神の平和と勝利をもたらされるのである。
◇白馬の騎士は「神の言葉」(13節)とも呼ばれている。ここからわれわれは「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」という、ヨハネ福音書の冒頭を思い起す。この「受肉」は「神の人間性奪取」(熊野義孝)である。神が人間と直結されることにより、人間をサタンの力から奪い返して、神のものに解放して下さったのである。主が「血染めの衣を身にまとっている」のも、人間を救うため十字架上で血を流されたからである。キリストは終末においてこの人間解放の業を完成されるのである。
◇17節以下では神の審判によって撃ち倒された無数の人々の肉を空の鳥が勉きるほど食するという、ぞっとする様な光景が描かれている。しかしこの描写が告げていることは、罪とサタンと死の力がどんなに狂威をふるっても、ついには神がそれらを砕いて勝利されるという点である。このような裁きの下る時、罪人である人間も滅びの中に投げ込まれる。しかし、主イエスも、そのような滅びの中に投げ込まれ、悲惨な死をとげられた。そして人間にとっては全くの滅びであるが、主は神の命と力をもって、滅びと死の力を打ち破り、復活された。
◇このキリストが白馬の騎士として、神の民を導いて下さる。それ故われわれは、戦いと飢餓と死が猛威をふるう歴史の現実の只中でも、最後の勝利は和解の主イエス・キリストがもたらして下さることを確信し、平和を実現する道を歩むのである。
「命の水の川」創世記2:4b-14、ヨハネ黙示録22:1-5
大宮 溥 牧師
◇阿佐ヶ谷教会の在天会員は300名を越え、この四半世紀に200名の先達を天に送った。われわれは天にある者地にある者共に「聖徒の交わり」に連り、今朝共に「生ける者と死せる者との共通の主」の前に立っている。
◇ヨハネ黙示録22章は、黙示録の壮大なフィナーレであり、歴史の完成としての神の都を描いたものである。ここには「神の都には、静かに流るる清き河ありて、み民をうるおす」(讃美歌286)様子が記されている。中近東は砂漠のような不毛の地が広く、川の周囲だけが緑におおわれ、人が生きることができる。川こそ命をもたらし、命をはぐくむ源である。「水晶のように輝く命の水の川」はまさにパラダイスである。
◇その川の「両岸には命の木がある」。命の木はエデンの園の中央に植えられていた(創世記2:9)。アダムとエバが神に背いて禁断の木の実を食べた時、神は罪人が限りなく生きることを拒否して、彼らをエデンの固から追放された。しかし神の都では人々は罪を拭い去っていただき、永遠の命を与えられ、病を癒されて生きるのである。
◇このような「神の都」「天国」はどこにあるのか。天とは「神的次元の空間」である。二次元しか理解できない人は三次元の世界は想像もつかない。そのように地上で生きる人間には「神の次元」を理解することはできない。しかし復活の主イエスはそこに入られ、われわれをそこへと導いてくださる。
◇この神の都では「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る」(3-4節)。礼拝が中心である。礼拝とは神と人間の交わりである。その時人間は故郷に帰り、本当の自分を取り戻すことができる。人間の本当の故郷は禅である。そこで神がわたしたちの内に宿り、わたしたちが神の内に宿るのである。われわれの今の礼拝は一時であるが、神の都では全生活が礼拝の時となるのである。
◇われわれの先達たちは、この神の都を信じ、そこに迎えられる帝望をもって、現実の試練や死の悲しみに耐え、信仰と帝望と愛の生活を励んだのである。われわれもこの信仰を受け経ぎ、天を仰いで帝望を持ち、地上を天とし、神の都とするために、伝道と愛のわざに励まなければならない。
「命の水の川」とは対照的に、今日戦争の努台となったアフガニスタンは、砂漠のような荒れ野が拡がっている。われわれは「御国を来らせたまえ」と祈りつつ、平和のために祈り、平和を作る歩みを生きよう。
「闇に輝く光」コリント書二4:6
大宮 溥 牧師
◇昔ギリシャでディオゲネスという人が真昼にランプをつけて町を歩きました。皆が嘲笑うと彼は、人々の心が真暗なので、わたしは明りをつけて歩いているのだと答えました。今この人がわたしたちのところにやって来たら、やっぱりランプをつけて歩くのではないでしょうか。心の世界が暗く冷たいからです。
◇心の闇を太陽のように明るく照らすのは神様です。神様は「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神」です。これは創世記の言葉です。世界ははじめ真暗でした。混沌(カオス)でした。この闇に向って神様が「光あれ」「明るくなれ」と言われると光が射してきて、世界は夜明けのように明るくなりました。その光の下に神様は魚や鳥や獣、そして最後に人間をお造りになりました。明るく、整った世界になりました。
◇これは目に見える外の世界の話ですが、心の中の世界も、神の光によって照らして頂かなければ明るくなりません。外の世界は神様が「光あれ」と言葉で命じられると明るくなりました。しかし心の闇は、ただ言葉だけでなく、神様御自身が来て下さらなければ明るくなりません。そこで神様は神の子であるイエス様をこの世に送って下さいました。イエス様は病いと憎しみと怒りで傷ついている世界を愛の光で照らして下さいました。また神様から離れ、迷い、滅びようとしている人々を救うために、十字架につき、自分の命を投げ出して下さいました。このイエス様が今も生きておられわたしたちの心の中に住んで下さいます。すると私たちの心は暗い夜に明るい太陽が輝くようになります。
◇ある新聞記者が多くの学校を訪ねて、教育の現状を調べました。ある印舎の小学校で、母子家庭の姉と弟が、厳しい環境なのに、落ちついて明るい子どもたちだというのを聞いて、行商をしているその母親を訪ねました。そのお母さんは、別に何も変ったことをしている訳ではないが、夕方には必ず家に帰り、家の前で3人が手をつないで、沈みゆく太陽を見る。雨の日は家の中で手をつないで雨だれの音を聞くことにしていると話してくわました。この子どもたちは、自分が恵みの光とうるおいを共有していることを経験して、心が明るく豊かになったのでしょう。(テサロニケ?5:16-18参照)。
◇私たちが神様に祈り、心の中にイエス様を迎える時、あの幼い姉弟が夕日を見て感じたよりももっとはっきりと、わたしたちの心の闇を照らす太陽を仰ぐことができます。この光を受け光の子として歩みたい。
「美しきその足」イザヤ書52:7-10、ローマ書10:5-18
山本 信義 伝道師
◇「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(10:15)「伝道者の足は美しい」と聖書は語る。この御言葉に先立って一連の問いが語られるが、その問いを逆向きに並べると救いへと至る一連のわざが記される。「遣わされ、宣べ伝え、聞き、信じ、呼び求める。そして、救われる」。「宣べ伝え、聞き、信じ、呼び求める」という人間のわざが、最初と最後で神によって「遣わされ」、神によって「救われる」という神のわざによって囲まれている。神の大きな御わざのうちに人間のわざは置かれ神の御わざに私たちは与からされている。
◇「良い知らせを伝える」。原文を直訳すると「良きことを福音する」となる。「福音」という語の動詞が用いられ、重ねて「良きこと」という意味の言葉が用いられる。「美しさ」の根拠はこの「良きこと・福音」にこそある。「福音」は私たちの内にあるものではなく、神ご自身がなして下さった「神の良き知らせである福音」である。この「福音」を宣べ伝えるが故に伝道者の足は輝く。それだけではない。「福音」を聞き、信じ、呼び求める全ての場面で、「福音」に与かる者はこの「福音」の美しさに与かるのである。信仰生活・教会生活の様々な局面で私たちはこの福音の美しさを覚える経験を積み重ねている。その美しい経験によって何度となく励まされ、力づけられる。
◇イザヤ書52章は、王なる神の入場という救いの実現を描いている。神が勝利され、王となられる。これが明らかにされた救いの現実である。神が王となり民の神として臨み、民を神御自身のものとして下さる。このことをパウロは「神の義が示される」という言い方で言い表した。神の側から私たちへと示された「神の義」は主イエスキリストという一人の方を通してもたらされた。
◇6-8節でパウロは申命記30章の記事を引用しつつ、天の高みあるいは陰府の彼方に隠されていた宝のごとき神の福音が、主イエス・キリストの十字架とよみがえりを通して、私たちの間近に、口に心にもたらされたことを語る。この方が、御言葉なる福音そのものとなって下さり、神の福音を私たちにもたらして下さった。この主イエスの名を呼ぶ全ての者を救いへと導かれるのである。私たちの主イエス・キリストこそが、私たちを義へ、そして救いへと至らしめる「良き知らせなる福音」である
◇伝道者の足はキリストという福音を宣べ伝えるが故に美しい。それだけではない。この福音に与かる全ての者が、福音の故にキリストの美しさに与かるのである。
「小羊の婚宴」ヨハネ福音書2:1-11、ヨハネ黙示録19:5-10
大宮 溥 牧師
◇ヨハネ黙示録19章は「小羊の婚宴」を描いている。小羊とは、われわれの救いのために犠牲となられたイエス・キリストのことであり、このキリストが世の終わりに神の民を呼び集め、これを花嫁のように愛し、共なる祝福に入れて下さるのである。藤井武という内村館鑑三門下の伝道者が「羔の婚姻」という長い詩を綴った。それは黙示録からヒントを得て、世界の歴史をこの喜びの祝宴に至る、長い神の愛の歴史として描いたものである。神は人類との深い交わりのために世界を造った。そして花婿であるキリストを世につかわし、人類の救いを成し遂げて天の御座に引き上げられた。花婿キリストは、地上にある教会をやがて天上の御自分のもとに迎えようと導かれる。それ故神の民はその日を待ち望んで、信仰と希望と愛をもって歩むのである。
◇黙示録18章には「大淫婦」であるバピロンの滅亡が語られている。これは当時のローマの姿であるが、巨大な権力と富をもって世界を席巻した町の滅亡を告げている。今日世界中の贅沢品や食料を買い占めている虚栄の町の姿は、今日の都市文明に対する痛切な批判にもなっている。この「大淫婦の裁き」の後に「小羊の婚宴」が設けられる。この婚宴は21章に詳細に記されており、19章ではその前段階として「花嫁がその用意を整えた」場面である。
◇ここで注目されるのは、この婚宴において最初に語られるのが、「神をたたえよ」(5節)、「神の栄光をたたえよう」(7節)という神讃美だということである。キリストの花嫁の最大の喜びは、主の御顔を仰ぎ見、主と共に住むことである。人々はここで「ハレルヤ」コーラスを歌うのである。
◇第二に「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた」(8節)。ここではこの麻の衣が「聖なる者たちの正しい行いである」と説明されているが、ある注解者は、これは10節末尾ともども、後世の加筆ではないかという。それは人間の側で用意したのではない、神から着せられたものである。黙示録7:14では、聖徒達が着ている白い衣は「小羊の血で洗って清くした」と言われている。主がわれわれを潔め、恵みの衣を羽織らせて下さるのである。
◇藤井武は喬子夫人の死の悲しみの中で、先に天に召された妻が、自分を励まして、主の御許を仰いで地上の戦いを勇ましく戦うように促していることを覚えた。われわれも主のもとに召された先達に励まされ、「小羊の婚宴」に連なる日を待ち望みつつ信仰の戦いを戦い抜きたいものである。