2002.4-6


もくじ

◆06.23「家族ともども喜んだ」創世記50:15-21、使徒言行録16:25-34
◆06.16「イエスにつまずいた人々」サムエル記上3:1-10、マルコ福音書1:29-39
◆06.09「人の計画・神の計画」箴言19:21、第2コリント4:7-15
◆06.02「いやすために」イザヤ書61:1-4、マルコ福音書1:29-39

◆05.26「同志」エレミヤ書36:1-8、フィリピ書2:19-30
◆05.19「たゆまず祈りなさい」マタイ福音書25:31-40、ローマ書12:9-21
◆05.12「光と闇とを賜う神」イザヤ書45:1-7、ヨハネ福音書3:16-21
◆05.05「イエスは真のぶどうの木」ヨハネ福音書13:31-35、第一ペテロ2:1-10

◆04.28「不安を喜びに変える」創世記18:23-33、ヨハネ福音書16:16-24
◆04.21「愛のおきて」レピ記19:9-18、ヨハネ福音書13:31-35
◆04.14「まことの羊飼い」詩編100、ヨハネ福音書10:7-18
◆04.07「聖霊を受けなさい」詩編8:2-10、ヨハネ福音書20:19-31

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◆2002.06.30 全家族礼拝

「ノアの箱船」創世記6:9-22「二度と滅ぼさない」、創世記8:13-22

          大村 栄 牧師

 ◇大昔、人間は神様を悲しませることばかりしていた。神様は「みんな洪水で流してしまおう」と決心した。ただひとり神様を信じていたノアに「箱舟を作れ」と命じた。箱舟は長さ135m、幅22m、高さは阿佐ヶ谷教会の屋根の上の十字架までと同じ13m。ノアは神様が言われた通りに、一生懸命作った。ついに出来上がってすべての動物の雄雌が箱舟に乗り込んだ時、大雨が降って地上のみんなを流してしまった。

 ◇箱舟とは箱のような形で自分では動けない舟のこと。風と波に流されるままだ。でもやがて箱舟は、最も安全な場所にたどり着いた。そしてノアの家族と動物たちは、新しい土地で平和な生活を始めた。

 ◇箱舟は教会の始まりだ。昔の人たちはなぜ教会を造ったのか。ノアのように、神様が造りなさいと言うから造ったんだ。これから教会はどこへ行くんだろう。箱舟には舵がないから自分で行き先を選べない。でも神さまが世界で一番良い所へ運んでくださる。信じておまかせしよう。それに教会にはイエス様が船長でいて下さる。

 ◇洪水の後で、神は「…二度とすまい。…二度とすまい」(8:21)と繰り返している。神自らの固い決心と共に、平気で世界を流失させたのではなかったことを示している.世界を滅ぼすことは本意ではなかったのだ。それは神が後悔され、今後は人間の罪を忍耐することを決断された青葉である。

 ◇親は時々、子供があまりひどいことをやつたり、言ったりすると、思わず子供を叩いてしまうことがある。でもその直後に「もう二度としたくない」と思うものだ。神さまが洪水を起こしたのも、それと似ていると言えるだろう。しかし神はもう二度と、そうやって怒りを現すことをせず、今後はもっと忍耐をもって呼びかけ、誠実に関わっていこうと約束された。

 ◇次の9章で、神は約束のしるしに虹を置かれた。この会堂のドーム型天井は、その虹を象徴している。本来平行であった天と地が、天の神の側から、身を屈めて地に接近し、二度と世界を滅ぼさないと言って下さる。赦しの恵みを感謝せずにおれない。

 ◇だが人類の罪を見過ごすことが神の本意ではない。この罪に対して、「この度したように」処理はしない代わりに、ほかの方法で処理する。それは身替わりとして独り子イエスを十字架につけるという方法だ。だから虹の上の一番高い13メートルの所に、あがないのしるしである十字架がある。

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◆2002.06.23 聖霊降臨節第六主日

「家族ともども喜んだ」創世記50:15-21、使徒言行録16:25-34

          大村 栄 牧師

◇トロアスの町でパウロはマケドニヤ人の幻を見た。「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」(16:9)。彼はこれを神の招きと信じてボスボラス海峡を渡る。ヨーロッパで最初に福音に触れて受洗したのは、フィリピに住む紫布商人のリディア。彼女はパウロ一行に、「どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言って、神の青葉を自分の家に迎えた。この熱意が後にフィリピ教会を生みだした。

◇パウロはここで投獄されたが、その夜起こった大地震を通して、看守とその家族に洗礼を授けることとなった。看守は「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」(34節)。その地震はパウロや囚人たちを逃がすためのものではなく、一端は絶望に落ちた看守とその家族を、信仰による救いへと導くためのものだったのだ。

◇今日は地域別一斉集会を行うが、これの原点は旧メソジスト教会の伝統である「組会」。前々任地の日下部教会では15の組会を形成し、多くは定期的に集会を開いていた。伝統的な組会では昔から近隣が寄り合い、家長を中心に子供たちも座敷に座った。冬は炬燵に足を入れながら聖書を読み、牧師の話しを聞いて讃美歌を歌い、終わると決まって漬け物でお茶を飲んだ。

 ◇この組会制度は、メソジストの開祖ジョン・ウェスレ一にさかのぼる。英国国教会の教職であった彼は、18世紀のイギリスで信仰復興運動を起こした。「世界はわが教区」と宣言した彼は、神の言葉の説きあかしを求める者がいれば、どこへでも赴いていって語ろうとした。マケドニア人の幻を、神の招きと信じて赴いたパウロの姿勢に通じるものがある。そしてメソジスト運動は、町に一つずつ「集会(ソサエティー)」を設け、その下に12名ずつの小集団を作って、週に一度ずつ集まって学びと誇り合い、祈りと具体的な互助が行われた。これが「組会(クラス)」の始まりである。戦前の「日本メソデスト教会」(当教会の創始者平岩愃保牧師は第二代監督)もこの制度を活用し、信徒が互いに支え合う牧会を重んじた。

 ◇フィリピ伝道はリディア家の組会から始まったとも言える。これは我が家に神の言葉を迎えたいとの彼女の熱意と、一人でも求める人がいれば、世界の果てまで伝えようというパウロの熱き思いによって誕生した。メソジスト教会もこれを重んじてきた。家庭や地域に福音を迎えることを考えよう。あの看守の家のように、「神を借じる者になったことを家族ともども喜んだ」という事態が実現することを信じ、願いたい。

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◆2002.06.16 聖霊降臨節第五主日

「イエスにつまずいた人々」サムエル記上3:1-10、マルコ福音書1:29-39

          大村 栄 牧師

 ◇安息日に、故郷ナザレの会堂で教える主イエスを見て、町の人々をま驚いて言う、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。…この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。自分たちと同じ環境に生まれ育った取るに足らない人間が、3年ばかり外で勉強してきたからって、大した者になれる訳はないと考えている。

 ◇初代教会の聖書学者たちは、あまり大家族だと、キリストの神秘性とマリアの気高さを汚すと思えたらしく、これはヨセフの先妻の子たちだとか、イエスの兄弟ではなく、従兄弟たちだと主張したりした。しかし馬小屋に生まれ、飼い葉桶の中に寝かされた主イエスは、間違いなく大家族の中に生まれ、大勢生まれた弟や妹のために苦労した人。「貧しきうれい、生くる悩み」をつぶさになめた人だったのだ。

 ◇ナザレの人たちは、自分たちの慣習や生活の中でしかイエスを見れなかった。また昔の聖書学者たちは、イエスを自分たちとかけ離れた栄光の高みに設置しようとした。どちらもキリストを自分の思うとおりの場面に設置しようとして、イエスにおける神の御業に素直に触れることが出来なかった。「このように、人々はイエスにつまずいた」のだ。私たちも主イエスを自分の知識に引き入れ、レッテルを貼ったりして、同じ間違いを犯してはいないか。

 ◇「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」奇跡を見たら信じるというのではなく、信じて待つ人の上に奇跡(神の御業)は行われる。ここでは信じない者が多かったゆえに、奇跡は多く行われなかった。「ごくわずかの病人」だけが真に求め、信じたのだ。

 ◇自分の貧弱な知識が、神の偉大な御業を損なわないようにしたい。壮大で栄光に満ちた神の存在につながっていられるように、自分の信仰を神と人に向かって開け放ち、あらゆる所に響いている神の呼び声に聞き、それに応えられる看でありたい。

 ◇そのためには、少年サムエルのように、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と心と耳を素直に開いて待つ者でありたい。神の「呼びかけに聞く耳、問いに応える口、使命の道を進む足」(讃美歌II編83番)を持って、主のみわぎのために生きるものでありたい。

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◆2002.06.09 特別伝道礼拝

「神の計画・人の計画」箴言19:21、第2コリント4:7-15

          船本 弘毅 先生

 ◇阿佐ヶ谷教会の礼拝の講壇に立つのは、3回目となります。その都度、肩書きの変わっていることに気づかされます。私の一生は変化の少ないものと考えていましたが、1998年、思いがけず東京女子大学に来ることになり、さらに4年後、東洋英和女学院で働くことになりました。この変化は想像もしていなかったことであり、不思議さや、なぜという思いと共に、神の導きを思わずにはいられません。

 ◇歳言の根底をなす信仰は「主を畏れることは知恵の初め」(1:7)です。知恵は神の賜物であり、その知恵によって生きるところに幸福がある、と明らかにします。一人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(19:21)。私たちは様々に計画を立て、努力し、実行しようとします。しかし、計画の実現者は神であると歳言は粛然として告げます。

 ◇主に委ねよという言葉が聖書にはしばしば出てきます。委ねよとは、転がしてしまいなさいということです。のしかかってくる重荷を主に転がして担っていただきなさい、お任せしなさいと聖書は勧めます。D.ボンへツファーの獄中書簡には驚くべき楽観性、明るさ、信頼に満ちた言葉があります。彼は、結婚式の説教の中で、結婚する二人のこれまでの歩みが自ら選び決断した道であることを明確にした上で、その道を主に委ねなさいと勧めます。2人の人間の決断である新しい人生の歩みは、神によって守られ、支えられ、導かれていた。だから、その歩みを神に委ねなさい。神は導いてくださると語ります。

 ◇教会学校、大学の教え子、そして学生の父母を対象とした聖書を学ぶ会のメンバーでもあった女性が2月末に急逝しました。ご主人よりお便りをいただきました。その方の予定表には何ケ月も先の計画が記されていたとのことです。ご主人は島村亀鶴牧師の句、「汝が心天に向けよと吾子召して主イエスは我を振り返り見る」を引用し、「悲しみの淵から天を仰ぎ見る時、御そば近くにいる妻の姿を通して語りかけられる御言葉が真の響きをもって心に深く氾みとおります」と記しておられました。私はかつての教え子から、人の計画と神の計画、人の思いと神の思いをどのように受けとめるか深く教えられる思いです。パウロは、人間は土の器に過ぎないと語りました。しかし、神の宝が盛られる時に大いなる力を持つと語ります(2コリ4:7-9)。この力は、人の計画を超えた神の計画を信じ、身を委ねる時に私どものものともなるのです

 

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◆2002.06.02 聖霊降臨節第三主日

「いやすために」イザヤ書61:1-4、マルコ福音書1:29-39

          大村 栄 牧師

  ◇カフアルナウムの会堂で教えた主イエスは、そこから近いシモン(ペトロ)とアンデレの家に行った。彼ら兄弟はガリラヤ湖の漁師をしていた時、主イエスに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、「すぐに網を捨てて」、家族をも残して従った。(1:16-20)。

 ◇しかしシモンには「しゆうとめ」がおり、妻もいた。妻は同労者として同行していたょうだが(1コリ9:5)、妻の母は娘夫妻に見捨てられたような気になっていたかも知れない。その彼女に主が近寄り、「手を取って起こされ」た。軽い病にあったようだがそれも癒され、「彼女は一同をもてなした」。「もてなし」は、広く教会の奉仕を表す言葉でもある。この日から彼女は、教会を通して主に仕える者とされたのだ。

 ◇シモンの家では、彼自身の献身から家族の者たちも、妻の母までも主に仕える者とされていった。私たちは礼拝に身を置きながら、家に残してきた家族のことを忘れられない。私たちに「従ってきなさい」と献身を求める主イエスは、同時に私たちの背後にある家族たちとも出会って下さり、必要な時は「手を取って起こして下さる」ことを信じよう。

 ◇安息日の終わる日没を待って、「32:人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」。悪霊は神に敵対する悪魔的な力を代表するものだから、最大の敵である神の業に対して敏感に反応し、拒絶反応を起こす。1:24では悪霊が恐怖の叫びをあげている。「ナザレのイエス、かまわないでくわ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。

 ◇ここシモンのしゅうとめの家では、主イエスは「34:悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」。その理由は「悪霊はイエスを知っていたからである」。前述のように“正体は分かっている。神の聖者だ”と言わせたくなかったから。なぜなら主イエスがメシア(救い主)としての本領を発揮するのは、十字架と復活によってであり、それ以前の段階で「あなたはメシアだ」と叫ぶ悪霊の指摘は、主イエスの歩みを阻止するものとなるからだ。病の癒しは、決してそれ自体が最終日標でないのである。

 ◇主は言われた、「38:近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」。「宣教」とはキリストを信じる信仰によって、罪の赦しが得られるという「福音」を宣言すること。「38b:そのためにわたしは出て来たのである」。それがイザヤ書ほかにある旧約の預言の成就でもあった。そして私たちもこの福音宣教に用いられる。

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◆2002.05.26 聖霊降臨節第二主日

「同志」エレミヤ書36:1-8、フィリピ書2:19-30

          須田 則子 牧師

◇「あなたに力づけてほしい。」パウロはフィリピ教会の人々に願いました。力づけられたいとは、自らの弱さを表す言葉です。パウロは隠すことなく真直ぐに願いました。

◇自らの欠け、弱さを隠して隣人に求めるなら言葉は屈折します。「私はこれだけがんばっているのに、あの人は何をしているのか。」隣人の労苦は見えなくなります.それとは対照的なまなざしがパウロからテモテに注がれます。パウロはテモテがどれほどフイリピ教会のことの心にかけ、労苦してきたかを自らの投獄、裁判の一大事の中で見ます。テモテは母親(家族)の信仰を受け経いだ形でキリスト者となり、パウロとは信仰への道すじ、生まれ育った環境が異なります。しかしパウロはテモテを「私と同じ思いをもつ者」と断言します。

◇教全は受洗に際して、面接や試問会の場で隣人の「思い」、信仰の言葉を聞きます。はじめて受洗への学びを担当した時、長老会で語る志願者の女性の言葉を聞き愕然としました。なぜなら目の前で長老の質問に答える言葉、姿は、かつて洗礼を願い出たときの私自身の姿でもあったからです。「考えを押しつけた覚えなどないのに、一体この人はこの信仰の言葉をどこから得たのか」と問わざるをえませんでした。そして信仰は人が人に、上から下に教え込むのではなく、私たちが同じ主に捕らえられることによって起こると示されました。

◇パウロとテモテは、同じように主を知っていました。主がどれほど2人を心にかけておられるかを。私どもは長く生かされれば生かされるほど「神様はなぜ、このような私をこれほどまで導いてくださるのか」と驚嘆の思いをもって過去を振り返るのではないでしょうか。「こんなつまらない人間、こんなちっぽけな存在。こんな人間を生かしておいて一体神様に何の得があるのか」と問いつつ、変わらずに注がれる主のまなざしを知るのです。

◇主のまなざし、思いを知った者たちは主と同じ心をもって生きはじめます。キリストの同志、互いに同志として。主は敵を同志とされ同志になり得なかった者、臆病者、信用ならない者を御許に引き寄せます。

◇パウロの優しいまなざしは、病気のためフイリピ教会の期待に答えられなかったエパフロディトにも注がれます。ただかばうだけではありません。エパフロディトの存在、テモテの存在、教会の人々が本当にパウロを力づけます。試練の中で主に捕らえられ信仰に生きる隣人。この存在が私たちを力づけます。主に感謝しよう。

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◆2002.05.19 聖霊降臨祭礼拝

「たゆまず祈りなさい」マタイ福音書25:31-40、ローマ書12:9-21

          大村 栄 牧師

 ◇今日は聖霊降臨日、ペンテコステ。使徒言行録2:1~4が語るように、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ去った自らに絶望し、とことん心貧しく、弱くなっていた。水瓶が空っぽであれば水がたくさん入るように、人間的な自信を失って絶望の中にあったからこそ、彼らに神の力である聖霊が一杯に満たされた。人間の確信で満杯になっているところには、神の力は注がれない。

 ◇聖霊に導かれて弟子たちが福音を語り出したことをもって、世界に教会が誕生したこの日に、私たちは2002年度教会標語のローマ書12:12「希望をもって喜び、苦寿を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」を味わう。「たゆまず」の原語は【専念する】。そしてこの言葉が、ペンテコステの出来事を告げる使徒言行録2章に多く見られるのだ。

 ◇福音を語るペトロの言葉を聞いて、「その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(2:42)。また「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた!(2:46-47)。教えの学び、交わりパン裂き(聖餐の原点)、礼拝に【専念していた】のが初代教会の特徴であり、これゆえに彼らは「民衆全体から好意を寄せられ」、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」(2:47)のである。

 ◇専念するとは逆に、多くのことに思いが乱れ、それゆえに殊が気が利かないと言って批判したマルタに主は言われた。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」(ルカ10:41-42)。「話に聞き入っていた」マリアが良くて、忙しく奉仕するマルタが悪いのではない。ただ彼女が愛を失って人を責め、自分を絶対化するというあやまちを犯したのである。

 ◇初代教全が専念していたのは静かな学びと祈りの、マリア的生活だけではない。マタイ25:31~40の「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ね喜てくれた」という言葉は、信仰者の果たすべき奉仕についての主イエスの教えである。それらの愛のわざに【専念する】教会でもありたい。聖霊の助けを頂いて。

 ◇「あしたにゆうべに、種をまけよ。人をなぐさむる、愛の種を。たゆまずうまず、種をまけよ、平和の花さく、愛の種をば」。(こどもさんびか1953年版)

 

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◆2002.05.12 復活節第七主日

「光と闇とを賜う神」イザヤ書45:1-7、ヨハネ福音書3:16-21

          大村 栄 牧師

 ◇第二イザヤは、ペルシャ王キュロスのバビロン征服とイスラエル解放(539年)の背後に神のみ手の業を見て、キュロスを「1:主が油をそそがれた人」と呼ぶ。神がイスラエルのために彼を聖別して王位につけ、勝利を賜わったと信じたのだ。彼は「わたしの望みを成就させる者」(44:28)とまで呼ばれているが、おそらく生涯主を知らなかったろう。それでも聖書は彼を神の支配の下に生きた人と記す。神は神を信じる者だけの神ではない。すべての人が各々の仕方において「わたしの望み(=神の計画)を成就させる者」とされている。

 ◇ただし神のご計画は、良いことにおいてだけ見られるのではない。「7:光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」。光も闇も、共に神の被造物である。「光と闇」という言葉には古代ペルシャのゾロアスター教の影響が感じられる。光の神と閣の神との対立抗争が人生と世界の動向を左右する。それが日本に伝来して平安時代の陰陽道となったりした。私たちは陰と陽、光と闇という二元論的な神でなく、一神教を奉ずる者だが、ともすると神は光だけを創造し、闇は神の守備範囲外、領域外と思ってしまう。だから平和や繁栄の時には神に感謝の祈りをするが、災いの時には自分の失敗を悔やんだり、人の責任を追求することに気を取られる。

 ◇ヨブ記を思い出す。信仰深くて善良なヨブは、突如財産や家族を失い、自身の肉体も蝕まれるという不幸に見舞われる。友人たちがヨブを諭すが、いずれも彼の心を静めるものではない。彼らの諭しは要約すれば「因果応報」だった。ヨブはその言葉に納得せず、神に直接食らいつく。その結果、遂にヨブに直接神の言葉が与えられる。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは」(38:1-2)。「神の経綸」は神の意志や計画。

 ◇結局苦難の意味を問うヨブ記においても、その意味は解明されない。しかし苦難の意味は分からなくて良いのだ。子供が親に「何で私を生んだんだ」と問い質して何の意味があろう。苦難の意味を問うことは、それと同様に患かなことである。聖書には理論的に解決される以上の答えがある。苦難の意味が分からなくても、その分からない閣の部分にも、「独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)神の支配は必ずあって、最善を成して下さる。それのみを信じて委ねていこう。

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◆2002.05.05 復活節第六主日

「イエスは真のぶどうの木」ヨハネ福音書15:1-12、第一ペテロ2:1-10

         大村 栄 牧師

 ◇甲府盆地では今頃の季節になると、ぶどう農家で枝の剪定が行われる。伸びすぎた不要な技葉を切る剪定は、より良い実をみのらせるために必要不可欠である。「2:わたしにつながっていながら、実を結ばない技はみな、父が取り除かれる」。

 ◇「2:実を結ぶもの」にも手が加えられ、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。「手入れ」とは「清め」のこと。ただし特殊な体験によってではなく、ただキリストの福音によって清くされ、被造物としての実りを挙げる者とされる。「3:わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。キリストに「つながっている」とは、このキリストの言葉=福音に生かされているかどうかだ。

 ◇聖書の時代の人々にとって「ぶどうの技」とは選民イスラエルのことだった。しかしキリストは、血族関係の選民を否定し、福音による生きた信仰共同体を形成すべきことを教える。「つながっていながら、実を結ばない枝」のような、枠組みにあぐらをかいた形式的クリスチャンでなく、キリストの福音に生かされ、愛と感謝と喜びの実を結ぶものでありたい。

 ◇主は「わたしにつながっていなさい」と命じると同時に、「わたしもあなたがたにつながっている」と言われる。「5:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」になれではなく、すでに「その技である」のだ。一生懸命にしがみついてこい、と言っているようで、実は同時にどんな時にもあなたを離さないと言って下さる。自分はかろうじてつながっているような人間だと卑下する人にも、私はあなたを支えて、最後まで持ちこたえようと言って下さる。

 ◇「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。我が主イエス、われを愛す」。神学者カール・バルトは晩年に、「自分の膨大な著書も、小さな子供たちの歌う『主われを愛す』の讃美歌以上のことを語ろうとはしていない」と言った。「我が主イエスわれを愛す」ことを知って.喜びと希望の旅をたどる、それがぶどうの木につながっていることの意味である。

 ◇私たちは、ぶどう棚のように固く張り巡らされた人間社会の仕組みによって守られて、自力で生きていると考えている。しかし実はそこには軽くぶら下がっているだけで、根本はあの貧弱にさえ見える幹によってしっかりと支えられており、この幹から送られてくる福音という栄養によって喜びの実を結ぶものとされているのだ。ここに真の一致の可能性もある。

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◆2002.04.28 復活節第五主日

「不安を喜びに変える」創世記18:23-33、ヨハネ福音書16:16-24

          大村 栄 牧師

◇16-19節に、再臨に関して「しばらくすると」という言葉が7回も、くどいはどに使われる。主は再び来ると言われたが、その約束はなかなか実現しない。年が経つに連れて、あれは偽りだったのではないかと疑い、教会を離れる者も出てきた。そんな状況の紀元90年頃に、ヨハネ福音書は約束を信じて待つべきだと主張したのだ。

◇「20:はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。十字架は主の敗北であり、挫折であった。イエスを憎む世はその死を喜び、弟子たちは悲歎にくれる。しかしそれは「産みの苦しみ」(21節)であって、「しばらくすると」、この挫折と屈辱の只中から真の喜びが生まれる。「はっきり言っておく」の原語は「アーメン、アーメン」。特別な成厳を持つ言葉だ。再臨の主との再会は単なる過去の回復ではなく、終末における全く新しい希望の約束なのである。

 ◇いつか知れないその時まで、私たちは悲しみと不安の連続の中を過ごさねばならない。しかし産みの苦しみが必ず誕生の喜びに変わるように、苦悩の末に必ずや満ちあふれる喜びが約束されている。「このよに/てんごくのきたる/その日まで/わがかなしみのうたはきえず/てんごくのまばろしをかんずる/その日あるかぎり/わがよろこびの頌歌(うた)はきえず」(八木重吉)。

 ◇23節にも「はっきり言っておく(アーメン、アーメン)」に続いて、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。…願いなさい。そうすれば与えられる」との約束がある。ソドムとゴモラの町が罪のために滅ぼされようとした時、アブラハムはその町に正しい人、すなわち神を信じる人が10人いたら赦して下さいと必死に願い求めた。すると「その十人のためにわたしは滅ぼさない」。神を信じて求める者がわずかでもいれば、滅ぼさないと言われている。「こんな世の中‥・」とか「あんな連中・・・」とかと、周囲の罪を嘆いたりするのでなく、先ず私が、信じて待つ者の一人になればよい。

 ◇「しばらくすると」悲しみが喜びに変わる時が来ると信じて待つ人は、たとえ少数でも、その人々の存在によって世界が救われる。私たちは「かなしみのうたはきえず」という厳しい状況にあっても、信仰によって「てんごくのまぼろしをかんずるその日」を持つ者でありたい。現在の悲しみが「産みの苦しみ」であることを知って、今よろこびの頌歌をうたうものでありたい。

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◆2002.04.21 復活節第四主日

「愛のおきて」レピ記19:9-18、ヨハネ福音書13:31-35

          大村 栄 牧師

 ◇聖書は自然発生的な愛でなく、努力して「互いに愛し合いなさい」と命じる。祈祷会で読んでいるルツ記で、未亡人であるナオミとルツの生活を支えたのは、律法によって弱者に保証されている落ち穂拾いという制度によってであった。愛の戒めは「優しい社会」を作るために不可欠だ。

 ◇しかし実態はそれと反するこの世界。ここに愛の戒めの規範を示すべく、神は独り子を遣わされた。13章冒頭の「洗足」の行為にその具体例を見る。13:1「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。口語訳では「最後まで愛し通された」。それは時間的な終わりではない。愛することを始めたならば、相手がどう変化しようとも「最後まで愛する」愛を表現する言葉だ。

 ◇ユダの心を「悪魔」がとらえ、その支配がひそかに進行しているただ中で、主イエスは突如、ひざまずいて弟子たちの足を洗われた。奴隷の仕事を主が行うので、弟子たちは驚いて拒むが、限りなく人を愛し、その人のために低くなって仕え、その救いのために自分の命を棄てるという「最後まで愛する」愛の実際をここに示された。

 ◇ユダの裏切りの開始と共に主は言われる、「31:今や、人の子は栄光を受けた」。世の栄光とは異なり、人の子イエスの栄光は裏切りや憎しみという闇の出来事のただ中で実現される。悪魔の仕業に取り憑かれ、挫折や失望によって愛することを放棄している人々のただ中で、なおかつ限りなく人を愛し、その救いのために自分の命を棄てるという、逆説的な行為を通して現わされる「愛の栄光」である。この愛が「最後まで愛し抜く愛」に他ならない。これによって「愛の勝利」に与る者であってくれと主は弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との「愛の掟」を与えられたのだ。

 ◇ただしそれは、マタイが言う「汝の敵を愛せよ」というような博愛主義的な勧告ではない。「ヨハネの教会」と呼ばれる閉鎖的な信仰共同体の中における愛を勧めている。しかし教会の内部で「35:互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。教会の愛が社会にあふれ出ていく。「終わりまで(エイス・テロス)愛された」の「テロス」は、「世の終わり」をも意味する。私たちがご委託に応えて愛の共同体としての教会を形成し、愛で世界をおおいつくす時を主は忍耐強く待っておられる。

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◆2002.04.14 復活節第三主日

「まことの羊飼い」詩編100、ヨハネ福音書10:7-18

          大村 栄 牧師

 ◇詩編100:3「わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ」。私たちは主を飼い主とする羊だ。今回の転居に際して、私は飼い犬を清水に置いてこようかとも考えた。大げさに言えば私は飼い犬の運命を握っていて、生かそうと殺そうと自由なのだ。「主はわが飼い主」と告白するならば、神が私の運命をそのように支配しておられると認めなくてはならない。

 ◇ただ神は、私たちに対する生殺与奪の権限をどのように行使される方だろうか。それを示すのが、福音書に見られる主イエスの言葉と行いである。羊伺いなる主は、自分のために羊を捨てるのでなく、「11:羊のために命を捨てる」。そういう愛の飼い主に、私たちは身を委ねようとしている。

 ◇今日の交読詩編23は「静かな信頼の歌」。「1:主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない.…3:主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる」。神は自らの意志によって被造物に対する正義を実行し、人間を救いへと導いて下さる。しかしその天の高みにいます主が「あなた」と呼びうる存在となって共にいて下さる。「4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる」。

 ◇最後は羊飼いから、客をもてなす主人にとたとえが移っていく。「5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる」砂漠で強盗に追われる旅人が天幕に逃げ込むとその家の主人が彼を保護し、もてなしてくれる。旅人は今までの敵に追われていた恐怖の日々を嘘のように感じる。

 ◇そして「6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。さっきまでの敵に追われていた身から、大転回して「恵みと慈しみ」に追われる者となる。左近淑先生はここを、「恵みといつくしみが、わたしを追いかけてくるから、わたしはいつもくりかえして、主の宮にもどってまいります」と訳された。

 ◇主を我が飼い主とする私たちは、それによって恵みと慈しみにあずかることの感謝を捧げるために、主の宮なる教会の礼拝に戻ってくる。「16:囲い」は教会。ここにいない「ほかの羊Jを導くことも主イエスの使命であるなら、主を飼い主とする私たちは、その手足となるべきである。無限大に広がる囲いの外に、主イエスはご自分を「良い羊飼」として差し出される。この主の愛を宣べ伝えよう。先ず大事な家族に。

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◆2002.04.07 復活節第二主日

「聖霊を受けなさい」詩編8:2-10、ヨハネ福音書20:19-31

          大村 栄 牧師

 ◇復活の主にお会いできず、復活を「信じない」と言い放ったトマスに、8日目に再び現れた主は、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われた。

 ◇「信じる」とは、本来、見ないで信じることに他ならない。目の前にいる人の存在を「信じる」というのはおかしな話しだ。たとえば「親を信じなさい」と言う時、それは親の存在ではなく、その愛を信じ、判断を信頼してほしいということ。弟子たちにとって復活を信じるとは、出来事としてのそれを信じることではなく、目には見えないけれどその背後にあって、イエスを廷らせて下さった神の存在とその愛を信じ、人生をその神の愛に委ねていくことだ。

 ◇そのことを促すのが聖霊である.主は「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。聖霊は復活の主イエスの息吹である。そもそも「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。土の塵に過ぎない人間に、神の命、神の力、神の愛が吹き込まれた。

 ◇偉大な創造の神がこのように「御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう」(詩編8:5)。「人の子」(ペン・アダーム)、すなわち「土(アダマ)の塵」で造られた「人(アダム)の子」。土の塵に過ぎない私たちを、神はなぜこれほど顧みて下さるのか。

 ◇その理由を解明する必要はない。愛に理由はないからだ。この愛に対して私たちがすべきなのは、理解することではなく、信じること。信じて委ねることである。復活の主がトマスに言われた言葉、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、「見ないのに信じる人は幸いである」。これらを神の愛への招きと受けとめ、これに応えて委ねて生きる者とされたい。

 ◇その事を私たちに力強く促す聖霊の賦与は、おびえていた弟子たちに、新しく神の愛と力を注ぎ込み、彼らを新たに立ち上がらせた。さらにこうした聖霊体験はペンテコステにおいて最大規模に起こり、史上初の教会が誕生した。聖霊とは、神の愛と力によって教会を誕生させ、そこに人々を召集するものである。聖霊の息吹はここから発して、世界に風を起こしていく。その原点に、最初のイースターの日、弟子たちに「平和があるように(安かれ)」と言われた復活の主イエスが立っておられる。

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