◆1996.12.24
「博士になろう」マタイ福音書2:1-12
◆1996.12.22
「新しい時のしるし」ルカ福音書2:1-20 フィリピ書4:4-7
◆1996.12.15
「あけぼのの光」イザヤ書40:3-5,9-11 ルカ福音書1:67-79
◆1996.12.8
「主を待ち望む」ルカ福音書21:25-28 ペトロII3:8-13
◆1996.12.1
「明けの明星」ゼカリヤ9:9-10 ペトロII:16-21
◆1996.11.24
「希望の忍耐」ペトロI 5:8-14
◆1996.11.17
種を蒔く人」マルコ福音書4:1-9
◆1996.11.10 「神の民の歩み」ペトロI
5:1-7
◆1996.11.3 「苦しみの意味」ペトロI
4:12-19
◆1996.10.27
「聖徒の交わりを信ず」ガラテヤ5:13-14 ペトロI 4:7-11
◆1996.10.20
「命の光の中に」詩編56:9-14、ヨハネ福音書11:17-27
◆1996.10.13
「執り成しの主」ヘブライ人への手紙 4:14-16
◆1996.10.6 「意義ある人生」ペトロI
4:1-11
◆1996.9.22 「命の恵みを共に受け継ぐ」ペトロI
3:1-12
◆1996.9.15 「神の力」コリントII 12:1-10
◆1996.9.8
「キリストの模範」ペトロI 2:11-25
◆1996.9.1 「新しい神の民」ペトロI 2:1-10
◇クリスマスの夜、東方から博士が星に導かれてやってきました。この星について天文学者ヒューズ博士が興味深い論文を書いています。木星、土呈、魚座の恒星が120年に一度重なり合い非常に強い光を発することが、紀元前10年の10月に起こりました。当時は占星術が重んじられており、人々は星の連行から世界の動きを知ろうとしました。そして木星は王と、土星と魚座はイスラエルと関係があったのです。ヒューズ氏は博士たちがこの出来事を目撃し、その意味を確かめるために旅に出たのではないかと考えています。
◇占星術を頼りにベツレヘムを訪れた博士の姿から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。この博士たちには求道する姿勢があります。最初は部分的にしか分からなくても、彼らは真実を追究し続けました。諦めずに追い求めることによって、彼らは最後に真理に導かれたのです。ベツレヘムの夜空に輝いた星が、闇夜を照らす真の光イエス・キリストの誕生を告げるしるしであることを知ったのです。イスラエルの星は私たちのしるしでもあります。この星に従い真理を求めることによって、私たちは人生の本当の意味を知り、本当の人間になることができるのです。
◇友人のモリタさんは目に障害があり、針灸師をしています。家庭集会である家庭を訪問したときに、彼は客間に通されるなり「奥さん、新鮮な生け花ですね」と言いました。さらに周りの者の驚きをよそに、「見てもいいですか」、「触ってもいいですか」と言ったのです。奥さんに案内されて床の間に行き、針灸で鍛えた敏感な手で花に触れました。そして最後に「美しいですね」と言いました。彼は目が不自由でしたが、その花の美しさが見えたのです。私たちにとってイエス様を信じることはこれとよく似ています。私たちが見ようとしなければ分からないし、触れようとしなければ知ることはできません。しかし信仰の手を伸ばし、信仰の指先で触れれば、クリスマスの本当の意味が見えてきます。
◇ベツレヘムの星は私たちの人生の道標です。神様は私たちがこの命の光に従って生きるようにと招いています。あなたも博士になりませんか。博士はもっと多くのことを知るためにベツレヘムに向かい、真理の求道者になりました。イエス・キリストという真理の光に触れたのです。あなたも博士のように、イエス・キリストを心に迎え、新しく生きる人になりませんか。そこには満ち溢れる喜ぴがあることを約束します。
◇降誕祭にあたり、われらのうちに来られ、われらと共に歩まれる、主イエス・キリストの恵みが、皆さんの上に豊かにあるように祈る。「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(イザヤ60:1)。
◇ルカ福音書は、主イエス・キリストの誕生を、ローマ皇帝アウグストウス治世下のこととして記している。これは主イエスの誕生と生涯が世界史的な意味をもっていることを示すものである。「全領土の住民」(l節)と訳された言葉は「オイクメネ一」で、一つの家としての世界をあらわしている(世界教会エキュメニカル連動の語源)。経済(エコノミー)も環境研究(生態学エコロジー)も同じ「家」という言葉を語源としている。今後の世界を決定するものとして経済と環境間題があるが、その根底に人間の生き方が問われている。この生き方を決定するものとして、主イエスの誕生と生涯は今もわれわれの世界に意味をもっているのである。
◇主イエスの生まれた時の世界を支配していたのは皇帝アウグストであった。住民登録は帝国の徴税の資料作成のためであった。そのような権力者の命令で、人々は難民のように追い立てられて本籍地に帰らなければならなかった。この混乱のさ中に主イエスは生れたのである。生れた時「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(7節)。これは主が権力者でなく、しいたげられた者たちと共にいるしるしである。しかしそれ以上に人間が神を迎える場を持っていないことを示している。われわれも今「神を迎える備え」があるかを問われているのである。
◇クリスマスの知らせを最初に聞いた羊飼いは「非常に恐れた」(9節)。この恐れは、未知なるものに出会った恐れである。人知で測り知れぬ神が、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている」(l2節)という大きな対照に気付くとき、われわれは神の恵みの深さに驚き、恐れ、感謝するものとなるのである。神の子が飼葉桶に臥すというのは、人間の無情のしるしであるが、それと同時にそこにまで降りたもう神の深き憐れみのしるしである。それと共に力の支配を終らせ、真実の愛の支配する新しい時のしるしである。
◇キリスト誕生の喜ぴを知らされた時、天軍は「天に栄光、地に平和」(14節)と歌った。神との縦の関係と人間同士の横の関係が回復し、新しい出発の道がふみ出されたのである。羊飼いは「神をあがめ、讃美しながら」(20節)生活の場に帰った。われわれもこの道をふみ出したい。
◇待降節第三主日には「主のために、荒れ地に広い道を通せ。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られる」(イザヤ40:3,10)の御言葉が読まれる。これは第二イザヤと呼ばれる預言者が、バビロン捕囚が終り祖国帰還の時が来た時、同朋に向って、神が来られて新しい時代が来たことを告げた言葉である。キリスト教会はこの言葉を、クリスマスにあたって、主を新しぐ迎えるようにとの招きの言葉として聞いてきたのである。
◇今日のもう一つの御言葉は、ザカリアの讃歌(Benedictus)である。彼が主イエスの先触れであるヨハネ誕生の折に歌った感謝の歌である。ザカリアは老人であった。子を得る望みのなくなった老人に、子が与えられたのである。クリスマス物語には老人が多く登場する。彼らは自分の人生の結論を出さなければならない人々である。「なんという空しさ、すべては空しい」(コへレト1:2)という結論もあり得よう。しかし、降誕物語の老人は、イエス・キリストに出会って、深い喜ぴに満たされ、深い満足をもって世を去ることができると告白している。
◇これはイエス・キリストの誕生が、人聞の歴史と人生に、意味と完成をもたらすからである。聖書は歴史を「救いの歴史」「救済史」と理解している。それは神と人間との契約の歴史であり、神は人間を契約の相手として選ばれたので、人間が神の愛に背いて不真実のうちに転落する時、それを怒り裁かれるが、そこで終らず、不真実なものを真実なものにしなければやまない。このような愛が「憐れみ」(78節)である。イエス・キリストをこの世につかわされたのはこの「憐れみ」である。
◇「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れる」。イエス・キリストという「あけぼのの光」を浴びる時人生は暗闇と死に呑み込まれて終るのでなく、命の朝を迎えるものとなる。老人の喜びはここにある。しかしこの光は若者にも全世代の者に向けられる。間もなく21世紀を迎えるが、前途は決して甘いものではない。人類は滅ぴるのではないかと、真剣に危惧する声もある。だしかに、われわれの明日が開けるためには、人間の生き方が変らなければならない。「共に生きる」ことが求められる。その時大切なのは、われわれの前途に「神が共にいます」という約束である。この約束を信じ、それ故に人生の荒野にひるむのでなく、勇気と希望をもって、荒野に道を備えることが求められている。神の愛に目覚めて歩むことである。
◇待降節から降誕節にかけて、われわれはしはしば、毎年新しく主イエスが誕生するかのように語りがちである。しかし主イエスは歴史の中で唯一度生まれ、唯一度の生涯を歩まれたのである。このことは、主イエス・キリストが真の人間であったことを示している。人間とは時間的存在だからである。さらにこれは、永遠なる神が時間的存在となったことを意味する。われわれは時間を超越した永遠者とは交わることができない。永遠者が時間的存在となることによって、時問的存在(人間)が永遠者と交わることができ、永遠に覚えられ、生かされる道が開かれたのである。
◇この主イエスの誕生を、毎年祝うのは何故であろうか。それは主イエスが、30年の生涯で終ったのでなく、永遠に生きる方だからである。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:18)。この主と新しく出会うのである。「キリスト幾千度(いくちたぴ)ベツレヘムに生まれたまうとも、汝のうちに生まれたまわずば、汝はとこしえに失われてあらん」(アンゲルス・シレジウス)。この主が「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(黙示録3:20)ので、われわれは新しく心の扉を開いて迎えるのである。
◇このキリストは「見えざるキリスト」「信仰のキリスト」である。それは聖霊がわれわれを天にあるキリストに結びつけてくれる故に、交わることができるのである。しかし主は、終りの日には見ゆる姿で来られ、神の国をうち立てられる。われわれは現在霊のキリストと交わりつつ、主の見」ゆる姿での来臨を待ち望んでいるのである。それは遅いと思われることもある。しかし「主のもとでは一日は千年のようであり、千年は一日のようです」。故に、われわれはいつでも主を迎えられる備えをしたい。
◇「一日は千年のよう」というのは、主イエスの地上生涯に特にあてはまる。それは人聞の歴史全体を新しく意義づけるものだからである。ユダヤ教は歴史の重点を終末に置く。ところがキリスト教は、歴史上の最大の出来事は、その只中で起った主イエスの生と死と復活にあると信じるのである。十字架上で神の子が死んだということは世界が滅ぴる以上の深刻な危機であった。しかし神は彼をよみがえらせ、それによって歴史のどんな危機も、神によって克服されることが証明されたのである。それ故キリスト者は危機の中で「身を起して頭を上げる」(ルカ21:28)のである。
◇待降節を迎え、キリストの最初の来臨(ベツレヘムの誕生からゴルゴタの十字架まで)によって与えられた救いを喜びをもって思い起し、「主の再ぴ来たりたまうを待ち望む」思いを新たにされる。ペトロの手紙lは「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨」を、キリスト者がしっかりと心にとめる様にすすめている。われわれの前途に何が来ようとも、最後に来られるのがイエス・キリストであることを知ることによって、人生を恐れなく、希望をもって歩めるからである。
◇「生ける者と死ねる者」とをさばく方が、イエス・キリストであることを知る時、われわれは終末を恐れるのでなく、むしろ主に会う喜びを与えられる。ペトロはイエス・キリストの証人として「キリストの威光を目撃した」経験を伝えている。特にここでは福音書に記されている「山土の変貌」(マルコ9章)に言及される。これはわれわれ人間と同じ姿で、われわれと共に歩まれた主の、内に秘めておられた神の輝きが,透けてあらわれた出来事であった。
◇この変貌は、キリストの神性の輝きであると共に、人間の真の姿、「神の像」としての人間が回復した姿である。「神の像」とは「愛の像」と言ってよいであろう。主イエスは人間の道を「神を愛し、人を愛する」愛の道として示された。しかし人問は愛の本性がそこなわれて、愛と反対の憎しみの道を歩んでいる。主イエスはその罪と憎しみの姿を打ち砕き、まことの愛を示されたのである。そして、その御生涯の働きを通して、人聞をつくりかえ、「神の似姿であるキリストの栄光」を受けて、新しい人間として生きることを可能にして下さり、キリスト再臨の時は、人間完成の時でもあることを約束して下さったのである。
◇それ故イエス・キリストは、われわれに新しい救いの時代を告げる「明けの明星」(19節)である。これが万人の心の中に昇るのは、再臨の時である。しかし神の言葉を「暗い所に輝くともし火」として、信仰の目を開く者には「夜は更け、日は近づき」(ローマ13:12)、明けの明星が昇る。
◇アウグステイヌスの回心の物語は、人間の心の中に「夜が明け、明けの明星が昇る」経験を劇的に伝えている。神から迷い出た放浪の旅から父のもとに帰ろうとしてそれが自分の力ではできないと嘆いていたアウグステイヌスが、うながされるような思いでローマ書13章を開いた時、「イエス・キリストを着る」回心を与えられた。われわれもまた信仰の目を開いて、明けの明星を仰ぎたいものである。
◇伝統的な教会暦は、待降節に始まり終末主日に終わる。今日は終末主日である。この日われわれは歴史の終末と人生の終りについて学ぶようにうながされるのである。終りの日にわれわれは神の前に出て、自分がどう生きたかを間われる。「神と出会う備え」(アモス4:12)が求められるのである。
◇終末的信仰をうながすものとして「十人のおとめ」のたとえが思い起される(マタイ25:1-13)。花婿を待つ10人のおとめのうち、賢い5人はともしぴと共に備えの油を用意していたが、愚かな5人はそれを持たなかった。花婿の到着が遅れたため皆眠ってしまったが,真夜中に突如来る。そこで油のあるなしが、おとめたちの運命を決定する。この油とは何であろうか。それは「信仰」であるが、特に「信頼としての信仰」である。幼児は基本的信頼を与えられることによって、成長期の疾風怒篤の中でも希望をもち、それ故に忍耐することによって、人生の戦いに勝利する者となる。それと同じく、神の導きに信頼する故に、希望と忍耐の道を歩む者は、世俗の生活に埋没したり、絶望に呑み込まれたりすることから守られて、何時でも主を迎えることができるのである。
◇ペトロの手紙Iは、その末尾において、キリスト者が試練の戦いの中で、信仰による勝利の道を歩むように励ましている。「身を慎んで目を覚ましていなさい」(8節)と勧める時、ペトロはゲッセマネの園で主イエスが真剣に祈っておられた時に、弟子たちは眠りこけていた状況を患い浮べていたかも知れない。あの時主は、「わたしはあなたのために祈った」(ルカ22:32)と言われた。あの危機を、ペトロたちは主に執りなされて、乗り切ることができた。主にとりなされ、励まされて、悪魔が「ほえる獅子のように」おどそうとも、目覚めて、戦うことができるのである。
◇試練は同時に訓練である。「神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。骨の折れた部分はつながれると却って強靱になる。人聞は試練によって却って強くされる。人間は苦芳を重ねることによって、疲労困想し、暗く固くなる場合もあるが、それによって練られ、きたえられ、弱きものを強くして下さる神へのィ言頼を深め、謙虚さを学ぴ、他者の苦しみに共感ずることのできる人になる場合もある。試練の中で「わたしの恵令はあなたに十分である」(コリントII 12:9)ことを知るからである。
◇神様はわたしたちの心に大切な種を蒔いてくださいます。命の種、知識の種、愛の種があります。このことに気付かせ、それらを下さった神様との交わりを作り出すのが「神の言葉」です。種蒔きのたとえはこの神の言葉をわたしたちがどう聞くかについて教えているのです。
◇神様がくださった種が、芽を出さず枯れてしまって、わたしたちの力にならないことがあります。主イエスは3つの場合をあげておられます。第1は「道端に落ちた種」。道端は人々が足で踏みつけ、土か堅くなります。人の心も、他人のことばかり気になり、神様の方に向く時を失ってしまうと堅くなり、神の言葉によって養われなくなります。第2は「石地に落ちた種」で、すぐ芽を出すが、根を張れずに枯れました。不信仰や愛のない冷たい心、憎しみという石の心です。第3は「茨の中に落ちた種」です。内側に良い心と悪い心が生えていて良い心が枯らされてしまうのです。
◇これらの不毛の地を良い地にするために、農夫は土を深く掘ります。石を取り除き、茨を払います。神の言葉が育つためには「よく聞く」ことか大切です。神の言葉を真剣に聞き、それによって生きる時に、心は養われ、明るくされ、喜びと愛が湧くのです。反対に御言葉か失われる時、心の暗く冷たい人問になってしまいます。
◇レオナルド・ダヴインチが「最後の晩餐」を描いた時、主イエスと主を裏切ったユダのモデルが仲々みつかりませんでした。ある日街角で天使のように美しい少年を見つけ、ようやくイエス様を描くことができました。しかしユダを描くにはそれから何年かかかりました。そして不平不満と憎しみの塊のような青年に出会い、彼をモデルにしてユダを完成しました。ところがこの青年は何年か前にここにきたことがあると言うのです。実は彼こそがあの主イエスのモデルでした。神の言葉に生かされた時には主イエスのように、それか失われるとユダのように変わるのです。
◇先月、阿佐ケ谷教会の訪米グルーブはハロルド・ヴィルケ牧師に会いました。生まれた時から両腕のない、障害を負った方でした。人にふみつけられる経験や、心が冷えて石のようになる経験や、希望と絶望に心がゆれる時があったことでしょう。しかし彼は神の言葉に慰められ励まされて、それを乗り越え、「障害と共に歩むアメリカ法」の制定(1990年)の推進力になりました。今日も神様はわれわれの心に命と愛と喜びの種、神の言葉の種を蒔いて下さっています。豊かに育てましょう。
◇今日の幼児洗礼によって、主イエスの幹に新しい若枝がつながれた。幼児期に愛のはぐくみによって「基本的信頼」(エリクソン)の思いが与えられることが、その人の生涯を支える基礎となる。この基本的信頼の本当の基礎は、造り主にして救い主なる神の導きに対する信頼である。その神の導きのもとに歩む生活が教会生活である。
◇ペトロの手紙は教会を「神の羊の群れ」と呼んでいる。預言者エゼキエルは、神がイスラエル民族を神の羊の群として導くために王を立てたのに、王が群を養わず自分を養うだけなのを怒り、それを廃して御自分が群を養うと告げられるのを聞いた。新約聖書では、イエス・キリストが「良い羊飼い」であると語られる(ヨハネl0:11)。ペトロは主イエスを「大牧者」(4節)と呼んでいる。教会には群のために奉仕する牧者がいるが、その背後に牧者の牧者、真の羊飼いとしてイエス・キリストがおられる。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者であるお方のところへ戻って来たのです」(2:25)。
◇この「神の羊の群れ」としての教会に、「長老」と「若い人たち」かいた(1節、3節)。これは先輩と後輩、あるいは指導者と一般会員を指したのであろう。使徒パウロは、教会はキリストの体であり、すべての信徒がそれぞれ主から賜物を与えられているので、それを互いに生かして、共に養われ、共に仕えて生きるようにすすめている。それらの賜物が結ぴ合わされて、一つ体としての成長と前進がとげられるために、全体への奉仕にあたるのが長老である。その働きにおいて特に大切なのは、大牧者イエス・キリストに一人一人が固く結ばれて歩むように、人々を主にとりなすことである。そのためには、人の上に権威をふるうのでなく「群れの模範」となることが求められる(3節)。万人察司のわれわれの教会はお互いにこの道を歩みたい。
◇「若い人たち」に対しては、「互いに謙遜を身につけなさい」(5節)とすすめられる。青年は新しい時代を築くために、革新をもたらす者たちである。それに対して「謙遜」をすすめるのは、主観的な自己主張でなく、現実と真実に根ざした歩みが大切だからである。「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(5節)。ミレーはこの言棄で、画家は私心を捨ててひたすら自然に学べと説いた。神の手に自分を委ねる信仰の経験が求められる。この主の手に身を置く時、われわれは大牧者に導かれ、大胆に生きるものとなる。
◇ペトロの手紙Iは、初代のキリスト者たちが激しい迫害にさらされた時代に、その苦しむ同信の者に書き送られたものである。彼らは「火のような試練」(12節)に苦しみつつ、信仰の道を歩み抜いたのである。今日のわれわれは、このような迫害とは全く別世界の平和な時代を生きている。しかし今日の人間は、迫害とは別の厳しい試練にさらされている。外から襲ってくる迫害ではなく、われわれを内側から襲い、神を求める心を失わせる誘惑である。
◇日本の宗教は御利益宗教が多い。そのような態度では、信じることによって苦しみを受けるような宗教は敬遠されるであろう。かつて渡辺善太師が「キリスト教内外の御利為宗教」について語った時、自分の経歴を話されて、心身共に危機にあった自分がキリスト教に接してどんなに変えられたかを証された。しかし、キリスト教は結果として多くの利益を与えているのは事実であるが、利益を目的として信仰するのではない。その段階を越えて、生ける神との出会いを求め、神と共に歩むのだと語られたのである。
◇神と共に歩もうとする時、われわれは順境の喜ばしい時だけでなく、逆境にあって苦しむ時も、主の進まれる道を歩み抜かなければならない。初代のキリスト者たちは、主イエスを信じて歩む道が「火のような試練」の道であっても、主を離れて安全圏に逃避するのでなく、主と共にその中をくぐり抜けようとしたのである。
◇ペトロはキリスト者の受げる苦しみを2つの面から受けとめている。第一は白分の苦しみを通して「キリストの苦しみにあずかる」(2節)祝福である。神の国が来る日まで、この世では神の導きと共にそれに逆らう闇の力の戦いがある。それ故キリストも地上において、十字架の苦しみを受けられたのである。それは苦しみと死を通して、罪と死とサタンの力と戦い、それに勝利する、十字架の戦いから復活の勝利に向かう道であった。キリスト者もこの道を辿るのである。そして、自分の苦しみを通じて、主がわたしの救いのために受けられた苦しみかどんなに大きいかを改めて知らされ、感謝を新たにするのである。
◇第二は、この苦しみはキリスト者を訓練する。「神の家から裁きが始まる」い7節)。火が鉱石を精練する様に、試練は信仰を純化する。今日外からの迫害でなく、内面から神を求める心を奪う、宗教的無関心の中で、教会とキリスト者が、生ける神の宮となることが求められている。「キリストのいます教会」となろう。
◇今年の一日全体修養会を、「愛によって互いに仕えなさい」との教会標語のもとに、「わたしたちの交わり」を副題として開くことができて感謝である。「わたしたちの交わり」について、使徒信条は「聖徒の交わり」と述べている。教会は「聖徒の交わり」なのである。
◇「聖徒の交わり」という句が使徒信条に入れられるようになった理由について、ある研究家は、これを古代教会の歴史的経験と関係させて説明している。当時の教会は大きな迫害にさらされ、その厳しさに耐えかねて棄教する者もあった。しかしその後これを悔い改めて教会に帰ってくる者があった。当時の教会は彼らを受け入れ、以前教師であった者を復職させた。この教会の態度を妥協的と批判し、そのような教会から分離して自分たちだけの分派を作り、教会を「罪人の群」ときめつける群があった。それに対して教会は、たとえ罪を犯した者でも、その悔改めが真実であれば、主は彼らを潔めて下さる故に、教会は自分の潔さでなく、主に潔められる故に「聖徒の群」であると言明したのである。ここで大切なことは、教会の交わりを生み出すのは、人間の同族意識ではなく、イエス・キリストの働きだということである。
◇「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(ヨハネ11:3)。父なる神は主イエスを愛し、彼を死者の中からよみがえらせて、永遠の命の交わりへと導かれた。この交わりに、われわれも引き入れられている。
◇この交わりは「共に生きる共同体」を形づくる。ここでは一人一人の利用価値ではなく、その存在そのものが、かけがえのない意味をもつ。「迷い出た羊」のたとえはこれを示す(マタイ18:10-14)。
◇この交わりは、自己目的でなく、主の恵みに応えて、主と共に、主のために生きる交わりである。それは第一に「礼拝の交わり」である。われわれは礼拝において、主の幹に連る技とされ、それによって枝々もまた、主の命と愛の流れる体とされる。第二に、それは「愛の交わり」である。それ故「愛によって互いに仕えなさい」、また「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」(ペトロ14:8)とすすめられる。「愛されるよりは愛することを」求めよう。第三は「証しと奉仕の交わり」である。第二が教会の内向きの姿勢(in‐reach)であるのに対し、これは外向きの姿勢(out‐reach)である。心臓から出て心臓に帰る血のように、われわれの交わりは、主から出て主に帰るのである。
◇今日は、すでに神の御許に召された方々を覚え、記念する、在天会員記念礼拝を守っています。阿佐ケ谷教会の歴史に深くかかわり、礼拝を共にし、信仰の交わりを与えられた多くの先達、教会の歩みを支え築いてくださった兄姉と御家族を心にとめつつ、在天会員の御家族と一緒に礼拝を捧げることができて感謝です。それぞれの家庭に、またこの教会に、かけがえのない大切な方々を与えられ、共なる歩みを許されたことは感謝です。また召された人々が、神の御許にあることを思い、やがて再ぴ会う時を思うと、悲しみやさびしさの中にも、探い慰めと平安を与えられます。
◇56編の詩人は、「人に踏みにじられ」、「絶えることなく虐げ」、「絶えることなく踏みにじり」、「戦いを挑」む人々に囲まれて「恐れをいだ」いていると訴えています(2、3節)。命を奪われる危険にさらされています(7節)。苦難と迫害の中におかれ、嘆きの声をあげ、悲しみの涙を流しています。
◇しかし、この詩人は、打ちひしがれることなく、絶望しないで、神を讃美しています(4-5、10-12節)。苦難と恐れの中でも、神が味方であり、神が守ってくださる故に、恐れることはないとの信仰に立っています。しかも、神御自身が、この詩人の嘆きと涙を、一つ一つ数え、御心に留めてくださり、記録し、革袋に蓄えて覚えていてくださると書いています(9節)。
◇「神はわたしの味方だ」と悟り、「死から救い」、「足を救」ってくださる神を知った詩人は、「命の光の中に神の御前を歩かせてくださ」る、命の神への感謝をうたっています(14節)。
◇「命の光」は、世に来られた主イエスキリストです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は、命の光を持つ」(ヨハネ8:12,1:1、4、9)。
◇このキリストを信じ、キリストと共に在る者は、地上の生命を与えられている時だけでなく、死においても、死の後にも、「命の光の中に神の御前を歩」くことができるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(25節)と言われた、主イエスが十字架に於て人間の死を引き受け,復活によって、死を命にのみこみ、無力にし、死を克服してくださいました。復活であり、命であるキリストによって、地上の命の終る時にも、なお神の御手の中に生き続けることができるのです。まことの命の光を受けて、主の命に生かされたいものです。
◇この夏の信徒の友セミナーで島崎光正氏は、人生の質の深さは与えられた苦難をどう生きるかによって決まると語った。私たちは人生のなかで「本当に神はおられるのか」という経験をすることがある。その困難をどう生きるかということは、信仰の課題である。
◇ヘブライ人への手紙には「弱さ」「試練」という言葉が繰り返し出る。初代教会の時代、ローマ帝国ではキリストを信じることは死に値する罪であった。この手紙の著者はそのような厳しい試練の中で人問の弱さに直面している。そのとき彼は絶望して崩れ落ちるのではなく、反対に福音の言葉にとどまり、更に同じ信仰を持つ友を励ますためにこの手紙を書いた。なにが彼にそのような力を与え、奮い立たせたのか。
◇讃美歌の532番2節にこういう詞がある。「主のうけぬ試みも、主のしらぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、いずこにもみあと見ゆ」。私たちは弱い者だから、思わぬ試練のなかで自分一人がその苦難に投げ出されたように思い込む。この讃美の言葉はそれに対して、この世の悲しみで主イエスが経験されなかったものは一つもない、そう歌っている。また「足跡」という詩では人生は神様と私の二人旅に書えられる。振り返った時に一人分の足跡しか残っていなくとも、それは苦しかった時に私を背負ってくださった主の足跡である。これらの讃美や詩と同じように、ヘブライ人への手紙の著者はあらゆる弱さを経験したが、そのなかで主が共におられるという信仰の事実に出会ったのである。
◇主イエスは「私たちの弱さに同情してくださる」方である(5節)。「同情する」とは「苦しみを共にする」という言葉である。それは傍観者のように外から触れるのではなく、もっと内側から相手の苦しみと一つになり、私の弱さと共に歩んでくださる。
◇ヘブライ書はこの主イエスを「偉大な大祭司」と呼ぷ。大祭司は神とイスラエルの間に立ち、執り成す務めを持っていた。「偉大」といわれるのは、神の子イエスがご自身を十字架に献げて、罪の支配に打ち勝ったからである。主は人間の弱さと連帯してくださる方である。しかしそれは人間的な同情ではない。罪と死の力に勝利し、その恵みへ招いてくださる。キリストにとどまる者はこの勝利の恵みにとどまるのである。この主の執り成しに導かれて、弱い者が新しい命へ歩み出すことができる。
◇聖礼典は「見えざる恩寵の見ゆるしるし」であるが、「サクラメント」という言葉が軍隊用語で、新兵の入隊の宣誓を意義していたことからも明らかなように、キリスト者が神の軍隊の一員として生きる誓いのしるしでもある。ペトロの手紙Iの4章はじめは、キリスト者が神の恵みを豊かに与えられた者として、その恵みをどのように生かして用いるかを教えている。
◇ここでは先ず、キリスト者が神の恵みを浪費する生活に訣別した者であることが示されている。3節にあげられている「悪徳表(罪のカタログ)」では、自分の欲望を制御することができず、また他人を自分の欲望を満たすために利用して使い捨てするような生き方が指摘されている。このような禁欲は、元来自分に与えられた身体的精神的な力を浪費せず、必要なことに集中することを意味したのである。
◇「それはもはや人間の欲望にではなく、神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(2節)。人生は長くない。目覚めて神と共に歩まなければならない。われわれが生ける神の前で自分の人生について「申し開き」をしなければならないことを心にとめたい。その時、われわれは「神の恵みのよい管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(10節)と勧められるのである。
◇この賜物を生かすために「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。心を込めて愛し合いなさい」(7-8節)と命じられる。「思慮深く」とは、全体を見て均衡のとれた判断を下すことである。変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる穏かさと、両者を識別ずる知恵をもつこと(二一バー)である。「身を慎しむ」とは酒に溺れず素面(しらふ)でいることである。酔うのは現実を直視できないで逃避したいからである。しかしキリストに依りたのむ時、われわれは「素面(ニュヒテルン)とユーモア」(バルト)をもって人生を生きることができる。そのためには「祈り」が必要である。最後に隣人に対する愛が求められる。「愛は多くの罪を覆う」(8節)。罪の世を恩寵の世界に変えるものは愛である。
◇夫婦に関して、先ず妻に対する勧めが語られる。これは当時の教会において女性信徒か多かったこと、また古代社会においては妻か夫と異なる宗教に入ることが非常に困難であったことに起因している。家父長制の社会では夫の宗教を家族一同か受け入れるのは当然と考えられていたからである。それにもかかわらず、古代教会では女健の入信が多かった。それは当時の宗教の多くか女人禁制もしくは男子中心であったのに対して、キリスト教は人種・階級・性の違いを乗り越え、「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3:28)と、女性もまた一つの人格として、神の愛の対象として受け入れたからである。
◇しかし、そのことは家庭の軋轢を生むこともあった。それに対して「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」(1節)と勧められている。「従う」とは「ヒュポタッソー」で、「下に(ヒュポ)」と「秩序(タクシス)」との結合語である。夫と婁の結びつきは、神が与えてくださった関係、秩序であることを心にとめて、その秩序の下で共に生きる様にと言うのである。教会という信仰共同体だけでなく、家族や社会という自然共同体も、神の導きによって形成されている。これを神によって結び合わせられたものとして受け取り、互いに愛し互いに仕えて生きるべきなめである(この一般論かあてはまらない個々のケースかあることは、個々人が神と自分との関係として受けとるぺきである)。
◇次に夫に対する勧めが来る。聖書は共に生きる人たちの一方だけに命じるのでなく、お互いかパートナーとして歩むように勧める。妻が夫より弱いものだというのは男尊女卑でなく、当時の女性の置かれていた現実を示し、それを当然視するのでなく共に歩むようすすめるのである。夫と妻は「命の恵みを共に受け継ぐ者」、神の国の共同相続者である(7節)。自分たちの横の関係の中に、神との縦の関係を入れることによって、お互いに尊敬する関係が生じるのである。
◇ここに信仰を生活化ずる道か示されている。これが可能になるのは、家庭生活の只中にある自分を主に委ねて歩む時である。
◇パウロは「主が見せてくださった事と啓示してくださったことについて誇らずにはいられません」と語り始める。しかし彼は、14年ものあいだ心に刻みつけられていた神秘的な経験については詳細に語ろうとしない。「神さまがご存知です」と二度も復唱している。彼の生涯におけるたった一度の特別な恩恵について、自分にむけられた神の恵みと強さを誇るにしても、あくまでそのことは、自分の弱さの中で発揮されるものとして誇りたいという。パウロは人問のもつ,“誇り”について熟知していたのであろう。その誇りのゆえに無惨な結果で終ることもある“人間”についても。
◇彼の肉体に与えられた一つのとげ。パウロはそれを除いてくださるよう、主に二度も祈った。精神的に肉体的にとげを負い、涙をもって祈る人々は限りなく存在し続けるであろう。その人々に、パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)という主のみ言葉を聴いてほしいという切々たる願いが、彼のうちに燃えていたことを心にしみて味わいたい。
◇パウロの弱さこそが、主の恵みを働かせる場となる。主はとげをとり除くという解決を与えなかった。かえってその苦難が彼に必要であることを祈りの中に啓示なさった。即ち神の力は、人問の弱さと切り離されず、むしろ弱さの中に完全に現われる。苦難は絶望の理由とはならず、かえって恩恵の働く場となる。かくしてあの力強いパラドックスにたどりつく。「なぜなら、わたしは弱いときこそ強いからです」(10節)。
◇パウロは今や、弱さを誇り、苦難を喜ぷ。それあるところ、神の力もあることをよく知っているからである。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてか司能です」(フィリピ4:13)。
◇「自分の弱さ、無力、罪責を見ぬく力をもっているという事、それが奇跡を起す事があるのである」(ヴァイゼッカー)
◇しかし旅人であるからと言って「旅の恥はかき捨て」といった無責任な態度でなく「異教徒の問で立派な生活をしなさい」(12節)とすすめられる。キリスト者は、一方ではこの世が安住の地でないことを知りつつ、他方においてこの世が神の世界であることを知っているからである。この世界は虚妄でなく、神が創造された世界である。しかし、神の創造のままに純粋に保たれているのでなく、闇の力と人間の罪によって墜落した世界になっている。光と闇とのぷつかり合う世界である。その極限がキリストの十字架の死であった。しかし神はそれに勝利して、新しい愛と真実の神の国への基礎がすえられたのである。だからキリスト者は、すでに始っている神の国の証人として生きるように召されているのである。
◇ペトロの手紙は、政治(権力)、労働(主人と奴隷)、家庭等を取りあげ、それぞれの生活領域でどのように生きるかを教えている。これらは、神が人間に与えた「委任領域」である。それは神の支配する場であるが、人問の管理に委ねられているのである。当時の政治はローマの支配下にあった。しかし政治の根本は、神が秩序ある共同体を望んでおられることを受けとめ、その社会の担い手となることがすすめられている。また当時の労働は主として奴隷に担われ、またキリスト教会には多くの奴隷がいた。当時の社会的現実をリアルに受けとめ、制度破壊でなく、制度に人間が共に生きる内実を与えようとしたのである。それは人間関係という横軸を、神との関係という縦軸を入れることによって、正しく築こうとしたのである。キリスト者は神の御心に応えて「責任社会」を築くように召されている。
◇そのために「不当な苦しみ」(19節)にも耐えることがすすめられる。十字架の主を模範として、キリスト者も十字架を負うのである。
◇ここでイエス・キリストも、キリスト者一人一人も「生きた石」と言われ、教会は「霊的な家」と言い表わされている。教会は単なる建物ではなく、生きた人間の共同体である。教会堂は装飾が少なく、単純な空間である。それは人間を招いており、そこに人が集まって満たされることを期待している。キリストが招かれる所にわれらは集い、われらの集うところに主が来られるのである。
◇ペトロは教会について、神殿のイメージから、祭司のイメージに移る。教会は神と人とをとりなす祭司のつとめを遂行する。教会は、そこに誰が集まり、何が行われているかという、生きた働きが大切である。証しと奉仕と交わりが生き生きとされていることによって在存するのである。
◇この章は宗教改革者ルターが、万人祭司という教会観を学びとった個所である。ここには、教職だけでなく、全信徒が「王の系統を引く祭司」(9節)であると記されている。教会は閉鎖的な集団ではなく、自分の置かれた社会のすべての人を、神へと執り成し、神の恵みと真実を人々に運ぷ使命を与えられている。
◇この使命を巣すためにも、教会は自分自身が神によって養われる必要がある。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混り気のない霊の乳(「御言葉の乳」と訳せる)を慕い求め」また3節が示す(詩編34:9)聖餐によって養われなければならない。御言葉と聖餐に生かされ使命に生きよう。