1997.10-12


もくじ 

◆12.24「クリスマスゆえの人間の解放」マタイ福音書2:1-12
◆12.21「世界を照らす光」マラキ書3:19-24、ルカ福音書2:8-20
◆12.14「神の力に包まれる」イザヤ書7:10-17、ルカ福音書1:26-38
◆12.07「正気に帰る」創世記4:1-2、マルコ福音書5:1-20

◆11.30「夜は更け、日は近づいた」イザヤ書2:1-5、ローマ書13:8-14
◆11.23「宣教の使命」マタイ福音書28:16-20、使徒言行録1:6-11
◆11.16「信仰の道」創世記12:1-9、マルコ5:24-34
◆11.09「希望の虹」創世記9:8-17、マルコ5:21-24,35-43
◆11.02「正気に帰る」創世記4:1-2、マルコ福音書5:1-20

◆10.26「勝利する愛の命」ローマ書8:31-39
◆10.19「共に契約の箱を運ぶ民」サムエル記下6:1-11、コリントI12:12-18
◆10.12「メシアはダビデの子か」マタイ福音書22:41-46
◆10.05「嵐の彼方に」詩編107:1-16,マルコ福音書4:35-41

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◆1997.12.24

「クリスマスゆえの人間の解放」マタイ福音書2:1-12

       東京神学大学教授 近藤勝彦先生

 ◇クリスマスを祝うということは、主イエスが人となってこの世にお生まれになった祝いを意味すると同時に、Christ-Mass(キリストのミサ)一キリスト礼拝をも意味している。今夜、ここに集まった目的はキリストを礼拝するためである。

 ◇マタイ2:1-12には、東方の占星術の学者たちのことが記されている。2,8,11節に「拝む」という単語があるが、この言葉はキリスト礼拝を意味している。わたしたちも今夜また、幼子イエスにひれ伏して拝むためにここに集まっているのである。

 ◇「ひれ伏して拝む」ということは、幼子イエスを王として迎えることである。「王」として迎えることは、その方に服従し、その方の秩序の中で生きることである。究極的に言えは、「ひれ伏し拝む」とは幼子イエスを「神」として礼拝することである。東方の学者たちが献げた黄金、乳香、没薬は、それぞれ神への讃美、神への祈り、十字架の死を意味しており、献げる行為の中に彼らの信仰告白がある。わたしたちが、今夜、讃美し、祈り、十字架の苦しみを思う時、そこにも信仰告白がされていくのである。

 ◇神は、その独り子イエスを世につかわし、そのことによってこの世は成り立った。この王なるイエスに従い、その秩序の中で生きることだけでなく、常に主イエスに心を結びつけて生きていくこと、ここにクリスマスの信仰告白がある。

 ◇没薬か示すように、幼子イエスは十字架の苦難を目ざして生まれられた。この十字架の苦しみは、わたしたちの罪のためであったことも同時に、今夜覚えなければならない。

 ◇クリスマスにこれらのことを覚えて、幼子イエスにひれ伏し拝む時、わたしたちは本当の救いと自由、魂の平安が与えられる。わたしたちのまわりには、不安、病、苦しみ、死があり、生きることの困難さが存在している。この現実は「然り!」である。しかし、主イエスにあって生きるなら「否!」となる。主イエスに従い、この方のご支配の中で生かされ、この方のみを礼拝する人生に生きる困難さはなく、生きる自由、本当の平安が存在する。

 ◇幼子イエスこそわたしたちの神であり、救い主である。主イエスの愛と力からわたしたちを引き離すものは何もないのである。そしてこの方のために生きる生活とは、「ひれ伏し拝む」生活の中から生じてくる。イエス・キリストを救い主として今夜迎え、礼拝する人生を歩もう。

 

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◆1997.12.21

「世界を照らす光」マラキ書3:19-24、ルカ福音書2:8-20

             大 宮 溥

 ◇「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、踊り出て跳び回る」(マラキ3:20)。この太陽である主イエス・キリストが、あなたがたを明るく照らして下さることを祈る。

 ◇今年は暗く厳しい一年であった。しかし福音書の伝えるキリスト降誕の物語は、いずれも暗い夜の降誕を記している。キリストはこの世界の闇の中に生まれたのである。しかもこの物語の中心人物であるイエス・キリストは、何の飾りも輝きもなく、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(12節)として描かれている。

 ◇ところが、この主イエスの生まれた夜、ベツレヘムの野原は「主の栄光が照らし」(9節)、人々は喜び祝ったのである。それは主イエスが、人間の世界の「寒さと暗さと貧しさ」(丸木俊)の中に身を置き、それを御自分のうちに吸い取ってくださったからである。そして主御自身の栄光と命と愛をわれわれに与えて下さったのである。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(コリント?8:9)。

 ◇「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは恩わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:ト7)。「自分を無にする」とは「からっぽにする」という意味である。主は、御自分の命と力と愛をわれわれに与えつくされ、自分を空っぽにして、われわれを迎え入れ、受け入れてくださった。これによってこの世界は輝くのである。「天に栄光、地に平和」(14節)は願望でなく、クリスマスの現実なのである。

 ◇降誕の福音を聞いた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムヘ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(16節)と話し合って主イエスのもとに行き「神をあがめ讃美しながら帰って行った」(20節)。ここに、イエス・キリストを迎える、迎え方が示されている。第一は「行く」こと。それはイエス・キリストを信じて迎えることである。第二は「見る」こと。これは「キリストの恵みを知ること」であり、理解して味わい生かされることである。第三は「あがめ讃美する」こと。アッシジのフランチェスコによって、中世の人々の間で死んでいたキリストが生きた方となった。われわれの内で主が生きる。

 

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◆1997.12.14

「神の力に包まれる」イザヤ書7:10-17、ルカ福音書1:26-38

             大 宮 溥

 ◇待降節に必ず読まれる、マリアヘの受胎告知は、信仰によってキリストを迎えて生きる人間、また教会の姿をも示している。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)という天使の挨拶を聞いた時、マリアは「戸惑い、考え込んだ」(29節)。「戸惑う」と訳された言葉は、嵐によって海の波が荒れ騒ぐ様子をあらわしている。「考え込む」とは自問自答する姿である。これは神の前に立った時の人間の恐れとおののきを示している。クリスマスは、神と直面する時である。

 ◇それに対して天使は「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(30節)と答える。われわれの所に釆られる神は、人間を押しつぶし、踏みにじる神ではなく、人間を受け入れ、愛し、支える神である。主イエスは「ダビデの子」(32節)で「その支配は終ることがない」(33節)と言われる。この王は人間を権力で圧倒する方でなく「侮られて人に捨てられ」(イザヤ53:3、ヘンデルのrメサイア』受難の部の冒頭の句)、人間の底辺に身を置き、その重荷を共に担い、助け、支える形で、われわれを導かれるのである。

 ◇しかし、人間の小さな身に大いなる神を宿すことがどうして可能であろうか。「どうして、そのようなことがありえましょうか」(34節)とマリアは問う。これに対して天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)と答えている。「包む」と訳された言葉は、親鳥が雛鳥の上に羽を拡げ、その影に入れて守る様なイメージを与える。マリアが神の子を宿し得たのは、神がマリアをおおい、包んだからである。東方教会の壁画像(イコン)では、大きな母親マリアが小さな幼児イエスを抱いているのであるが、そのイエスは空中に浮いて、小さな腕でマリアを担っている。主イエスは、人間を支えるために神の側から延ばされた手なのである。われわれは、信仰をもって主イエスを迎えることによって、このキリストにとらえられ、支えられて生きることができるのである。

 ◇この神の恵みを示されてマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と、信仰を告白した。主を迎えるには、信仰が求められる。シリア・エフライム戦争(紀元前8世紀)の激動の中で、動揺するアハズ王に向って、預言者イザヤは神にのみ信頼して自主独立の歩みを進めるように勧めた。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(7:9)。インマヌエル(神われらと共に)の恵みは、信仰によって与えられる。

 

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◆1997.12.07

「預言の成就」イザヤ書61:1-4、ルカ福音書4:16-21

             大 宮 溥

 ◇待降節第二主日は、昔から聖書日曜日the Bible Sundayと呼ばれてきた。キリストの来臨を指し示した預言者のように、主を指差し示すものとしての聖書を覚えてきたのである。聖書は、1804年に英国で始まった聖書協会(現在138)の働きを中心に、約2千の言語に翻訳され、部分訳も含めて毎年約3千万冊発行されている。日本でも聖書16万冊、新約聖書12万冊が昨年頒布された。アウグスティヌスが「取りて読め」という歌声に導かれて、聖書を読み、回心したが、われわれもこの「書かれた神の言葉」に更になじみたいものである。

 ◇イザヤ書61章は第三イザヤ(56-66章の預言者)の言葉である。彼の生きた時代は、暗く厳しいものであった。異国バビロンにおいて50年の捕虜の生活を送ったユダヤ人たちは、ペルシャによって解放され、祖国再建の希望に燃えて祖国に帰ってきた。しかし半世紀の留守の間に、土地は残留民や外国人のものとなり、彼らはそこに割り込む形で、様々な妨害や干渉を受けつつ新しい国作りに着手したのである。そして彼らは次第に疲労困憊し、絶望の谷間に沈んだのである。

 ◇第三イザヤはそのような同胞に対して神の御心を告げた。第一に、現在の困窮は神の放置の故でなく、民の不信仰と罪に由来する。「主の手が短くて救えないのではない。…むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てたのだ」(59:1-2)。だから第二に、あなたたちが立ち上り、燃え上らなければならない。「起きよ、光を放て」(60:1-2)。そして、第三イザヤ自身が、主によって霊の力を与えられ、勇気に満ちて「良い知らせを告げる」ために立ち上ったのである(61:1)。

 ◇しかしこの預言者は、そのように自分の力をふりしぼり、火と燃えて働いたのであるけれども、時代は重く、暗く、一向に視野が開けなかった。そして預言者自身も疲れ、倒れ、その中から彼は、神が天を裂いて下ってくださるように祈ったのである(63:15一一19)。これは燃え尽きたburn-out人間の叫びであり、祈りである。

 ◇主イエスは、郷里ナザレの会堂で礼拝に出席して、イザヤ書61章を読み、「この聖書の言葉は、今は、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)と語られた。まことに主イエスは、天か閉じられたような絶望のこの世に「天を裂いて」下り、われわれと共に歩まれるのである。主の受洗の時「天が裂けて“霊”が鳩のように降った」(マルコ1:10)。われわれは、主イエスと「同行二人」の人生を歩むのである。

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◆1997.11.30

「夜は更け、日は近づいた」イザヤ書2:1-5、ローマ書13:8-14

             大 宮 溥

 ◇待降節(アドベント)は、主の来臨を覚える季節である。「来臨」(パルーシア)は、第一に「主がすでに来られた」ことを想起すること、第二に「主が再び来たりたもう」ことを待望すること、第三に「主はすぐ近くにおられる」(フィリピ4:5)ことに目覚めることである。

 ◇第一に、主は2000年前に、既に来られた。従ってわれわれはどんな時代にも、恐れたり絶望する必要はない。1943年にボンヘッファーは獄中で両親宛にr朽ちはてた一軒の廃屋の瓦礫のあいだで飼い葉桶と一緒の聖家族を描いたアルトドルファーの降誕の絵は、いまの私の今度のクリスマスにまさにうってつけです」と書き送った。今年も政冶経済の困難の中にアドベントを迎えたが、われわれはその中で「神かともにおられる」ことを告げられるのである。主は、宇笛に満ちる神の恵みを、一個の人間という焦点に集めて、われわれに向ってくださる方である。

 ◇この主は、やがて再び来たりたもうお方である。今朝の聖書は、主を待ち望む信仰を語っている。イザヤ書2章の冒頭は、主の日を待望する預言である。神の都が高く上げられ、神の前に全世界の民が集まって来、神の正義に服することによって平和が与えられることを告げている。米ソ対立の冷戦体制から抜け出すことが絶望的と思われた時代に、あるインドの政冶学者か、歴史は変り得るものであることを強調し、神の歴史支配を信じ、世界は共存目外に生きる道がないことを洞察し、キリスト者として「神のパルチザン(ゲリラ隊)」になろうと語った。今思い起して、ここに聖書の信仰があると思う。

 ◇ローマの信徒への手紙13章後半は、主が再び来られるという信仰に立ち、キリスト者が主に合う備えをするように告げている。そのために第一に「借りがあってはなりません」(8節)。神と隣人に対して、貧債がないかをかえりみよと勧められる(マタイ福音書5;24参照)。しかし第二に「互いに愛し合うことのほかは」と言われる。われわれかどんなに神と隣人を愛しても、それで十分と言うことはない。第三には「目覚め」である(1卜14節)。パウロは「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」(11節)という。彼は主の接近をリアルに感じていたのである。その主は、われわれを愛する故に、われわれと同じ人間となり、われわれに代って死なれた。この主の愛に改めて触れ、この愛に新しく目覚め、気付いて、主と共に歩みはじめたいものである。

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◆1997.11.23

「宣教の使命」マタイ福音書28:16-20、使徒言行録1:6-11

             大 宮 溥

◇待降節が近づき、心新たに主を迎えようとする時、一日全体修養会を開いて、われわれが神の民として歩む体制を整えることは意義深いことである。今回の主題は「わたしたちの伝道」である。「礼拝」「交わり」「伝道」という形で、教会の基本を学ぼうとしているのである。

 ◇伝道は「道を伝える」働きである。初代のクリスチャンたちは、自分たちの信仰を「道」と呼んだ。キリスト教は人間が歩むべき道である。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:16)と語られた。われわれは主によって父なる神の御もとに行くことができ、また神と共に人生の道、歴史の道を歩むことができるのである。

 ◇この道を歩むには、第一に「求道」せねばならない。これはいわゆる「求道者」だけでなく、信仰者は生涯、日々にこの道を捜り確かめなければならない(エフェソ5:17-19)。第二は「修道」である。信仰の実践である。「宗教改革は修道院を廃したのでなく、修道士が修道院を出て世界の只中で生きはじめたのである」(ボンヘッファー)。礼拝し、祈り、愛のわざに励むのである。第三が「伝道」である。主の道を自分だけが辿るのではなく、隣人をここに招くのである。これは主の証人としてのキリスト者の使命であり、また隣人への最大の愛の働きかけである。

 ◇マタイ福音書は最後に、弟子たちに対するキリストの「宣教の委託命令」を記している。彼らが「11人」(16節)であったというのは、ユダの裏切りを示唆している。しかも残った11人も、復活の主に出会いながらまだ「疑う人もいた」(17節)。しかし、そのような彼らに「イエスは近寄って」彼らに命令を与えられる。この主に押し出されて、彼らは伝道した。われわれは目分自身に伝道し、新しくされて隣人の伝道に向うのである。

 ◇使徒言行録のはじめに、主イエスが復活された時、弟子たちは神の国がすぐに来ると考えたことが記されている。それに対して主イエスは、主の復活から神の国の到来までの期間は、教会カ痘1教の使命を与えられて「地の果てに至るまで」(8節)主の証人として出てゆく時と語られた。地の果ては、われわれが現に生きている場である。日本社会は福音にとって石地のような厳しい環境であるが、ここに現にわれわれが召され、救われ、神の民とされていることを思い、この福音の力に強くされて、宣教の使命に前進しよう。

 

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◆1997.11.16

「信仰の道」創世記12:1-9、マルコ5:24-34

             大 宮 溥

◇契約節第四主日は「アブラハムとの契約」について学ぶことになっている。アブラハムは「信仰の父」であり、またr神の民の父」である。彼と共に神の民の歴史が始まるからである。彼以前の歴史(創世記1-1章)は世界の発端と人類の歴史として展開する。ところがアブラハムと共に、神は全世界を導くために、その中の一つの民族(イスラエル)を選ばれる。この民を通して、救いの計画が進められるのである。

 ◇旧約の救済史は、全人類(アダム・エバ)から、イスラエルの民へ、更にユダ族から捕囚後の残りの民へと縮少され、ついにはイエス・キリストお一人に絞り込まれる。ところが主イエスが全人類の救いをなし遂げられたことによって、救いはユダヤ人から全世界へ「地の果てまで」(使徒1:8)拡大する。これが新約の歴史である。今日における神の民は、全世界に拡がったキリストの教会である。

 ◇何故、世界の救いが、神の民の歴史として形づくられてゆくのであろうか。それは神と人間との関係は、その最も深いところで、信仰の関係だからである。神は天地を造り、全人類を導いておられる。しかしそれに気付き、それに感謝をもって応答するのは、信仰者のみである。そこから人間は、すべての人によって構成されている自然的共同体(家族、社会、世界)と、信仰を共有する者たちが構成する信仰共同体(神の民、教会)に分れる。共に神によって導かれている共同体であるが、一方はそれに気付かず、他方はそれに気づき、神と共に歩むのである。

 ◇アブラハムは、神の召しに応えて「生まれ故郷、父の家を離れて」(1節)約束の地に出発した。神の召しに聞き従う信仰の決断をしたのである。それは「行く先を知らずに出発する」冒険の旅であった。信仰とはこのような冒険である。その際、未知の行く先に何が待っているか、あらかじめ推測することはできない。しかし、今日のもう一つの聖書の個所(イエスの服に触れる女の物語)は、そのような時に与えられる神の助けを示している。彼女は主イエスの背後に、人知れず近づいて、ひそかに主の服に触れたのである。しかし、主は、そのような助けを求めて迫る手を、背後からでも感じ取って、それに答えて下さった。「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた」(詩編118:5)。それ故われわれは恐れず進むのである。アブラハムは行く所行く所で祭壇を築いて主の名を呼んだ。生活の場で礼拝した。生活の場に祭壇を築こう。

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◆1997.11.09

「希望の虹」創世記9:8-17、マルコ5:21-24,35-43

             大 宮 溥

 ◇契約節第二主日はノアの契約が覚えられる。旧約聖書の契約の歴史で、最初の契約であるアダム・エバの契約は、神と人間との契約であるのに対して、ノアの契約は「地のすべての獣」(10節)、更に「神と大地の間に立てられた契約」(13節)である。神は人間だけでなく、地上に生きるすべてのものを恵みの誓いのもとに導かれるのである。「生への畏敬」(A.シュヴァイツアー)はここから生じる。

 ◇更にこの契約は神と人間との対等の契約でなく、たとえ人間が悪の道に迷い出ても、神はそれによって契約を破棄されることはないという、神の恵みの独占活動の宣言である。人が「幼いときから悪い」と知りつつ「大地を呪うことは二度とすまい」(創世記8:21)と誓われるのである。

 ◇この契約のしるしとして、神は「雲の中に虹を置く」(13節)。虹は雨の後にあらわれる。雨は洪水を想起させ、世界の混乱のしるしである。しかしそれは必ず晴れる。「虹」はヘブライ語で「弓」を意味し、それを雲の中に置くのは、神は人間と争わないという、和解のしるしである。今日地球の将来に不安が感じられている時、われわれは改めて、この神の恵みの約束を仰ぐ信仰が求められる。

 ◇「ヤイロの娘」の物語は、信仰とは何かを示している。会堂長ヤイロの願いを聞いて、その娘のいやしのために出掛けられた主イエスが、長血をわずらっている女の癒しに時間を使っている間に、娘は死んだとの知らせが届いた。取り返しのつかない事態である。しかし主イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と語られた。家路を急ぐヤイロの胸中には、万事休すという絶望の声と信ぜよと告げる主イエスの声が、代る代る聞こえていたことであろう。ヤイロは絶望の声を振り払い、圭イエスの声に取りすがって、家に帰ったのである。このように神の言葉に固執するのが信仰である。

 ◇信仰は、神の言葉に聞き従い、われわれに語りかけて下さる神と一体となることである。その時、神の言葉は絶望を砕き、死を砕いて、われわれを支え、立ち上らせて下さる。「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)という言葉は、ヤイロの娘を生へと呼びもどした。われわれがたとえ死んでも、この御声によって、「永遠の朝に目覚める」のである。

 ◇希望の虹は、イエス・キリストである。イエス・キリストこそ「世界の希望」である。われわれの世界に、この虹かかかっていることを仰いで生きよう。

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◆1997.11.02

「正気に帰る」創世記4:1-2、マルコ福音書5:1-20

             大 宮 溥

 ◇日本基督教団の教会暦は「契約節」(今年は10月26日から)でスタートする。その最初に天地創造と人間の堕罪が覚えられる。地球温暖化防止会議を前にして改めて考えさせられることは、広大な宇宙の中で、この小さな地球だけに生命が宿り、生息しているという、驚くべき事実である。神が造られた何億という星の中で、ただ地球だけが生命維持の条件を満している。だからこの地上に生を受けだということは、まことに奇蹟のような稀なチャンスを与えられたということである。それ故われわれは神から与えられた只一度の人生を、深い感謝をもって受け取ると共に、この地球を大切に守らなければならないのである。

 ◇ところが人間は、神から与えられたこの人生を、感謝もせず責任も感ぜず、自分勝手に生きている。これが堕罪である。このような我々に、神は「お前はどこにいるのか」(倉世記3:9)、「お前の兄弟はどこにいるのか」(同4:9)と問いかけておられるのである。

 ◇マルコ福音書のレギオンの物語では、神からも人からも孤立して墓場を住まいとしている人物のことが記されている。そこは人間の世界から切り離された陰の世界、闇の世界であった。そして人間を自己破壊に駆り立てる悪魔的な力が猛威をふるっていたのである。

 ◇この人に対して主イエスは「汚れた霊よ、この人から出て行け」と命じられた。この自己崩壊の危機に直面している人物が神の創造された、神の愛の対象であり、神のものであることを宣言されたのである。そして豚二千匹を犠牲にしても、彼を救おうとされた。それだけでなく、主イエスは人間の救いのためには、御自分の生命を犠牲にすることをもいとわれなかったのである。このような主イエスの、すさまじいばかりの聖なる愛の前に、レギオンといわれる巨大な悪霊も、この人を放り出して逃げ出す他はなかったのである。

 ◇この主イエスの愛の力によって、この人は心の病む状態から正気に帰ることができた。今日人間は、所有欲その他の慾望や衝動につき動かされて、自分を見失っている。フロムは、「持つこと」to haveに追われて「あること」to beを忘れ、自分を見失っている現代人が「正気の社会」に帰ることの必要を説いている。神の愛の対象としての目分に気づく時、われわれは自分をとりもどせるのである。この人が自分を取りもどすと共に、主の恵みの宣教者となったように、われわれも、主の愛を受けて自分に帰り、恵みの証人として歩もう。            

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◆1997.10.26

「勝利する愛の命」ローマ書8:31-39

             大 宮 溥

 ◇われわれが信じる「聖徒の交わり」は天に召された者たちの群である「勝利の教会」と、地上に現在いる人々から成る「戦闘の教会」の二つを含んでいる。在天会員記念礼拝にあたって、われわれは天上にある「おびただしい証人の群れに囲まれている」(ヘブライ12:1)ことを、改めて心にとめ、彼らと共に主の前に出よう。

 ◇ヨハネ黙示録7章に天上の礼拝がえがき出されている。そこには全世界から集ってきたr数えきれないほどの大群衆」(9節)がある。「彼らは大きな苦難を通って来た」(14節)のであるが、「白い衣を身に着け」ている(9節)。彼らは人生途上において、汗とほこりにまみれ、血にまみれた筈である。しかし「その衣を子羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。われわれは、主イエスの十字架のあがないによって罪を拭われ、復活の命を与えられて主の前に立っのである。

 ◇このような神の御前での祝福を思う時に、われわれは死の恐怖から解放される。ある医師は自分の臨死体験で「その短い間に味わった何ともいえない悦惚感(ユーフォリア)」にもとづいて、生の終りは、突然に断ち切られるような悲惨なものでなく、まはゆいほどの栄光と至福が訪れる」と語っている。神はわれわれを恵みをもってこの世に送り出し、「人の子よ生きよ」と呼び出して下さると共に、また恵みをもってわれわれを呼び返し「人の子よ掃れ」と迎えて下さるのである。

 ◇ローマ書8章は、パウロの福音の頂点である。「神がわたしたちの味方」God for us(31節)は、本書第一部(1~8章)の要約である。キリスト教はこの神の愛の事実を告げるものである。「御子をさえ惜しまずに」(32節)という句は、創世言己のアブラハムのイサク奉献の物語(22章、特に16節)を思い起させる。神は御子イエス・キリストを犠牲にしてまで、われわれの罪をあがない、永遠の命を与えようとされたのである。そしてこの「キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すものは何もない」(39節)のである。

 ◇ここに、キリストによって与えられた愛の生命が、すべてのものに勝利することが約束されている。殺人事件を引き起した中学生の手記に、「われ人生の旅中ばにして道を失い」というダンテ神曲の冒頭の旬が引用されていた。神の愛の道をさ迷い出た魂の告白である。これは今日の人間の心の表白ではないか。先達の「勝利する愛の命」の信仰を改めて受け継ぎたい。

             

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◆1997.10.19 

「共に契約の箱を運ぶ民」サムエル記下6:1-11、コリントI12:12-18

      西ロサンゼルス合同メソジスト教会牧師 久山康彦先生

 ◇西ロサンゼルス合同メソジスト教会の兄弟姉妹より、阿佐ケ谷教会の主にある兄弟姉妹へ祝福の言葉を届けます。私たちの教会もバザーをよく行います。日系人の教会のバザーは少し特徴があります。バザーが始まる時に、日本のたいこを勢よくならします。町の人々はその音に驚き、バザーこは多くの人々が集まります。日系人教会のバザーはアジアの文化を楽しむ場でもあり、中国の獅子舞やハワイのフラダンスも出ます。楽しいバザーなのです。

 ◇どうしてバザーを行うのでしょうか。もちろんお金を集めることも大切なことですか、みんなが集まって楽しい時間を一緒にすごすことも大切なのです。私たちの教会にとっては、クリスマスよりも、イースターよりも、バザーのほうが人が集まります。バザーではみんなが役割をになってご奉仕します。もちろん忙しい人もご奉仕します。子どもからお年よりまで、一生懸命にバザーの準傭をし、楽しい時をすごします。

 ◇サムエル記下6:1~11は、エルサレムの神殿に、神様の契約の箱を運び入れようとした時のお話です。たくさんの人々が大切な神様の契約の箱を守っていました。でこぼこの道だったのでしょう、契約の箱をのせていた車が、ガタッとゆれました。それを近くで見ていたウザは、契約の箱が落ちたら大変と思い、契約の箱を手でおさえたのです。ウザが行ったことは神様の怒にふれ、ウザは死にました。

 ◇どうしてウザは殺されたのか不思議です。でも考えてみてください。契約の箱はみんなで運ぶものです。自分ひとりがしなければだめと思うことが誤りです。契約の箱を運ぶのにチームワークが大切です。それぞれの役割をひとつにしているのが神様です。

 ◇ロサンゼルスでは英語だけ話せても困ることがあります。日本語の社会、中国語の社会、ハングルやスペイン語の社会があります。でも言葉が通じても相手の考え方がわからないと不安です。信頼することでその不安は消えます。神様によって集められ、同じチームでひとつの働きをしていることを覚えることが大切です。信頼することは愛することだからです。「神はご自分の望みのままに(コリI12:18)」とあるように、神様は私たちひとりひとりをご自分の望みのままに、それぞれの役割を与えられ、成長するよう配慮して下さっています。共に神さまへの奉仕をする仲間です。            

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◆1997.10.12 

「メシアはダビデの子か」マタイ福音書22:41-46

             ロンドン日本人教会 盛永 進 先生

 ◇マタイ22:41-46は取り上げられることの少ない箇所だが、大切な問いを含んでいる。今迄は質間を受けることの多かった主イエスが、ここでは積極的に問題を提起し、答えを求めている。

 ◇「メシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」というのが、主イエスからファリサイ派の人々への問いである。メシアというのは「油注がれたもの」という意味である。旧約の時代、王や祭司が任職される時に油を注がれたことから、神様によって特別な務めに立てられた者の称号となった。ファリサイ派の人々はメシアについて色々なことを考えたが、だれの子であるかと質問する人はいなかった。メシアがダビデの子であることはイザヤの預言(9:6,1ユ:1)に語られており、ユダヤの人にとっては疑間の余地の無い事実であった。しかしここで主イエスは敢えてその常識を問うておられる。

 ◇主イエスの反論の論拠は、ダビデが聖霊に導かれて語った詩編110編である。その中でダビデはメシアを子ではなく主と呼んだ。圭はヘブライ語ではアドナイ(神)である。ところでダビデの言葉のなかには2人の主が出ている。最初の主は父なる神様、次は主イエスである。「右の座に着く」とは主イエスの昇天を暗示している。つまり44節の引用聖句は主イエスの生涯と高拳後の聖霊の導きを語っているのである。

 ◇メシアはファリサイ派が考えたようにダビデの子ではない。神の子が人(ダビデの子)となったのである。旧約のヤハウェという神様への呼び名は「~になる」という言葉から生れた。聖書の神様は天におられるだけでなく、ダビデの子イエスとなり私たちと同じ苦しみを経験された。そして最後には人間の罪の蹟いとして、十字架にかかられた。神様は御子イエスを遺わすことで、わたしたちへの愛となり、救いとなってくださったのである。

 ◇わたしたちのどんな善い行いも、神様の前で自分を救う力をもたない。その人間に対し神様は御子イエスという恵みを与え、信じる者を救いへと導いておられる。わたしたちは主イエスに従い、この救いを受け人れればよいのである。

 ◇カルヴァンは詩編110編を講解した書物のなかでこの箇所について、人間は没頭して賞賛するものをもっていると解説している。自分の楽しみを求めず、人間のために命まで献げてくださった主イエスに触れるとき、わたしたちの内に讃美の力が湧上がるのである。              

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◆1997.10.05 

「嵐の彼方に」詩編107:1-16,マルコ福音書4:35-41

             大宮 溥

 ◇世界聖餐日を迎えて、われわれがキリストの体であることを聖餐を通じて経験し、しかも全世界の教会が一体であることを覚えよう。世界教会協議会のマークは、舟の上に十字架が立っている図案である。教会は十字架の主が乗り込んでおられる船として、この世の歴史の只中を航海してゆくのである。

 ◇今朝の聖書は、ガリラヤ湖を弟子たちと共に船で渡られる主が、遭遇された嵐を静められた出来事を報じている。人生はしばしば試練の嵐に見舞われる。病気や試験や競争などで、突然平穏な生活が崩される。しかもわれわれは、孤独に生きているのでなく、一つ舟に桑り合わせた者のように、運命共同体の中でいる。

 ◇それ故弟子たちは嵐の中で懸命に舟を守り、向う岸へたどり着こうとした。しかるに主イエスは「ともの方で枕をして眠っておられた」(38節)。弟子たちは怒りを爆発させて「先生、わたしたちがおぽれてもかまわないのですか」となじった。この弟子の声は、迫害の中で孤立無援の思いに襲われた古代教会の叫びも含まれていると思われる(ヨハネ黙示録6:10)。

 ◇しかし主イエスは無責任に眠っておられたのではなかった。これは、どんな時にも揺らぐことのない、確乎たる神への信頼の姿であった。神の「静まってわたしの神であることを知れ」(詩編46:11口語訳)との御声に信頼して動くことがなかったのである。われわれの先達も「わが行くみちいついかに/なるべきかは/つゆ知らねど主はみこころ/なしたまわん」(讃美歌49ユ番)と歌いつつ人生を歩んだ。ジョンウェスレーを回心に導いたのも、大西洋渡航の際嵐の中で静かに祈りと讃美をささげていたモラヴィア兄弟団の人たちの信仰であった。

 ◇主イエス・キリストがわれわれの人生の舟に乗り込んで下さっていることは、大きな喜びである。この主に信頼して、世界のキリスト者と一つとなって、宣教と奉仕の歩みを進めよう。先週バンコックで世界聖書連盟アジア太平洋地域の各国聖書協会責任者が集まり、この地域を二つに分けて、東アジア地域(日本韓国からミャンマーまで)とインド太平洋地域(インドからニュージーランド、太平洋全域)として、きめ細かな協力体制にした。この会議に出席して、今聖書協会のないところがかつて日本が侵略したところであること,また各国聖書協会が互いに助け合って、世界の人々に聖書をとどけようとの熱意を共にしていることを知った。一つ舟なのである。

 

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