1998.7-9


もくじ

◆09.27「真の礼拝」出エジプト記20:1-6,ヨハネ福音書4:16-26
◆09.20「御子によって」ヘブライ人への手紙1:1-4
◆09.13「神の恵みの管理」マルコ福音書12:1-12,コリントII 4:1-2
◆09.06「主の憐れみ」マルコ福音書10:46-52,ヘブライ4:14-16

◆08.30「永遠の命への突破口」マルコ福音書10:17-31,フィリピ3:12-16
◆08.23「愛の道」マルコ福音書10:1-16,エフェソ5:21-33
◆08.16「なお,主の前に立ち」創世記18:16-33,マタイ15:21-28
◆08.09「罪を清める火」マルコ福音書9:38-50,ヨハネ黙示録3:14-22
◆08.02「新しい生」エゼキエル書36:25-27、ヨハネ福音書3:1-15

◆07.26「仕える者」マルコ福音書9:30-37、ヘブライ12:1-2
◆07.19「闇の中の光」マルコ福音書9:14-29、コリントII 4:1-6
◆07.12「神の招き」マタイ福音書7:13-14、22:1-14
◆07.05「人間の輝き」マルコ福音書9:2-13、ヨハネの手紙I2:28-3:3

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◆1998.09.27

「真の礼拝」出エジプト記20:1-6、ヨハネ福音書4:16-26

             野崎 卓道

 ◇主イエスは「永遠の命に至る水」を求めるサマリヤの女に対して、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と言われ、彼女の暗い過去を暴かれた。

 ◇過去に犯した罪というのは、私達の人格を歪める。このサマリヤの女も自分が過去に犯してきた罪のために、人間性を歪められ、知らず知らずの内に人を避け、内に籠りがちな性格になったと思われる。

 ◇ところで、聖書で言う永遠の命とは、イエス・キリストと結ばれて、その関係の中で生きることに他ならない(ヨハネ17:3)。しかし、人間の内に深く根を張っている罪が、その邪魔をするのである。この罪が取り除かれない限り、彼女は永遠の命を得ることはできないのである。

 ◇それに対して、サマリヤの女は、神を礼拝すべき場所について、主イエスに尋ねた(20節)。聖書では、あらゆる罪を神との関係にまで遡らせている。神はこの世界を秩序ある世界に造られ、それを保つために・モーセを通して十の戒めを与えられた。その戒めを破る者は、主なる神に対して、罪を犯すのである。それゆえ、罪の問題は、神との関係においてこそ、本当の解決を与えられるのである。

 ◇すると、主イエスはこの女に、今や場所に捕われない、全く新しい礼拝をする時が来る、今がその時であると言われた(21-24節)。今や主なる神は私達の父となって下さる。その父は「霊と真理」をもって礼拝されるべきだと言われる。ここで言う真理とは、イエス・キリストに他ならない(ヨハネ14:6)。そして、霊というのは、聖霊なる神のことである。聖霊は、私達の内に宿り、イエス・キリストこそ真の救い主であると信じる信仰を私達の内に造り出して下さる(ヨハネ16:3)。この御子と御霊の二重の執り成しによって、私達は初めて神の子とされ、神を父と呼び、父を礼拝することができるようになる。

 ◇今や、主なる神は、ご自身を父、子、御霊なる三位一体の神として現して下さっれ私達は、この三位一体の神の御前に脆き、礼拝するために教会に集められている。この礼拝は、主イエスが再び来たりたもうその日に完成される。この礼拝においてこそ、私達の罪の問題は本当に解決される。サマリヤの女のように、私達は負い切れない過去を携えて、主イエスの下にやってくれば、この方がご自身の血をもって、その過去に決着をつけて下さり、私達を罪の束縛から解放して下さるのである。そして、私達を、新しい人間として生まれ変わらせて下さるのである。

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◆1998.09.20

「御子によって」ヘブライ人への手紙1:1-4

             大宮 チヱ子

 ◇rヘブライ人への手紙」は、「ローマの信徒への手紙」から始まる「……への手紙」の最後、14番目の手紙である。しかし前の13通と異なり、手紙らしい書き出しの挨拶がない。宛名も差し出し人の名前もなく、執筆の事情説明や挨拶が全くない。更に、最後(13:22)に、「以上のような勧めの言葉を」とあることから、本書は手紙というよりは、勧め、あるいは説教とみられるが、執筆者は不明である。しかし、卓越したキリスト論、神の御子、偉大な大祭司イエスについての優れた証しや深い慰めと励ましに満ちた信仰についての勧めが豊かである。地上を旅する神の民としての教会、信仰者(11:13)への適切な勧めの書である。

 ◇「神は……語られた、……語られました」とあるように、神は、語りかけてくださる方、ご自身を明らかにされる、啓示の神である。昔は預言者、祭司、王など、民の指導者たちのさまざまな働きによって、ご自身を示された。完全で十分な方法がなかったからである。しかし、今は、御子によって「語られました」。唯ひとりの御子によって、完全に、徹底的に、十分にご自身を示された。この書は「御子によって」なされた啓示の独自性と完全性を強調している。

 ◇その「御子」は、神と共に世界を創造された方、世の初めから神と共におられ、神が持っておられるすべてのものの正当な継承者、「万物の相続者」である。また、「御子」は、神の御多、神の栄光を輝かし映し出しておられる方であり、神の本質、神の実体を完全に現わにしておられる方である。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れ、……独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:17一18)。御子ご自身も「わたしを見た者は、父を見たのだ」(同14:9)といわれた。神と一体であられる御子は、創造された世界を、今も「力ある言葉によって支え」続け、支配し続けておられる。この世界は気まぐれに動いているのではなく、御子によって守られ導かれており、世界は神の御手の中にある。

 ◇神の存在を疑いたくなるような悲しみや苦しみ、不義、不条理に満ちた現実であるが、神は働いておられ、御子は万物を、一人一人を支えていてくださる。御子は十字架において罪を完全に購い、赦してくださり、復活され、今も活きておられる。

 ◇御子によってのみ恵みと救いが与えられることを思い、「イエスを(仰ぎ)見つめながら」(12:2)走り抜こう。

 

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◆1998.09.13

「神の恵みの管理」マルコ福音書12:1-2、コリントII 4:1-2

             大宮 溥

 ◇稔りの秋に、われわれの人生が実りあるものかどうかが問われる。パレスチナの秋はぶどうの収穫の時である。それ故旧約でも新約でもぶどう園のたとえが語られている。

 ◇旧約では預言者イザヤの「ぶどう畑の歌」(5章)が有名である。農夫が肥沃な丘のぶどう畑を、精魂こめて手入れし育てたのに、実ったのは酸いぶどうであった。このたとえを通して預言者は、神が愛して育てたイスラエルが、神の期待された公平と正義の社会を築かず、流血と不義の姿を呈していることを批判し、悔い改めを要求した。今の日本の社会に通じるものがある。

 ◇主イエスの「ぶどう園と農夫」のたとえも、イザヤの歌を念頭に置いて語られている。ここではぶどう園の主人が、それを貸し与えた農夫に、秋になったので年貢を受け取ろうとして僕たちを遣したが、農夫は僕たちを打ち、あるいは殺した。この僕とは神の言葉を伝えた預言者たちである。預言者は多く迫害を受け、殉教した。

 ◇このたとえで、主人は僕たちが打たれても殺されても、僕を送りつづける。これは常識では考えられないような、甘い話である。しかし主イエスは、現実にはあり得ないような話をすることによって、神の愛が人間の想像もできないほど、深く大きく際限のないものであることを語っておられるのである。神の御心は「われをも救いし奇しき恵み」amazing graceである。この恵みの最後として、一人息子が派遣される。主イエスは神を「父」と呼び、自分が神の子としてこの世に遣わされたことを自覚しておられた。そして自分もまた犠牲の道を歩むことを決意しておられたのである。ここは主イエスの十字架の死と重なり合って描き出されている。

 ◇この物語の結論は、ぶどう園の主人の登場である。「戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人に与える」(9節)。神が最後の勝利者だと言うのである。主イエスの復活は、十字架の死で敗退するのでなく、主イエスが勝利者であることを示している。しかも彼は敵を滅ぼすのでなく、御自分の死によって、罪を赦し、神の民の再起の道を開かれたのである。

 ◇「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(10節、詩編118:22)。「子」(ベン)から「石」(エベン)へとたとえが変り、御子イエスが教会の礎石になったことを語っている。神が人間に、世界の管理を委ね、その管理を正しく果せる様に、励ましつづけておられることを感謝し、忠実な管理者として生きたい。

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◆1998.09.06

「主の憐れみ」マルコ福音書10:46-52、ヘブライ4:14-16

             大宮 溥

 ◇9月第一日曜日は、日本の教会では「振起日」と呼ばれてきた。教会学校の第二学期で、心を振るい起こして、信仰生活を再出発しようとの思いがこめられている。しかしこれは子供だけでなく、われわれも信仰振起の日として秋の歩みを進めたいものである。

 ◇主イエスが十字架に向かう道の最後の場面で、盲人のバルティマイが主イエスに出会っている。彼は自分がどこに置かれているのか、見ることができなかった。しかし彼が座っていた道は、主イエスが通ってゆかれた道であった。われわれの人生の道を、主は通ってゆかれるのである。

 ◇バルティマイは、自分の前を主イエスが通ってゆかれると聞くと「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節)と大声で叫んだ。「ダビデの子」とは教主、メシアのことである。「憐れんでください」は原語では「エレーソン」である。キリスト教の礼拝では、初代教会以来「キリエ・エレイソン」(主よ憐れみたまえ)と祈りつづけてきた。われわれの祈りの基本は、主の憐れみを呼び求め、主がそれに答えて、共にいて下さるところにある。

 ◇このバルチィマイの祈りを、人々は「叱りつけて黙らせ」ようとした(48節)、この時の主イエスは、都をめざして一目散に進んでおられた。その激しさに弟子たちさえ「驚き恐れた」(32節)ほどであった。大事業をなしとげようとする主を、些細なことで引き止めてはならぬと、人々はバルティマイを叱った、しかし主は彼の叫びを聞くと「立ち止って」「あの男を呼んで来なさい」(49節)と命じられた。主が道を前進されたのは、一人一人の人間の救いのために、御自分の命を捧げられるためであった。それはバルティマイのため、わたしのためであった。

 ◇人々は彼に「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(49節)と告げた。「安心しなさい」(タルセイ)という言葉は、主イエスの訣別説教の末尾にある「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネユ6:33)で「勇気を出しなさい」と訳された言葉と同じである。主が十字架の購いをなし、復活の勝利をとげておられる故に、われわれも歓喜雀躍して歩む。

 ◇主に癒されたこの人は「なおも道を進まれるイエスに従った」(52節)。この道は十字架への道である。彼は主の恵みを受けて力を与えられると、主の十字架の道を主に従って「自分の十字架を負って」歩みはじめたのである。

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◆1998.08.30

「永遠の命への突破口」マルコ福音書10:17-31、フィリピ3:12-16

             大宮 溥

 ◇今朝の福音書の個所は、有名な「富める青年」の物語である。マルコ福音書では「ある金持ち」(17節の異説)と記してはいるが、青年だとするのはマタイ福音書のみである(マタイ19:20)。しかし、いかに生きるかを真剣に問うのは、青年にふさわしいとの思いから、「富める青年」と一般に呼ばれるのである。

 ◇彼は裕福な家に生れたが、その幸せにおごることなく、子供の時から神の提を欠けなく守ってきた人物であった。だが彼は自分の内に満たされないものを感じていた。そこで、主イエスが来られたと聞いて、主のもとに「走り寄り」「ひざまずいて」「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と、真剣に問うたのである。

 ◇これに対して主は、十戒に示された神の掟を守ることを教えられた。これは彼にとってはあまりに平凡に思えたのであろう。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(20節)と答えている。すると主は「彼を見つめ、慈しみ(愛し)」つつ(2l節)、「あなたに欠けているものがある」と告げ、全財産を売って貧しい者に施し、その後で主に従うように命じられた。これは青年の予想しない、実に厳しい命令であった。それ故彼は「この言葉に気を落とし(顔を曇らせ)、悲しみながら立ち去った」(22節)。

 ◇主イエスは誰に対しても何時でもこのように命じられたのではない。この時のこの人にそれが必要と思われたのである。彼は「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)ことを学ばねばならなかった。青年が求めたものは「永遠の命」であり、生ける神との生きた交わりであった。神は、あれもこれもと、欲しいもの全部の中の一つの様にして、得られるものではない。主イエスは彼に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」(12:30)ことを求めたのである。

 ◇青年はこれにつまずき、「悲しみながら立ち去った」(22節)。これは、我々にも衝撃を与える。誰が立ち去らずにおられようか。主は「人間にはできることではないが、神にはできる」(27節)といわれた。主イエスは家と財産を捨て、御自分の命をもお捨てになった。われわれのために救いの道を開くためであった。その主がわれわれを「見つめて愛し」ておられる。われわれは、この招きに先ず応えて、一歩ふみ出すべきである。「主のひとみ」(讃美歌243)に促されて一歩従うのである。

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◆1998.08.23

「愛の道」マルコ福音書10:1-6、エフェソ5:21-33

             大宮 溥

 ◇マルコ福音書は10章冒頭で、イエス・キリストが郷里のガリラヤから出発して、ヨルダン川に出、ユダヤの都エルサレムに向って進んでゆかれる姿を描き出している。その途上いろいろな人が主イエスと出会っている。十字架への道を進むイエスに、人人がどのように対したかがうかがわれる。今日の個所はその第一として「ファリサイ派の人々」が近寄ってきて議論をしかけている。

 ◇彼らは離婚の可否を問うた、これはユダヤではきわめて政治的な意図がこめられていた。領主ヘロデ・アンティパスは兄弟の妻ヘロディアを奪って自分の妻とした。それをいさめた洗礼者ヨハネはヘロデによって捕えられてマケラスの砦に幽閉され、後に処刑された(6:14以下)。主イエスをもそのような運命に陥れようとするわなとも考えられるのである。主イエスを殺す勢力が追ってきたのである。

 ◇しかし主イエスは、結婚の問題について、その場しのぎでなく、真正面から答えておられる。それは主イエスが説いてこられた「愛の道」に深くかかわるものだったからである。当時の人々はモーセの律法を拠り所として離婚は認められると考えた。それに対して主イエスは、結婚の末期症状とも言うべき離婚について、一々詮索されなかった。そうではなくて、結婚の出発点と根源に目を向けさせている(5-10節)。

 ◇ここで主イエスが強調しておられる事は、人間は男と女という向き合った存在に造られているということである。結婚しているかいないかにかかわりなく、人間が男か女かであるということは、人間は孤立した存在でなく、愛し合って共に生きる様に定められているのである。それ故その向き合いの基本である結婚も「神が結び合わせてくださった」(10節)ものなのである。家族は神によって与えられた共同体である。

 ◇しかし現実には離婚が起り得る。主イエスもその現実を知っておられた。そして主は離婚した者をも受け入れられた。離婚しなくても、われわれは夫と妻の裸のふれ合いの中で、愛のなさ、エゴイズム、罪を敏感に示される。そこには罪の赦しなしには成り立たないような関係がある。そして神はそれぞれの家庭に罪の赦しを与えて立ち直らせ、離婚の場合にも罪を赦して再出発させて下さるのである。カナの婚宴の物語は、人間の愛の尽きた危機を、主イエスは新しい愛を与えて、再出発させて下さることを示している。高齢化社会においても人間は最後まで「向き合う存在」として導かれてゆくのである。

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◆1998.08.16

「なお,主の前に立ち」創世記18:16-33,マタイ福音書15:21-28

             北見さとみ

 ◇神様はアブラハムにソドムとゴモラの滅亡を告げた。ソドムとゴモラの罪が重いと訴える叫びを聞いたからである(20節)。取り引きの数,計算方法はここでの中心問題ではない。不信仰の人々のゆえに,正しい者をも一緒に裁き滅ぼすことが,神の正義であるのかと,アブラハムを通して論議されている。

 ◇アブラハムはソドムとゴモラのために神様をとりなした。「全世界を裁くお方は,正義を行われるべきではありませんか(25節),神の正義に訴えてとりなす祈りの姿を伝えている。頑固に,大胆に,遠慮なく神の前に立ち続けた。神様の正義とはこの世における悪を克服する力であることが,アブラハムを通して理解できる。

 ◇新約聖書でアブラハムと対をなすのがカナンの女性である。彼女には重い病気の娘がいた。異邦人の彼女は,助けを求めてイエス様にすがった。しかしイエス様の答えは,沈黙と拒否であった。さらに弟子たちも彼女を追い払おうとした。

 ◇「わたしは,イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない(24節)。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない(26節)」とイエス様は語った。イスラエルを救い養うことがイエス様の使命であった。子供とはイスラエル,小犬とは異邦人。小犬にかまけている時間はないという厳しい言葉である。

 ◇しかしカナンの女性は抗弁もせず退きもしなかった。「主よ,ごもっともです。しかし,小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです(27節)」。イエス様の語られることは全く正しい。しかし子供が飼っている小犬なら食事のおこぼれはいただくはずです。イエス様の救いはイスラエルを超えてあふれ出るはずである。そのおこぼれにわたしもあずかることがゆるされてはいないのですか。

 ◇彼女はなお主の前に立ち続けた。そしていつしか,娘の救いと自己の救いが重なり,救いを求めひれふす姿を伝えている。さらにアブラハムがソドムとゴモラの救いのために,主の前に立ち続けたように,彼女は暗闇の中に生きるあらゆる人々のために主の前に立ち続けた。

 ◇「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように(28節)」。これが神の答えである。主の前に立ち続ける姿は祈りである。この方の他に救いはないことの告白である。さらにイエス様は昼も夜もわたしたちのために,父なる神にとりなしていて下さる。それゆえに主の前に立ち,とりなし祈る者でありたい。

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◆1998.08.09

「罪を清める火」マルコ福音書9:38-50,ヨハネ黙示録3:14-22

             大宮 溥

 ◇マルコ福音書9章後半は,主イエスの教えが詞華集のようにまとめられたものであるが,その中で特に心に残るのは,「わたしたちに逆らわない者は,わたしたちの見方である」(40節)という,主イエスの広やかな態度と,逆に「もし片方の手(足,目)があなたをつまずかせるなら,切り捨ててしまいなさい(えぐり出しなさい)」(43,45,47節)という厳しい教えである。この二つは正反対のようであるが,人間の常識を超えた極端な言葉であるという点は共通である。その激しさと厳しさによってわれわれは目覚まされ,新しい生き方を迫られるのである┬鼻

 ◇第一の言葉は,イエスの弟子たちが,狭いセクト集団的になることを禁じるものである。主イエスは天の父から遣わされて,その御心を伝え,託された使命を果たそうとされた。天の父は世界のすべての者を生かし,すべての者に使命を与えられる。だから自分たちの仲間(クリスチャン)でなくても,父なる神の御心を行っていると思われる人には,自分も学び,共に歩むべきである。人間には「底窓」(自分を見る窓)「横窓」(隣人と対話する窓)「天窓」(人間を超える大いなる存在との対話の窓)がある(安積得也)。主は┬柊天窓」を開いて生きる者が,互いに交わり,共に生きる道を示されたのである。

 ◇しかし他方,43節以下では,実に厳しい,狭い道が示されている。主イエスは,他に対しては寛大であり,自分に対しては厳しい道を示された。人はしばしば人に厳しく,自分に対しては甘い。有名な「姦通の女」(ヨハネ福音書8章)のエピソードは,人に対して厳しく批判する人が,その批判の刃で自分を突いた時,誰一人耐えられないことを示している。(ヨハネ8:1-11)。このような罪をえぐり出す主イエスが,その罪の身を「切り捨ててしまいなさい」「えぐり出しなさい」と迫るのである。まことに「生ける神の手に落ちるのは,恐ろしいことです」(ヘブライ10:31)

 ◇ここで我々が思い起こさなければならないのは,この御言葉を語られた主の御業である。主は罪の故に裁かれるべき我々のために,われわれに代わって十字架につき,犠牲になられた。片手片足でなく,尊き御身をすべて捧げられたのである。われわれは手足を切っても,罪の身を断ち切れない。だから,全身全霊を主イエスに委ね,主と共に死に,主の命によって新しく生かされることこそ肝要である。これが┬柊火(裁き)によって塩づけられる(清められる)」ことである。そして地の塩とされて生きよう。

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◆1998.08.02

「新しい生」エゼキエル書36:25-27、ヨハネ福音書3:1-15

             野崎卓道

 ◇ある夜のこと。ファリサイ派に属し、ユダヤ人達の議員でもあったニコデモが、誰にも気付かれないようにこっそりと主イエスの所にやってきた。彼は噂が立つのを恐れたのである。彼は、キリストを高く評価し賞賛したが、今ある生活を捨てるほどに、キリストに従う覚悟はなかった。

 ◇ヨーロッパ世界がもたらしたキリスト教の文化、すなわち、音楽、芸術、文学などは、この日本において非常に高く評価されているが、その根底にある信仰の方は一向に受け入れられない。そういう中、私達自身も、どこかで人目に隠れてこそこそと信仰生活を送っているような所がある。

 ◇主イエスは、ご自身に従うためには、まず第一に、新しく生まれ変わる必要があることを強調された(3節)。それも「水と霊」とによって新しく生まれる必要があると言われた。これは「洗礼を受ける」ことに他ならない。私達が洗礼を受ける時、聖霊なる神が働いて下さり、私達を根本から新しく生まれさせて下さるのである。

 ◇ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフは、大学をやめ、生活に息詰まり、自分自身に対してやる瀬なさを感じて、段々に陰欝な気持ちになった。そこで、質屋の金持ちの老婆を殺して、その金を手に入れようと決心した。彼は、ある限られた天才は、凡人の定めた法を踏み越える権利を持つと考えていた。ところが、彼が犯行に踏み切った途端に、彼の信念は根底から崩れ、彼は良心の呵責に悩まされ始めた。彼は葛藤のすえ、警察に自首したが、本当の意味で悔い改めてはおらず、シベリヤの監獄に入れられた後も、自分の信念を完全に捨て切ってはいなかった。

 ◇ところが、監獄の中で一年ほど生活を送った後、彼はついに、シベリヤまでついてきて、彼を見守っていたソーニャの献身的な愛に心を動かされ始めた。自分の罪の重荷をソーニャは自分の重荷として共に負って生きている。彼は、今まで体験したことのなかった新しい生命の力が彼の内に湧き出てくるのを感じた。彼は愛の力によって復活したのである。

 ◇私達は、イエス・キリストの自己犠牲の愛によって、罪赦され、復活の命を頂き、新しく生まれるのである。神の愛は、全く価値のない者の内に、絶大なる価値を造り出し、私達の石のような頑固な心を取り除き、血の通った新しい命を私達の内に造り出す。それは私達の内で泉となり、私達を立ち上がらせ、新しく生きようとする勇気と力を与えてくれるのである。

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◆1998.07.26

「仕える者」マルコ福音書9:30-37、ヘブライ12:1-2

             大宮 溥

 ◇マルコ福音書には受難予告が3度記されている。それはバッハの「マタイ受難曲」の中にP.ゲルハルトの「血しおしたたる」のコラールが繰返し現れるのと同じように、主イエスの生涯を貫いて響く主旋律のように、主の十字架を指し示している。

 ◇しかし度重なる受難予告にもかかわらず、弟子たちはそれを理解することができないばかりか、それについて「怖くて尋ねられなかった」(32節)。そして主に背を向けて「だれがいちばん偉いか」と、仲間うちの順位づけを論じ合っていたのである。

 ◇それに対して主は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)と教えられた。これは人の上に立つとか、指導的な働きをすることを禁止するものではない。それは奉仕の場が広がることでもある。しかし、主イエスが十字架への道を歩みはじめたこの時に、弟子たちがそれに全く無関心であり、自分たちの仲間うちでの席順争いに夢中になっていることに、主は心を痛められたのである。

 ◇ここで主は、最も多く恵みを与えられた者は最も多く奉仕することが求められていることを指摘された。「仕える者」として生きることは、主イエス御自身の生き方であった。10章で、弟子たちの中での上位争いが再燃して、ヤコブとヨハネが弟子の第一となることを求めた時、主イエスは、世俗世界における権力追求的な生き方をはっきりと拒否され、御自分の道として「仕える者」(ディアコノス)の道を示された。

 ◇ディアコノスとは、元来は食事の席で給仕する人であり、それが家族の生活を配慮すること、更には奉仕一般を指すようになった。主イエスは神の子でありながら、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(10:40)と語られた。われわれが罪を赦され、神に受け入れられるために、主イエスは命を捨てて下さったのである。われわれの僕となって下さった。

 ◇キリスト者は、この僕に仕える僕、「僕の僕」である。第二次大戦後「アリの町のマリア」として人々を励ました北原玲子は、メルセス修道会の精神を生きた人であった。この修道会は十字軍の兵士でイスラム側の捕虜となった人々を買いもどそうと「身代金」を募る中で、奴隷の値段が高くはね上った時、自分が捕虜の身代りになって奴隷になるという生き方を実践した人たちによって設立された。このすさまじいぱかりの愛に圧倒されるが、その愛の源泉としてディアコノス・イエスがいます。

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◆1998.07.19

「闇の中の光」マルコ福音書9:14-29、コリントII 4:1-6

             大宮 溥

 ◇ラファエロの「変貌」の絵は、一つの大きな画面に山上において変貌し、神々しく輝いている主イエスと、雲にさえぎられた暗い山麓で引きつけを起して倒れ、硬直した手を上に向けて助けを求めている子供の姿とが描き込まれている。主イエスは山上で祝福と力を受けた時、その幸いの中に止ろうとされず、暗い現実の只中に入って来て、その闇を輝かし、人を力づけ癒そうとされたのである。主イエスが下山された時「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚いた」(15節)というのは、主の顔が神の栄光を反映して輝いていたからであろう。

 ◇山の下の弟子たちは、あの病める子について議論はできても、癒すことは「できませんでした」(18節)。この無力が暴露された時、主イエスは「なんと信仰のない時代なのか」(19節)と嘆かれた。マルコ福音書では、癒しは人が信仰に生きている所で起る。神の力は信仰という管を通って人のうちに働くのである。神との交わりの中で身も心も癒され、強められるのである。

 ◇あの息子の父親は主に「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と願った。これは息子の癒しを願いつつ、これまで幾度となくその願いを裏切られた経験から、失敗した時の失望を前もって和げておこうとしたのであろう。主イエスからその生半可さを指摘された父親は、翻然として、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)と、主のもとに飛び込んだのである。

 ◇「信じる」と「信仰のないわたし」は矛盾した言葉である。しかしここには信仰の本当の姿が示されている。われわれは自分の知恵や力で神を手中に納めることはできない。つかみ切れない暖味なわたしと、信じたいわたしが同居している。しかし、その分裂した自分の全体を、神に委ね、神の懐に飛び込むのが真の信仰である。その時、水の中に思い切って飛び込んだ人間が水に身をまかせる時、水そのものの浮力で体が浮く様に、身を委ねた人間を神が支え力づけ、癒されるのである。

 ◇この癒しの出来事のあとで、弟子たちが自分たちの非力の原因をたずねた時、主イエスは「この類のものは、祈りによらなければ、決して追い出すことはできない」(29節)と答えられた。あの父親の姿も祈りの姿と言うことができるであろう。祈りの中でわれわれは、神との対話が始まり、神が語り、答え、神がわが内に住まわれるのを経験する(ローマ8:26参照)。今の時代も、「信仰のない時代」であり、神との出会いによる癒しが真に必要である。

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◆1998.07.12

「神の招き」マタイ福音書7:13-14、22:1-14

             大宮チエ子

 ◇神は、人間を神と共に生きるようにと招いておられる。最も大きい招きは、御子イエス・キリストをこの世に遣わされたことである。イエス・キリストによって、神の御心を知り、神は愛であり、神と共にある恵みを知ることができる。主イエスは神の招きの御手であり、神の恵みの招きそのものである。

 ◇それ故に、「だれでもわたしのもとに来なさい。……わたしに学びなさい」(マタイ11:28)、「だれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と、すべての人をわけへだてなく招かれる。しかも、「命に通じる門」、神への道は、狭く、細く、「それを見いだす者は少ない」(7:14)と言われ、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(22:エ4)と嘆かれた。

 ◇「婚宴」のたとえは、天(神)の国のたとえの一つである。このたとえでは、天の国は、王が王子のために催す特別盛大な祝宴に似ているという。晴れがましい、喜びに溢れた祝い、祝福に満ちたものだという。神はそのような歓喜の席に私共を招いておられる。

 ◇人生には、多くの苦しみや悲しみがある。思いがけない困難や痛みを経験する。しかし、神が共にいてくださり、重荷を共に担っていてくださることを知ると、涙の谷も喜びの泉とかわる。行き詰まらず、失望せず、減ぼされない遠を歩み、悲しんでいるようで、常に喜んでいることができる(コリント第二4:8-9,6:10)。

 ◇神に従う道、神と共にある生活は、祝福された喜びの生活であることが、王からの招待として語られている。当時の招待は2重に行われた。あらかじめ招いておいた客に、当日改めて案内がされた。王の招待を受けていた客は、出席の返事をしていたのである。ふいに呼び出したのでも呼びつけたのでもない。しかし彼らは再度の招きを「無視し」て自分の仕事に「出かけ」てしまった。また他の者は、使いを殺してしまった。王の寛容と忍耐をふみにじったのである。彼らは「今」しなければならないこと、「今」無視してはならないことをないがしろにした。ここに選民イスラエルの、そして私共の罪がある。

 ◇神は、主イエスを救い主、購い主として遺わし、救いに必要なすべての用意を整え、神が与えてくださるその救いの招き、「礼服」を着て、その招きに応えるようにと待っておられる。神の恵みと愛によって備えられた祝福の招きを覚えたい。

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◆1998.07.05

「人間の輝き」マルコ福音書7:24-30

             大宮 溥

 ◇ぺトロが「イエスはメシア(救い主)です」(8:29)と最初の信仰告白をした後、主イエスは「高い山」(9:2)の上で、御自分の本当の姿を示された。普段の人間の姿から、内に秘められていた神の子の真の姿が輝き出たのである。これが山上の変貌である。

 ◇「姿が変る」(2節)メタモルフォオーとは、仮の姿でなく、本質の現出、内なる真の姿があらわれ出ることである。ある写本では「イエスが祈っている間に、その姿が変わり」と書かれている。祈りの中で父なる神と主イエスとの間に、ちょうど二つの極に電流カ掘じて明りがともるように、命と力が通い、主の御姿が輝いたのである。そこにエリヤとモーセが現れて主と語り合っていた。預言者と律法(旧約聖書の全体)の代表的な担い手である。聖書が証する天的な交わり、神の国の交わりが出現したのである。

 ◇天上の交わりをかいま見た時、弟子たちは悦惚忘我の状態となり、一時も長くこのような至福の状態に止ろうとした。われわれも、地上において生ける神とのリアルな出会いを経験する。礼拝の恵みはそのような祝福の時、「まことに、神はあなたがたの内におられます」(コリントロ4:25)という経験の与えられる時である。

 ◇この変貌によって、神の子の確証が与えられた時、弟子たちはその恵みの中に留ろうとしたのであるが、神の御心は、彼らがこの確信を持って現実の只中に入ってゆくことであった。それ故、天上の祝福の様子はすぐに消え「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(8節)。そしてその主は、十字架の道へと進みゆかれるのである。

 ◇われわれも礼拝において、生ける神と出会い、力を与えられる時、その祝福をたずさえて、われわれの日常的現実に立ち帰り、自分の十字架を負うて主に従うことが命じられる。ここで変貌のキリストが放つ輝きは、神の子としての輝きであるが、それは同時に真の人間の輝きでもある、われわれは「御子が現れるとき、御子に似た者となる」(ヨハネ13:2)からである。人間はどんなに表面を美しく飾っても、内側は欲望と敵意の塊であるという理解が現実的だと考えられている。しかし、それは原初の状態から堕落し、破壊された姿であり、キリストの購いと聖霊の潔めによって、信望愛の真の姿へと変貌するのである。ウェスレーの回心は、そのような変貌の一例である。変貌のキリストが、この世を変えるために十字架の道へと歩み出されたようにわれわれも変貌し、この世の光となろう。

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