1998.10-12


もくじ

◆12.24「クリスマスの平和」ルカ福音書2:8-20
◆12.20「いのちの若枝」イザヤ書11:1-5,マタイ福音書2:1-12
◆12.13「神われらと共にいます」イザヤ書7:10-16,マタイ福音書1:18-25
◆12.06「来たるべき方」イザヤ書35:1-10,マタイ福音書11:2-11

◆11.29「希望の若枝」イザヤ書11:1ー10,マタイ福音書3:1-12
◆11.22「キリストにある成長」エフェソ4:1-16
◆11.15「産みの苦しみ」ダニエル書7:13-14,マルコ福音書13:1-13
◆11.08「永遠の目覚め」マルコ福音書13:28-37,ヨハネ黙示録21:1-4
◆11.01「いのちの一隅」マルコ福音書12:28-34,38-44,ローマ12:1-2 

◆10.25「人にしてもらいたいと思うこと」マタイ福音書7:7-12
◆10.18「新たに生まれる」ヨハネ福音書3:1-8
◆10.11「生ける神」出エジプト記3:1-101,マルコ福音書12:18-27
◆10.04「神の民」マルコ福音書12:13-17,使途言行録2:43-47 

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◆1998.12.24

「クリスマスの平和」ルカ福音書2:8-20

       青山学院宗教部長 鈴木有郷先生

 ◇ルカによる福音書が伝えることは、荒野の羊飼いたちの現実が我々の現実を象徴しているということである。荒野には羊を襲う野獣がおり、その野獣は羊飼いたちをも襲うことがあった。彼らのまわりには生活を脅かす危険が常にあった。この現実は、我々が今直面している日本経済の崩壊、リストラ、就職難、あるいは病と死と直面する日常を象徴している。

 ◇荒野の羊飼いたちは何を頼りに生きていたのか。彼らはローマ皇帝、ヘロデ大王の権力と冨に頼って生きていた。従って、彼らが求める救い主とは、旧約聖書が語るユダヤの王国を建てるダビデ王のような人物であった。そのような人物の到来によって、自分にも権力と冨が与えられることを望んでいた。つまり、平和と幸福とはこの世の栄華を極めることであった。

 ◇しかしこのような現実に語られたクリスマスのメッセージは、非常にラディカルなものであった。本当の幸福と平和は飼い葉桶の中の幼な子にある。救い主は宮殿の中に生まれず、馬小屋の中に生まれた。このことは、我々の救いが我々が生きる日常のただ中に現れたことを意味する。それゆえクリスマスのメッセージは(神は我々と共におられる」ということであり、このこととを知ることが幸福と平和なのである。

 ◇14,5年前こ私は一人の少年を通して人間の人間らしさを知る体験をした。その少年は私の息子の友人であった。彼は足に障害をもっていたので、いつも松葉杖を用いていた。広い道路を渡る途中に彼の靴紐がほどけ、自分で紐を結ぼうとしていた。その姿を彼の母はじっと見つめていた。自分でできることは自分でする、これが彼の母親の方針であった。信号が変わり、クラクションがなり、ドライバーはどなっていた。やっと紐を結んで、私たちは小走りに渡った。ドライバーと通行人の冷たい視線を感じた。しかしその時、中学生の少女が私たちのところへ来て、「わたしすごいものを見ました。がんばってください」と言った。ここに人間の人間らしさを感じた。飼い葉桶の中の幼な子を見、クリスマスのメッセージを聞くことは、人間の人間らしさを知ることである。クりスマスの平和とは、幼な子イエスに出会った羊飼いたちが喜ぴいさんで荒野に返って行ったことに象徴される。この世の常識を否定するようんな形で、本当の人間らしさをもってこの世で生きることである。そのように生きる我々に聖書は「恐れるな、神共にいます」とクりスマスの平和を伝えるのである。

 

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◆1998.12.20

「いのちの若枝」イザヤ書11:1-5,マタイ福音書2:1-12

       大宮 溥 牧師

 ◇マタイ福音書は、主イエス・キリストの誕生の時、東方の博士たちが「王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と訊ねたと記している(2節)。彼らは異邦人であり、主イエスの誕生がユダヤ人だけでなく、全世界の救いにかかわることを示している。彼らは「占星術の学者」(1節)と言われているか、それは天文学者であると共に、人間の運命を探究する人々であった。現代は科学技術の発達と共にそれが人間と自然の破滅をももたらすことに気付き、改めて今日と明日の世界の救いと希望がどこにあるかが問われている。これは東方の博士の問であった。

 ◇世界の救いを問う博士たちの問に、ユダヤの人々は、ミカの預言にもとづいて、答を与えた(6節)。これは旧約聖書が記している救いの歴史を注目することであった。神は天地創造のはじめから、この世界と人類に心をとめ、これを育て導き救って来られた。その頂点としてイエス・キリストをこの世につかわされたのである。あの日ベツレヘムの上に輝いていた星のように、今もイエス・キリストという導きの星が輝いているのである。「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることがない」(ヘブライ13:8)のである。

 ◇マタイ福音書は主イエスの誕生を「王の誕生」としてえがき出している。それ故彼の誕生はヘロデ大王を不安にした(3節)。この二人は対照的な王である。ヘロデは力の支配の権化であった。それに対して主イエスは、神の子が天の高床から地の低味に下り、人々に仕え、自己犠牲の道を歩まれた。夢の支配の極致である。

 ◇降誕物語は夜の物語である。夜は人間が眠りに沈む時である。ユダヤでは一日は日暮に始まり日暮に終る。「夕べがあり、朝がある」(創世記1章)。人間は先ず眠りの中で、神に命と力を与えられて立ち上って働くのである。ところが人間は甚だしく衰弱して再起できない状態にある。そのような人間を再起させるために、神の子イエスが、「肉をまといて」(ルター)この世に生まれ、われわれと一体となり、われわれの内に命と力を与えて下さるのである。

 ◇預言者イザヤは切り倒された木の株から新しい芽生える若枝のように、歴史を再生させる王の出現を預言した。そして「その上に主の霊がとどまる」と語った(2節)。主イエスは「聖霊によりてやどり」、神の命と力に枯渇していてわれわれに、神の息(聖霊)を吹き込み、われわれを新しく生かして立ち上らせて下さる。主の誕生は、われわれ自身を再生に導くのである。

 

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◆1998.12.13

「神われらと共にいます」イザヤ書7:10-16,マタイ福音書1:18-25

       大宮 溥 牧師

 ◇クリスマスの前に「受胎告知」を学ぶ。主イエスをはじめに迎えたマリアとヨセフのように、われわれも自分のところに主を迎え、信仰を新たにするのである。一般に「受胎告知」というと、マリアヘの御告げを思い浮べる。天使がマリアに「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と呼びかけて受胎の祝福を告げ、マリアが「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるのである。これはルカ福音書の伝える美しい光景である。

 ◇これに対してマタイ福音書には、ヨセフに対する告知が記されている。ここでは天使の御告げの前にマリア懐妊の事実が語られている。これはマリアとヨセフの結婚前のことであった故、事態は深刻であった。「処女降誕」について、大切なことはそれがイエスが神の子であるという信仰告白だということである。主イエスは「聖霊によりてやどり」給うた神の子であることを示すしるしが「おとめマリアより生まれ」たのである。ヨセフの苦悩は、イエスを神の子と信ずるために、人間が乗りこえなければならない、信仰の戦いを示している。

 ◇このヨセフの迷いを解決したのは、その夜夢にあらわれた天使の御告げであった。マリアの胎内で起ったことは「インマヌエル」「神が我々と共におられる」(23節)事実であった。神はわれわれと同じ場に立たれ、人間と一対一で対等に交わる相手になって下さったのである。愛は愛する者と同じ「目線の高さで」(佐藤邦宏)交わろうとする。神は人間の現実を共に生き、共に担われるのである。

 ◇これはイザヤの「インマヌエル預言」(7章)の成就である。この預言は紀元前734年のシリア・エフライム戦争の時に語られたものである。当時強暴な世界帝国であったアッシリアが近隣諸国を呑もうとしていた。シリアとイスラエル(エフライム)は、身を守るために反アッシリア同盟を結ぴ、南のユダ王国にも加盟を求めた。しかしユダのアハズ王は、それはアッシリアの怒りをかい、破局を早めるだけと考えて同調しなかった。そのためにこの二国に攻撃されたのである。「森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(2節)王と民に向ってイザヤは神のみを信頼し、沈着冷静に対処せよと励まし、「神共にいます」しるしとして、子供にインマヌエルの名を告げた。マタイ福音書は、神御自身が来て共にいます事実として、この預言をとりあげている。この御告に、決断的に行動したヨセフの様に、信仰をもって主を仰えよう。

 

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◆1998.12.06

「来るべき方」イザヤ書35:1-10,マタイ福音書11:2-11

       大宮 溥 牧師

 ◇クリスマスは家に帰る日といわれる。欧米ではクリスマス休暇で、故郷に帰り家族と共に過すからである。しかしそれ以上にこれは魂の故郷に帰る時である。しかし友がみな故郷に帰る時、帰るに家なく孤独に過す人のような、とまどいの中にあった人物が洗礼のヨハネであった。

 ◇ヨハネはイエスの噂を聞いた時、使をやって「来るべき方はあなたでしょうか」(3節)と間うた。彼はイエスを神の子と認めた最初の人であったが、その後彼は預言者としての真筆な働きの故に却って領主に怨まれ・マケラスの砦に幽閉された。救いが感じられなかったのである。それに対して主イエスは「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」(4節)と答え、彼のまわりで「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き」と救いが現実になっていることを告げたのである。これはイザヤの預言が成就したことを語っているのである。

 ◇イザヤ書35章には、荒廃した自然の回復と、痛み傷ついた人間の回復が預言されている。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(1、6節)。このように自然が生命をとり戻す時、人間も「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」(5節)と、本来の自分を取りもどす。そのような回復の根拠は、人々が追放されて異郷の地をさまよっていたのが、解放されて故郷に帰ることがゆるされるからである。これはイスラエルのバビロン捕囚からの解放で経験されたことであった。

 ◇主イエスは、このような人間の故郷への帰還が、可能になったことを告げている。人間の真の故郷は神である。われわれは神から出て神に得る存在である。われわれは神に帰ることによって、故郷に得った旅人のように平安と喜びを与えられるのである。主イエスがこの世に来られたのは、この故郷なる神か、故郷を離れてさ迷っている人間のところに来られたのである。神は人間が帰って来るのを待っているのでなく、異郷にある人間のところに来られたのである。主イエスは「異郷こ赴く神の子の道」(バルト)を歩み出されたのである。そのことによって、人間は異郷の只中にあって、そこを故郷とすることができるのである。神が共におられるからである。待降節第二主日は「聖書日曜日」である、聖書は「待ち運び自由な故郷」(ショーレム)である。今年も、この待降節に、われわれは聖書に聞き、主を迎えて故郷に生きるのである。

 

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◆1998.11.29

「希望の若枝」イザヤ書11:1ー10,マタイ福音書3:1-12

       大宮 溥 牧師

 ◇待降節に入り最初のろうそくをともすと、この一年も闇の中に主の恵みか燃えて輝いていたことを思い起させられる。『アンネの日記』の中に、この一家がこの季節に守ったハヌカの祭りのことが記されている。彼らはどんな苦境の中でも希望に生きた。それは「わカ勘けは天地を造られた主から来る」(詩編ユ21:。2)ことを信じていたからである。待降節は、この約束の主がすでに来た(第一の来臨)ことを思い起し、その主が「再び来りたまふを待を望む」時である。

 ◇この季節に必ず読まれるイザヤの預言で、今日の例言葉はrエッサイの株からひとつの芽か萌えいで、その根からひとつの若枝が育つ」(ユ1:ユ)と語っている。エッサイはダビデ王の父であり、ダビデ王朝を意味する。「株」はr切り株」である。巨木カぎ根もとから切り倒され、切り株だけが残っている。繁栄を誇ったダビデ王朝が根もとから断たれ、跡かたなく滅びた姿である。イザヤの時代にはダビデ王家はまだ存続していた。しかしイザヤは外にアッシリア王国の巨大な力が迫り、内には不信仰による内部崩壊によって、国が滅ぴるという現実を冷静に見すえていたのである。

 ◇しかし同時にイザヤは、神がその民を全く見捨てられることはないと信じていた。そして切り株にいつか若芽、ひこばえ、若枝が生えてくるように、「ダビデの子」(メシヤ)によって、新しい国の立てられることを預言したのである。ヒゼキヤ王の時代に、ユダ王国を呑もうと迫ったアッシリア軍が一夜にして退去したという奇蹟的救済の経験が、この希望を強めたのかも知れない。

 ◇このイザヤの預言したrエッサイの切り株から芽生えた若枝」「ダビデの子」をキリスト教会は、イエス・キリストのことであると理解してきた。主イエスは巨木が倒れたような滅びの中にある世界に来られ、この世に命と希望を与える若枝となられた。◇キリストの十字架の死は、人間が罪の故に根もとから切り倒されている現実を、主イエスか引き受けて下さったことである。キリストの復活は、この切り株に永遠の生命が芽生えたことを示している。イザヤはエッサイの切り株から萌え出た若芽・若枝か、神の霊に満たされて育ち、正義と真実をもってこの世を支配し、その結果真の平和が訪れると預言した。これか主イエスによって実現したのである。20世紀は文明飛躍の世紀であったが、多くのものが倒れ、霊的に枯渇している。主の霊による再生が切に求められる。

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◆1998.11.22

「キリストにある成長」エフェソ4:1-16

       大宮 溥 牧師

 ◇阿佐ケ谷教会は明年2月に創立75周年を迎える。ここに植えられた小さな群を、今日まで育て導いて下さった主イエス・キリストの恵みを思い「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)との信仰を新たにしたい。今日の一日全体修養会から、75周年の歴史を新しく築く歩みを姶めよう。

 ◇この修養会の主題は「教会の歴史を担う私たち」である。そこで先ず、教会とは何かを心に留めたい。H.キユンクは教会を「神の民」「キリストのからだ」「聖霊の宮」という、三つの聖書的イメージで示している。第一に教会は「神の民」である。神は世界と人間を創造されたが、人類の中で特にある人々を選び、彼らを召して神の民とし、神と共に歩み、また神の恵みを運ぶ群とされた。旧約のイスラエル、新約の教会である。教会は神の召しに応え、伝道と奉仕と交わりに生きるのである。

 ◇第二に教会は「キリストのからだ」である。キリストは神の子でありながら、われわれと同じ「からだ」を備えた人間となり、生身の人間の苦しみと悩みを共に担ってくださった。そして十字架の死と復活を通して、人間の新生の道を開いて下さった。われわれは、御言葉を通してこのキリストと交わり、聖礼典を通してこのキリストと一体とされ、キリストによって生かされて歩むのである。

 ◇第三は「聖霊の宮」である。聖霊降臨節以来聖霊は、信仰者一人一人の内に宿り、闇を照らし、冷えた心を燃やし、立ちよって前進する力を与えつづけておられる。ジョン・ウエスレーが「私の魂はふしぎにも温められるのを感じた」と告白したようにわれわれは御霊に燃やされて生きるのである。

 ◇教会について教えるエフェソの信徒への手紙は、4章において、教会がキリストの体として一つとなり、成長するように励ましている。この成長は「愛の成長」である。ウエスレーは「キリスト者の完全」を説いたが、これは神の愛によって育てられて、完全な愛(神への愛と隣人受)に向って成長してゆくことを強調したのである。現代の問題は、愛された経験が乏しく、愛されているのにそれを知らず、愛することができないことにある。「愛されるよりは愛することを」生きる人間になることである。そのために、教会とその肢であるわれわれが「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向って成長」(15節)しなければならない。

 

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◆1998.11.15

「産みの苦しみ」ダニエル書7:13-14,マルコ福音書13:1ー13

       大宮 溥 牧師

 ◇古くからの教会暦では今の時期は「終末主日」である。人生の終りと歴史の終末と神の国を思う時である。マルコ福音書13章は「小黙示」と呼ばれ、終末についての主の言葉が記されている。

 ◇その冒頭に、主イエスがエルサレムの神殿を出ようとされた時、弟子たちがその壮大さに感嘆の声を上げたのに対し、主が「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)と、神殿崩壊を預言されたことが記されている。事実紀元70年のユダヤ戦争において、新築間もない神殿は廃壇と化したのである。

 ◇この厳しい言葉は、地上においてどんなに壮大な堅牢なものも、過ぎゆくもの、消滅するものであり、人間がまことに拠り所とすべきものは、永遠に変ることのない神のみであることを、心に刻ませようとしたのである。13年前阿佐ケ谷教会の新会堂献堂の日の礼拝において、大村牧師がこの御言葉を取り上げ、現代日本の表面的な豊かさの影にある「精神の貧困、神なき文化」、神を嘲るような風潮を指摘し、神を恐れることを強く語られたのを思い起すのである。

 ◇この主の言葉に驚いた弟子たちは「そのことはいつ起るのですか」(4節)と問うた。当時は社会の崩壊、生活の破壊の危機にさらされており、世界破滅の不安を多くの人が抱いていたのである。それに対して主は、上流階級の自己満足を砕くと共に、終末の予想に浮足立っている人々に対しては、「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)と平静であるよう教えられた。神の国がいつ来るかは、神のみの知りたもうことであって、われわれは、それがいつ来ても、神の前に立つよう目覚めていると共に、主に信頼して、「たとえ明日が世の終りであっても、わたしはリンゴの木を植える」(ルター)という様な、冷静さをもって日常生活に励むべきである。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えてくださいます」(コリントエ10:13)。

 ◇この試練は「産みの苦しみ」(8節)である。主の十字架の苦しみは、人間を救うための産みの苦しみであった。苦しみは命と死の力のぶつかり合いから生じる。われわれは苦しみを通して、生命の勝利に導かれることを信じ、試練にも絶望しない。初代のキリスト者は、世の終りは福音が全世界に語られた後と考えた。宣教によって試練の世界に希望を運ばなければならない。

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◆1998.11.08

「永遠の目覚め」マルコ福音書13:28-37,ヨハネ黙示録21:1-4

       大宮 溥 牧師

 ◇在天会員の生涯とその最期を思い起す時、主イエスが弟子たちに、いつでも神の前に出ることができるように「目を覚ましていなさい」(35節)と諭されたことを、切実に思い起す。ここでは神が「家を後に旅に出る人」(34節)にたとえられ,人間がその主人に命じられた門番として、主人の帰って来るのを待っている姿で描き出されている。人生は神から命を与えられて生きる恵みの時であり、またこの世において神から与えられた使命を果す時である。そして我々はそれぞれの人生の終りにおいて、人生をどう生きたかを神から問われるのである。われわれは「待ちつつ急ぎつつ」(ブルームバルト)生きる。そして人生の最後においてふさわしい姿で主の前に立つためには、人生を主と共に歩むことである。

 ◇今日のもう一つの御言葉である黙示録21章には、古い世界が過ぎ去り、新しい神の都が出現する姿が描き出されている。これは死を克服した永遠の命の世界であるが、ここで注目すべきことは、ここには個人の姿でない、一つの町の姿が描き出されていることである。神の力が働く時、われわれは個人として永遠の命を与えられて生きるだけでなく、社会(共同体)が新しくされ、共に生かされるのである。「親はわが子に友は友に、妹背あい会う」(489番)のである。われわれの地上の交わりは、神の支えと導きのある時、地上で終るのでなく永遠のものとして、新しくされ、再会の喜びを経験するのである。

 ◇「いちじくの木の教え」(マルコ13:28-31)は何を語っているのであろうか。いちじくの若芽が夏の訪れを告げているように、主イエス・キリストかご。の世に来られたことは、神の国の来るしるしであると共に、神の国を実現するものだということである。神の国とは罪の古き世が過ぎ去り永遠の命が芽生える世界である。それは主イエスの十字架によって罪か砕かれ、主イエスの復活によって新しい命が与えられることによって到来した。主イエス・キリストの十字架の死と復活は、神の国の保証なのである。

 ◇いちじくの木は、冬に葉を落しても、次の夏また葉を繁らせる。そのようにキリストは、また来られる。「わたしはすぐに来る」(22:20)と主イエスは約束された。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)。それ故、キリスト者は、主が来られたことを思い起すと共に、その主が再び来られることを思い希望を新たにするのである。信仰の目を覚まして歩みたいものである。

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◆1998.11.01

「いのちの一隅」マルコ12:28-34,38-44,ローマ12:1ー2

       大宮 溥 牧師

 ◇主イエスの最後の論争の頂点は、最も重要な掟についての問答である(28-34節)。これは煩瑣な掟に縛られていた当時の人々にとって、神の御心の中心を知りたいという切実な問いであった。当時のユダヤ教の代表的学者のヒレルは「あなたにとって憎むべきことはあなたの隣人にも行ってはならない。これが律法の全部である。他のことはみなその説明である」と答えた。これは「黄金律」(マタイ7:12)と同趣旨である。

 ◇主イエスは、ここで神への愛と隣人受こそ第一の掟であると答えられた。マルコ福音書はここで「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である」という申命記6:4の言葉を前に置いている。これは当時のユダヤ人が毎日となえる言葉であった。この恵みと真実の神を仰くことによって、その応答として神と人への愛が生まれるのである。

 ◇この愛の掟を語られた後に、主は律法学者たちの偽善を批判し、レプトン銅貨二つを捧げたやもめを称賛された。ここで問題になっているのは、神との関係という縦の関係と人との関係という横の関係である。律法学者は縦関係が切れていたために、人間との関係だけが意識の中心を占め、偽善に走ったのである。それに対してあのやもめは、神との交わりが生きていたので、この唯一の主の恵みに感謝し、これに応えようとして持てるものの一切を捧げたのである。「長者の万灯より貧者の一灯」であるが、問題は量ではなく、捧げものを成り立たせている神との関係の問題である。

 ◇主イエスがこのやもめのささげ物に特に注目されたのは何故であろうか。主イエスはエルサレムにおける指導者たちとの激しい対決の間に、ご自分の最後について予想せざるを得なかったであろう。十字架への予感である。そしてこの犠牲の道を、神と人間への献身の道として覚悟されたであろう。神のためにすべてを捧げようとされた主イエスは、このやもめの捧げ物に深い共感を覚えられたのであろう。

 ◇主イエスの十字架の犠牲を知っているわれわれは、あのやもめ以上に、われわれの心を激しく打ち、われわれ自身を感謝の応答へと促すものがあるのではないであろうか。エルサレムの神殿の広い庭を大勢の人々が動いていた中で、主は人知れず献金をささげている貧しいやもめに注目された。主イエスは片隅で生きている人間に注目しておられる。われわれの生活の一隅が、主の注目を受けていることを思い、主と共に歩み出したいものである。

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◆1998.10.25

「人にしてもらいたいと思うこと」マタイ福音書7:7-12

       ロンドンJCF牧師 盛永進先生

 ◇マタイ福音書7章12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。このイエス様の言葉は山上の説教の結ぴであり、旧約聖書を要約したものと言えます。まさに神の言葉です。

 ◇人にしてもらいたいこととはどんなことでしょうか。優しくしてもらいたいとか、意地悪しないでほしいとか、多くの願いがあります。人に要求することはたくさんあるのですが、イエス様はそれが良くないことだと言われました。また人に求めないでむしろ自分自身に求めなさいとも言われました。

 ◇私たちが人に求めることは、正しさを追求することがほとんどです。人に求めることは律法であります。つまり神の言葉をまるで神のように人に求めることだと、イエス様は語っておられます。

 ◇「良きサマリヤ人」の譬え話があります。助けなければならない人がいるのに、祭司、レビ人はその人のそばを通りすぎました。しかし敵と言われたサマリヤ人がその人を助けました。この話を聞いた人々にイエス様は正しい者は誰かと間うた時、人々は「サマリヤ人です」と正しい答えをしました。正しい答えを知っているにもかかわらず、自分自身はその人の隣人になれないでいます。

 ◇ここにいる人全員が神の言葉をもっています。その言葉を人に求めるゆえに人を裁きます。人に求めることを自分に求めてみましょう。その様に生活するなら、神の言によって生かされており、神に従う生き方となります。

 ◇生活の中で私たちは様々な問題にぶつかります。その中で人に何かを要求し、かなわないと、がっかりしたり、おこったり、絶望したりします。人間は人間であるから神の言葉を人に求める資格はありません。本当は人にしてもらいたいことは自分に求めなければなりません。神の言葉を聴き、神の言葉を目分に求める時、私たちは平安を与えられます。そして自立した人として生きます。

 ◇神の子として生きようとする時、人にしてもらいたいことを自分に求めましょう。その時、自分自身の罪が見え、イエス様の救いが必要だとわかります、そしてイエス様を信じる者となります。人に求めることを自分に求めましょう。その時、私たちは地の塩、世の光、光の子となります。そうすればまわりもかわっていきます。それが神の言の力です。

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◆1998.10.18

「新たに生まれる」ヨハネ福音書3:1-8

             大宮 溥

 ◇ニコデモは「ユダヤ人の議員」(1節)、ユダヤの宗教的政治的指導者であった。しかし主イエスのもとを訪れ、謙虚に神の道を学ぼうとしたのである。ところが主イエスは、開口一番「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と、いきなり本論に入られた。この言葉は「アーメン、アーメン、わたしは告げる」と、真剣に受けとるように注意を促しているのである。

 ◇「神の国を見る」とは、神が生きて働いておられること(神の支配)を、生き生きとした現実として経験することである。そのためには「新たに生まれる」必要があると言うのである。「新たに」(アノーセン)は「上から」とも訳せる。上から、神の力によって、霊によって生まれることで、ある。霊的新生である。

 ◇エリザベス・キュプラー・ロスが、9才の脳腫瘍の男の子から「いのちって何?死って何?どうして、小さな子どもたちが死ななければならないの」という問いを出されて『ダギーへの手紙』を書いた。彼女は「いのちのはじまりと、すべてをっくられた神さまのこと」を書く。神様は太陽のように、世界中を照らし、私たちをあたため、花を育てる。神様は無条件に愛してくださる(unconditional love)。花によって命に短い長いはあるが、そのいずれも神様が与えてくださったもの。人生は学校のようなもので、人との交わり、自分を知ること、自分に、そして人に正直であることなど、いろいろ学ぷ。そして人に愛を与えたり、人から愛をもらったりすること。こうした学びとテストにパスしたら、わたしたちは卒業する。そして本当の家に帰ることができる。船が水平線のむこうに消えても、なくなったのでなく、ただ見えなくなっただけ。私たちは神様の家で、先に行った人々と一緒に、いつまでも、信じられないほどの大きな愛につつまれるのです。

 ◇これは、キュブラー・ロスの信仰告白である。これは子どもっぽいことでなく、霊的な真理である。ダギーはこの霊的世界を知らされ、生きる力を得、3ケ月と言われたのに、13才まで生きた。

 ◇この霊的世界に生きることが「上から生まれる」ことである。主イエスはこれを「水と霊とによって生まれる」(5節)と言われた。水は洗礼を示し、主イエスの十字架の苦しみと死によって与えられる赦罪と新生の恵みを示す。主はわれわれが新たに生まれるために、このような産みの苦しみを耐えられたのである。今日、神の愛を知り、神を畏れて生きることが切望される。

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◆1998.10.11

「生ける神」出エジプト記3:1一1,0マルコ福音書12:8-27

             大宮 溥

 ◇金大中韓国大統領の来日を機会に、キリスト教関係者が同夫妻の歓迎会を開いた。この大統領が幾度となく生命の危険にさらされながら、同胞と民主々義を守るために決して妥協せずに歩んだと述懐されるのを聞いて、かつて死刑の判決を受けた時「夜明け前は闇が最も深いという。諸君、希望をもって進もう」と語ったのを思い起した。この人の勇気ある生涯を支え、動かしている原動力は、クリスチャンとして生ける神を信じる信仰にある。復活信仰と言ってもよいであろう。

 ◇今日与えられた御言葉は、主イエスの「復活についての論争」である。当時のユダヤ教でサドカイ派は神殿の祭司を中心としたグループで、保守的現実派であった。聖書も律法(モーセ五書)しか正典として認めず、そこに出てこない復活を否定していた。これはファリサイ派が復活を認めるのと対照的な態度であった。

 ◇ここでサドカイ派が持ち出している議論は、議論というより反対者を馬鹿者扱いにして笑い飛ばすような、皮肉な冗談のような議論である。古代社会にはレビル婚(レビルは夫の兄弟のこと)という習慣があった。それを例にとって、復活論者を窮地に追い込もうとしたのである。これに対して主は「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」(24節)と批判された。

 ◇彼らは信仰的霊的な次元の事柄を身体的物理的な次元で考えている。復活は神の愛の創造力による。その力がどう働くかは人間の論理を積み上げてもとらえられない。復活は生ける神と人間との関係が、死によっても切られないことから生まれる。キリスト教信仰が信じる人間の不死性は、「有機体(生物体)の不死性」ではなく「関係の不死性」である(フォーサイス)、神は人間を愛される時、その愛は一時的でなく永遠の愛である。それは死によっても断たれることはないのである。

 ◇主イエスはモーセの召命を伝える「柴の個所」(出エジプト記3章)で、御自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗られた。これは過去形でなく現在形である。神と共にある者は、その神によって生かされ続ける。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(27節)。この神が「わたしが生ぎているので、あなたが本も生きる」(ヨハネ14:19)と、語りかけ、働きかけて下さる。この神への希望によって、われわれは老いにも死にも、勝利して生きる者とされるのである。これが勇気ある人生を導く。

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◆1998.10.04

「神の民」マルコ福音書12:13-17、使途言行録 2:43-47

             大宮 溥

 ◇世界聖餐日は、世界の諸教会が一斉に聖餐式を執り行い、われわれが皆キリストの体であり、それ故全世界が一つであることを心にとめる日である。これが米国で制定された時は1936~40年のころで、第二次世界大戦直後のころであった。諸民族が侵略抗争の憎しみの中で、一つの共同体として生きようとしたのである。今日経済的危機の中で、嵐の中を航海するわれわれの船に、主が乗り込んで下さり、われわれが一つとなって明日に向ってこぎ出すよう導いて下さることを覚え、主と共に、また国際的連帯の中で、前進しなければならない。

 ◇有名な「カイザル(ローマ皇帝)への納税問答」は、世界を引き裂く論争に主イエスを巻き込み、主を破滅につき落そうとする策略であった。ローマヘの納税は、ユダヤ人に対して、神の民としての誇りを傷つけ、異民族への隷属の事実を見せつけるものであった。それ故皇帝への税を納めよと言えば、群衆の怒りを買い、納めるなど言えば、ローマの官憲の捕縛と処刑を招くという、逃げ場のない危険をともなうものであった。

 ◇それに対して主イエスは、質問者の意表を衝く答をされた。先ずデナリオン銀貨を持って来よと命じ、彼らが持って来るとそこに皇帝の肖像と銘が刻まれていることを確認させた。この肖像をユダヤ人は一種の偶像として嫌い、宮への献金には「宮のシケル」に両替させた。それをファリサイ派やヘロデ派の人たちが持っていたということは、彼らも皇帝の支配の恩恵を受けて社会の秩序を保っていたことを明示するものであった。そこで主は「皇帝のものは皇帝に返せ」と命じられた。これは政治と宗教の関係において、政治権力が神から託された社会の管理を担う限りにおいてこれに服従する(ローマ13章)が、それが絶対権力となる時は拒否する(黙示録13章)という基本的な態度を示唆するものである。

 ◇しかし続けて主は「神のものは神に返せ」と命じられる。デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻まれているが、人間は「神の像」を帯びている(創世記1:27)。人間は神のものなのである。更に人間を神のものとして回復するために、主イエスは十字の犠牲を払われた。従って「神のものを神に返す」ということは、われわれが人の奴隷に再転落することなく、恵みにこたえ、信仰と希望と愛を神にささげて生きよと言うことである。今日聖餐をうけて、われわれが神の恵みの中にあることを味わい、これに強められて、正義と分かち合いの、神の導かれる共同体形成のために生きよう。

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