◆12.24「光は闇の中に輝いている」ヨハネ福音書1:1-5
◆12.19「和解と希望」ハバクク2:1-4、ルカ福音書2:1-14
◆12.12「わが魂は主をあがめ」ルカ福音書1:26-56
◆12.05「神の言葉が宿る」ヨハネ福音書1:6-14、ヨハネI
2:12-17
◆11.28「新しい道」エレミヤ書31:31-64、ヨハネI
2:7-11
◆11.21「愛を知る」ヨハネI 3:16-18
◆11.14「弁護者キリスト」ヨハネ福音書14:15-21、ヨハネI
2:1-6
◆11.07「光の中を歩む」イザヤ書60:1-2、ヨハネI
1:5-10
◆10.31「命の川」詩編130、ヨハネ黙示録22:1-7
◆10.24「はじめに道があった」マラキ書3:1-3、マルコ福音書1:1-5
◆10.17「わたしたちの交わり」ヨハネ福音書1:1-5、ヨハネI
1:1-4
◆10.10「私を愛するか」ヨハネ福音書21:15-19
◆10.03「良い羊飼い」ヨハネ福音書10:14-18、ヘブライ書13:20-25
「光は闇の中に輝いている」ヨハネ福音書1:1-5
聖学院大学教授 滝野川教会牧師 阿久戸 光晴 先生
◇近年、私達の社会ではまるでクリスマスの時に起こされた悲惨なヘロデの幼児大量虐殺を思わせるような幼子の殺害が起こされている。まさに時は闇であり、暗闇は光を理解せず、受け入れない現実が私達を取り巻いている。しかし、同時に、光は暗闇の中に輝いているのである。
◇クリスマスが起こったあの日の夜、地上は深い闇に包まれていた。ところが突然、天の扉が開け、主の栄光が地上を照らし、すぐにその扉は閉じられたが、そこには一人の幼子が生まれており、世界は以前とは全く別のものとなっていたのである。しかし、事の重大さにどよめき、神のなさる業を誉めたたえずにはいられなかったのは、御使い達と天の軍勢であって、地上の人間ではなかった。
◇ヨハネ福音書冒頭を見ると、ヨハネがクリスマスの栄光を語るに際して神の創造の御業を念頭に置いていたことが分かる。それはイエス┬疋キリストにおいて実現された救いの業が、実は神が初めて天と地を創造された御業と別のものでないことを語ろうとしているからである。この世界は隅々まで良いものを創造しようとするご意志、神様のご決意によって誕生し、肯定され、今存在している。たとえ、崩れ行くように見える世界であっても、これを良しとしたもうた神の堅いご決意の下に世界は存在しているのである。その創造者なる神の最も深い所にあるご決意そのものである神の言を神は小さな幼子として誕生させたのである。創造も御子の受肉も一貫して神の大いなる救いのこ計画の内にあるのである。
◇信仰者も、この驚くべき出来事の前に沈黙せざるを得ないが、それは讃美の歌を歌うための沈黙である。疲れと不安の中にあった羊飼い達はこの出来事を経験し、神を崇め讃美して帰って行ったのである。
◇アドベントの典礼の色の薄紫色は、忍耐と待望のシンボルカラーである。アドベントとは御子のご降誕を待ち望む学びの季節であると同時に、御子が再びこの地上に、私達一人一人の中に深く宿ることを学ぶための期間であり、終わりの日におけるイエス┬疋キリストとの再会を先取りする日でもある、クリスマスとは、御子が天上で生まれ、一人の処女より生まれ、そして、三度目に信仰者の一人一人の心の中に誕生する日なのである。私達はそのことを学ぶために、繰り返しクリスマスという恵みの時を与えられているのである。
「和解と希望」ハバクク2:1-4、ルカ福音書2:1-14
大宮 溥 牧師
◇今わたしたちはイエス┬疋キリストの降誕を祝い、2000年に向けての歩みを始めようとしている。ルカ福音書はキリストの降誕をローマ皇帝アウグストゥスの治世に起った世界史的な事件として描いているが、キリストはアウグストゥス以上の意味をもつ。かの皇帝の即位以来何年を経たか誰も知らないが、主の誕生の年はすべての人に知られている。
◇このような意味をもつ主の誕生について、ルカ福音書の記述はまことに素朴な、普通の家庭における出産の状況と少しも変らない。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉柄に寝かせた」(6節)。「布にくるむ」のは当時のしきたりであり、「飼い葉柄に寝かせる」のは、緊急の取るもの取りあえずの出産であったことが示されている。
◇この平凡な、われわれと同じ姿での出産ということが、実はまことに深い意味をもっている。それはこの誕生がわれわれ一人一人と切っても切れない深い関係にあることを示している。これは神がわれわれ人間と等しくなられ、われわれと共に、われわれを担って歩んで下さる姿である。ラトウールの聖誕画が示すように、闇の中に光が輝いたことである。
◇神が人となられたという受肉の事実は、神の愛の特質を示している。真実の愛は、自分が愛する者のためには自分を与えつくすものである。人間の愛もそのような特徴をもつが、人間の限界として他者に完全に代ることはできない。しかし神は人間を愛し、人間の滅びようとする時、人間に代って自分がそこに立ち、犠牲となって下さるのである。「神は人間に近い。人間が自分自身に近いよりももっと近い」(テオロギア┬疋ゲルマニカ)。イエス┬疋キリストはこの神の愛の具体化である。
◇このように神の光が人間の闇の中に来て下さることによって、闇の中に神の栄光が輝く。降誕の告知を受けた羊飼いたちはユダヤ社会では貧しく低い層の人々であった。神の恵みは低きを照らすのである。「あなたがたは、わたしたちの主イエス┬疋キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(IIコリント8:9)。
◇「和解」の原語は「交換」を示す。主がわれわれの滅びを引き受け、われわれが主の命にあずかることによって、神と人の和解が成り立った。われわれもこの恵みを受け、和解と平和の世界を築いてゆこう。
「わが魂は主をあがめ」ルカ福音書1:26-56大宮溥
大宮 溥 牧師
◇待降節には主イエスの母マリヤヘの「受胎告知」の物語が読まれ、その信仰からわれわれもまた主を迎える生活へと導かれるのである。
◇神が人間と共にあろうとされた時、ガリラヤの町ナザレに住む一人の女性マリアを選び、神の子が一人の人間として生まれるという道を取られた。神は人間を十把一からげにまとめて対するというのでなく、一人一人と「我と汝」という人格関係において出会って下さるのである。宇宙も収め切れる神がまことに微細な人間に宿るという形で、われわれと相対する愛の関係に入って下さるのである。「主が共におられる」(28節)とは、このような恵みである。
◇このようにして主イエスの母となったマリアは、「受胎告知」の多くの絵画におけるマリアの表情が驚きからとまどいや受容や喜びと多様であるように、戸惑い恐れたであろうが、それが神の御心と知った時「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と信仰の従順をもって主に従ったのである。神は人間を石ころのように有無を言わさず従わせることはなさらない。人間が自分の心の底から従順に応答し、信じて従うことを期待される。この信仰によってわれわれは神の働きに参与するのである。
◇信仰の決断をしたマリアはエリザベトを訪問し、二人の女性は喜びの出会いを経験する。これは信仰者が世にあっては無理解に耐えて生きるが、礼拝に集う時、信仰を理解し合い、祈り合い、励まし合う仲間と出会い、喜びにあふれる姿と共通している。われわれは信仰によってわが内に主イエスを宿す者たちであり、その意味でマリアとエリザベトの出会いの姿は、教会の原型である。
◇神の恵みを知ったマリアは、神をほめたたえる「マリアの賛歌」〈マグニフィカート)を歌う。「わたしの魂は主をあがめ」の「あがめる」とは「大きくする」という意味である。主イエスは宇宙大の神の命と愛が一人の人間の中に圧縮されてわれわれに出会って下さった姿である。それは巨大な爆発力をもつ愛である。それを知る時われわれは「小さくなられた神」に感謝し自分の生活の中に大きく受けとめ、全世界に広めずにはおれないのである。この感謝にあふれた歌は、若い女性の歌とは思われない様な、世界の変革を告げるものである。それは強きものがくじかれ、弱きものが高められる変革を語っている。これは「共に生きる世界」である。「神共にいます」恵みは、われわれを共生の道へと導く。
「神の言葉が宿る」ヨハネ福音書1:6-14、ヨハネI 2:12-17
大宮 溥 牧師
◇待降節第二主日は、キリストの証人を覚えて洗礼者ヨハネに学び、またキリスト証言としての聖書の意味を心にとめる「聖書日曜日」である。イエス┬疋キリストが世に来られることによって「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)ようになったが「暗闇は光を理解しない」。「言(イエス┬疋キリスト)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1l節)。それ故、これを証し、人々に気付かせる人間が必要なのである。
◇主イエスが来られた時、ベツレヘムでは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2:7)。これは愛を失って他者を閉め出す社会である。主が来て、太陽のように世界を照らしていても、自分の家の戸を閉じていては依然として闇である。心の窓を開いて光を受けよと呼びかける人が必要である。
◇ヨハネの手紙Iは2:12-4で、教会に集う老若男女に向って、長老ヨハネが、今も昔も同じように語ってきた事柄を思い起させようとしている。イエス┬疋キリストが来られることによって、「罪が赦され」「初めから存在なさる方(イエス┬疋キリスト)を知り」「悪い者に打ち勝った」のである。ここに主の光が自分の生活の中に射し込んで来た人の経験が確認されている。
◇その上で長老ヨハネは「世も世にあるものも愛してはいけません」と警告する。「世への愛」は「神への愛」から人々の目をそらせるからである。アウグスティヌスは『神の国』の中で、人間の歴史は「神の国」と「地の国」の対立抗争の歴史であると指摘し、神の国とは「神への愛」に動かされて生きる国であり、地の国とは自己愛(エゴイズム)の国であると説いている。
◇ニグレンは『アガペーとエロース」の中で、一口に「愛」と言っても、種々な愛があり、最も顕著なのはギリシャ思想における代表的な愛を示す「エロース」と、聖書的な愛を示す「アガペー」であると述べている。エロースは自分にとって望ましいものを得ようとする価値追求的な愛である。それに対してアガペーは、自分にとっては価値のない、貧しく低く、自分に背く者をも追い求め、価値があるから愛するのでなく、むしろ愛することによって価値が出てくる、価値創造的な愛である。また自分の欲しいものを奪う愛でなく、自分を与える愛である。イエス┬疋キリストの愛は、罪人のために自分を犠牲にするアガペーの愛であった。クリスマスは、このアガペーに改めて触れ、自らもこのアガペーに生きることによって主を証する時である。
「新しい道」エレミヤ書31:31-34、ヨハネの手紙I2:7-11
大宮 溥 牧師
◇20世紀を締めくくる年のクリスマスにあたり、この世紀をふり返ると、人間がロケットに乗って月にまで出かけるとか、科学技術の進歩によって、未曽有の豊かさを味わったという半面、原子爆弾や環境破壊や人口爆発によって、人間がこれから生き延び得るかという深刻な不安と危機に直面している。光と闇とが対照的に増大した世紀であった。
◇このような世紀に、キリスト教界では聖書の解明が進み、聖書の基本思想として終末論が注目された。聖書はバラ色の進化思想を説くのでなく、この世界が滅亡の危機に直面しており、そこでどう生きるかを問うているのである。その際聖書は、この世界の現実を直視するだけでなく、この世界を造り、導く神を仰いで、そこに希望を見出したのである。
◇このような終末論的な信仰に立って、イエス┬疋キリストの意味を考えると、イエス┬疋キリストの来臨は、神がこの世界を投げ出されるのでなく、世界と人間とを愛し、人間と運命を共にしようと、この世界に来られたことを意味する。十字架は、神の子が人間の滅びを自分が引き受けて、滅びの中に神自らが身を沈めて下さったのである。復活は、神の愛と命が、世界を破壊する力と戦いそれに勝利したことである。イエス┬疋キリストの生涯は、この世の闇の中に光が来、光が闇を払い、愛と命と希望の光を新しくともした出来事であった。
◇ここに神の愛の勝利の道が示されている。そして主イエスがわれわれに命じられたのは「互いに愛し合いなさい」との掟である。これを主イエスは「新しい掟」(ヨハネ13:34)として命じられた。しかしヨハネの手紙では、これは「新しい掟ではなく……古い掟です」(1節)と言う。これは旧約の掟の第一(マルコ12:28-34)であり、人間共通の道である。この道が今日改めて問われている。人間が愛よりも憎しみの中で、自ら傷つき人をも傷つけていることが、最近の多くの事件からもうかがえるのではないであろうか。
◇この古い掟が、「新しい掟」となった。それはこの掟を生きる状況が変わったからである。憎しみと死の世界に、愛の太陽がのぼったのである。「あなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」(マラキ書3:20)。イエス┬疋キリストが宇宙に満つる神の愛を一身に集めて、この世に来、われわれと一対一の交わりを結び、共に歩んで下さるのである。この愛を受ける時、われわれは「兄弟を愛する」(10節)歩みへと押し出されるのである。
「愛を知る」ヨハネ福音書14:15-21、ヨハネの手紙I2:1-6
大宮 溥 牧師
◇教会は神の家族であり、父なる神のもとで、われわれはお互いに兄弟姉妹です。父なる神様はわたしたちに、お互いに愛し合って生きるように教えて下さいました。「互いに愛し合うこと、これかあなたがたの初めから聞いている教えです」(11節)。
◇しかし今の世の中は「愛し合う」よりも「憎み合い」、いじめたり、殺したりする事件がたくさん起っています。それはわたしたちが、自分が愛されているという経験が少なくなっているからです。愛されてはじめて、愛するようになるのです。
◇人の心の中には愛の心と憎しみの心が戦っています。そしてしばしば憎しみの連鎖反応が起ります。その中で人から憎しみをぶっつけられても、それを自分の中でストップさせて、愛を外へ注ぐ人がいれば、その愛の火が人から人へと拡がってゆきます。
◇「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(l6節)。愛の主イエスに対して人々は憎しみをぶっつけ、十字架につけました。愛に憎しみで答えるような人間を、主イエスは報復するのでなく、その人々を受けとめ、受け入れ、愛で包んで下さいました。この愛を知り,この愛を受ける時「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(16節)と、愛に生きるように励まされるのです。
◇先月亡くなった三浦綾子さんが『信徒の友』に連載された『塩狩峠』という小説があります。その主人公のモデルは長野政雄という実在の人物でした。この人は旭川六条教会に所属する鉄道員でした。彼の乗っていた汽車が塩狩峠にさしかかった時、客車が機関車からはずれ、逆方向に暴走し
はじめたのを、その車の前に身を投げて、脱線転覆を未然に防ぎました。彼は仕事に忠実であっただけでなく、仲間に対していつも愛をもって接し、多くの人を育てました。この人の自己犠牲は、イエス┬疋キリフトの愛への応答だったのです。
◇憎しみの石が投げづけられると、それが投げ返されて、玉つき運動のようにみんなを傷つけ、世の中が暗くなります。それと反対に、誰かが愛のボールを投げると、それが連鎖反応を起して、世の中を明るくします。
◇昨日今日と行われているバザーは、台湾大地震、地雷撤去、隠退教職老人ホーム信愛荘、会堂園舎の維持のために捧げらホます。多くの人か愛のささげものをし、多くの人が愛の奉仕をし、それが愛のわざに用いられます。主の愛に応えて励みましょう。
「弁護者キリスト」ヨハネ福音書14:15-21、ヨハネの手紙I2:1-6
大宮 溥 牧師
◇只今幼児洗礼式をとり行い、二人の幼子がキリストに連なる最も新しい若枝として幹につながれた。「かいぬしイエスよ、かいぬしイエスよ、小羊受け入れ、幹なるイエスよ、小枝を生かして、み国に向かって、伸ばしてください」(讃美歌21:68)。少子化対策が講じられる中で、子どもを生んで育てる意味と使命を改めて受け取りなおし、次の世代が歴史の担い手として育ってゆく環境が作られなければならない。教会も「母なる教会」としての存在と使命を自覚して歩みたい。
◇ヨハネは次の世代に「わたしの子たちよ」(1節)と呼びかけている。この「子」は指小辞がつけられ(my Litt1e Children)、愛情のこもった表現である。老人は新しい世代に対して理解や共感を欠きがちであるが、ヨハネは温かな愛にあふれて語りかけている。言い伝えによると使徒ヨハネは晩年エフェソに住んで、礼拝の終りに「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と人々を祝福するのが常であった。人々は彼の溢れる愛を受けて励まされたと言う。ヨハネ文書には、そのようなキリスト教的愛が温かく流れている。
◇ヨハネは人々に「罪を犯さないように」すすめる。「罪」は「神を知る」(4節)ところで強く意識される。現代は神を知らないので罪の自覚もない。それ故十戒の「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽るな」「むさぼるな」という基本が崩れてしまっている。その前提としての「神のみを神とせよ」が冒されているのである、「罪」とは「的はずれ」の生活であり、今日人間が軌道をそれて浮遊するような状態にあることが示されている。
◇神を知り、罪を知る時、われわれは自分の罪に恐れおののく。それに対してヨハネは、イエス┬疋キリストが「弁護者」であり、「罪を償ういけにえ」になってくださったことを告げている(2節)。「弁護者」(バラクレートス)は、ヨハネ福音書では聖霊の働きとして語られているが、聖霊の贈り主であるイエス┬疋キリストの働きである。神と人との問に立つイエス┬疋キリストが、罪を糾弾する検事としてでなく、われわれをとりなす「弁護者」として立って下さるのである。
◇この主のとりなしによって、神に赦され、愛を豊かに受ける時、われわれはその恵みへの応答として、感謝と愛の生活に導かれる。「愛」はヨハネの手紙Iには52回出てくるが、5節はその最初の記述である。「いつもいる」は、ぶどうの幹に枝が「つながる」(ヨハネ15章)と同じ言葉である。
「光の中を歩む」イザヤ書60:1-2、ヨハネI1:5-10
大宮 溥 牧師
◇日本における盲人福祉活動の先駆者であった岩橋武夫氏は、大学在学中に失明し懊悩と絶望に突き落され、自殺をはかるほどの苦しみの中で、ヨハネ福音書9章の「生まれつきの盲人」に対して主イエスが、因果応報的な運命観を否定し、「神の業がこの人に現れるため」(3節)と語られた物語を聞き、闇の世界に輝く光を見た思いで、立ち上ることができた。ここに盲人をも明るく照らす「世の光」が示されている。
◇ヨハネの手紙Iは、冒頭においてイエス┬疋キリストの存在を「命の言」として示しているが、今日の5-10節においては、イエス┬疋キリストの働きを「世の光」と言い表わしている。暗い世界を太陽が明るく照らすように、主イエスがわれわれを闇から光へと導き出して下さるのである。
◇「神は光であり、神には闇が全くない」(5節)。天地創造にあたって神は「光あれ」と語られた(創世記ユ:3)。これは物理的な光であるのみならず、命と愛の霊的な光である。世界のはじめから今日までこの光は変わることなく世界を照らし、われわれを照らしているのである。
◇しかし現実の世界は、雲が太陽の光をさえぎるように、恵みの光がさえぎられて闇がわれわれを覆っている。ヨハネの手紙はキリスト者の生活もこの闇が認められることを指摘する。そこから「神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩む」(6節)という、言葉と生活とが食いちがった偽善的な生き方が生まれてくる。それはわれわれが闇の中に隠れている時にはわからないが、光が射してくると、汚れがあらわになり、影が色濃く認められるのである。
◇人間はそのような自分の姿が暴露されるのを恐れて闇の中に逃げ込もうとする。しかし、大切なことはこの自己分裂したありのままの姿を、包み隠さずに、神の前にもち出し、その罪を告白することである(9-10節)。深層心理学者ユングは、人間は美しい光の部分と恥すかしい陰の部分を持ち、その自己分裂をどう克服して人格の統一を得るのかが課題であると分析している。この自己分裂は自分の努力で克服できるものではなく、そのありのままの姿を神に委ねることによって、神がそれを赦し受け人れて下さることによってのみ可能である。
◇罪を告白して赦されるというのは何か甘い話のように思われるが、実はそのために主イエス┬疋キリストの十字架の死があった。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められる」(7節)のである。主の光を浴び、光を掲げて歩むのである。
「命の川」詩編130、ヨハネ黙示録22:1-7
大宮 溥 牧師
◇阿佐ケ谷教会75年の歴史にかかわる三百名以上の人々と、また2000年の教会の「雲のように多くの」先達と共に、われわれは「聖徒の交わり」の中で、今日の礼拝を守っている。在天の教友の地上における歩みを思い起しつつ、われわれも自分の人生コースを、信仰と希望と愛をもって走りたいものである。
◇ヨハネの黙示録は歴史の将来と終りを一巻の絵巻物のように描き出しているが、特に最後の21-22章は、神の都を美しく描いている。ここでは神の都は、人間がそこに向って出かけてゆく所というよりも、われわれの所に「来る」姿で描かれている(21:10,22:7)。キリストが来て下さり、キリストと共に神の国が来るのである。われわれの人生の終りにおいても、われわれは「マラナ┬疋タ(主よ、来てください)」と主を呼び、それに応えて主が来て下さり、御国に導いて下さるのである。
◇神の都には「水晶のように輝く命の川」(1節)がある。沙漠の民にとってこのイメージは、命と祝福のあふれる場所を示している。われわれの人生は神から出て、神に帰る旅であり、命の泉から流れ出、命の泉に帰るのである。死は命の消滅でなく、命の充満への通過点である。ボンヘッファーは処刑」の日「私にとってこれが最後です。しかしこれが始まりです。わたしたちの勝利は確かです」と語った。われわれの先達もこれを証している。
◇命の川の両岸には「命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そしてその木の葉は諸国の民を治す」(2節)。エデンの園の中央に「命の木」があった。しかしアダムとエバが罪を犯した時神は罪が生きつづけるのを拒んで、彼らを追放した。しかし主イエスが罪を貝賢って下さったことにより、われわれは「命の木」に近づけられ、まことの命を与えられる。「毎日実をみのらせる」木は、地上のように年に一度しか実を得られない状態が変えられることを示す。不毛の人生がないのである。神を知り、神と交わって生きる時、われわれの人生は誰もが実り豊かな、意味ある人生となるのである。
◇「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らす」(5節)。外的な光でなく、内的な霊的な光がわれわれを照らす。現代は外は輝いているが、内的には暗黒である。この世界に神の愛と命が約東されている。
◇このような恵みを約束する神が「見よ、わたしはすぐに来る」(7節)と言われる。われわれはこの主と会う備えをしよう。
「はじめに道があった」マラキ書3:1-3、マルコ福音書1:1-5
棟方信彦先生
◇マルコ福音書の冒頭「神の子イエス┬疋キリストの福音の初め」の「初め」という言葉は、時間的な前後関係を伝えていると共に、物語の始まりを宣言している。「福音」という言葉は、主イエスの名前のようなものとしても使われるし、主イエスがなさったことの内容について語っているとも言える。ここで言う「福音」とは、主イエスの説教の記録であることに留まらず、生きたキリストそのものなのである。
◇2節の言葉は、イザヤ書の言葉のみではなく、旧約聖書に記されている救いの預言、マラキ書3章と出エジプト記の荒野におけるイスラエルを守る神の遣いのイメージが結合されている。イザヤ書からは、神による勝利の希望が、マラキ書からは、終わりの日に備えて悔い改めを迫る神の遣いのイメージが、出エジプト記からは「救い」と「解放」のモチーフが取られている。
◇「福音の初め」は、この旧約のイメージなくしては理解できない。旧約聖書が主イエスに結びつく唯一の道なのである。キリストの新しい時の始まりはゼロからの始まりではなく、旧約の預言の歴史を通して、神から聞かされていた道筋の上にあるのである。
◇最近、仕事の関係で画家の日比野克彦氏と話をする機会が与えられた。その方によると、芸術家というのは、極めてユニークで独創的な発想を大切にするが、芸術活動のプロセスにおいて、偶然というものはないということである。芸術活動というのは、単純な発想の業ではなく、文脈を大切にしつつ、少しそこに自分の個性を出すものなのである。
◇この話を聞いて、私の生き方の中にも、それと似たような点があることに気付かされた。私は御言葉に仕えつつ、企業に貢献している。それが自分に与えられた道であり、個性を生かす道であると思っている。神はご自分を求める人間一一人一人に対して、人生の歩みの中で、様々な仕方で神のことを気付かさせて下さるのである。今歩んでいる道は、自分が今まで歩んできた道と無縁ではない。
◇福音そのものであるイエス┬疋キリストはご自身の生涯を捧げ尽くして、具体的な生き方と歩むべき道を私達に示して下さった。今日のキリスト教の課題の一つは、この福音のダイナミズムを確認することである。
「わたしたちの交わり」ヨハネ福音書1:1-5、ヨハネI1:1-4
大宮 溥 牧師
◇これからヨハネの手紙を学んでゆく。この手紙の一つの特徴は、人生を光と闇の二つの道として描いていることである。「主の光の中を歩もう」という今年度の教会標語を深める意味でも適切であろう。
◇この手紙の冒頭はヨハネ福音書のはじめとよく似ている。両方とも、イエス┬疋キリストは人間の歴史の只中にわれわれの隣人として生まれたが、その奥に永遠の命を宿し、世界の原初の祝福をもち運ばれたと告げている。神は創造のはじめに「光あれ」と語り、命と愛の輝く世界を作られた。しかし人間の罪と世界の混乱によって、現実の世界は闇に覆われている。そして人間は故郷を追われた流浪の民のように、原初の祝福に帰ることを願いつつ、自分ではそこに帰ることができないのである。
◇しかしそのような現実の只中に「初めからあったもの」、すなわち造り主である神の祝福を持った方が来たのである。しかもその方は「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、手で触れたもの」となられた。神が超越的な、人間の手のとどかない存在としてでなく、人間と等身大の存在となり、人間と共に歩むパートナーとなって下さったのである。
◇このイエス┬疋キリストのことを、ヨハネ文書は「言」と呼んでいる。ことばは、人と人をつなぐコミュニケーションの道具である。イエス┬疋キリストは人間と触れ合う神である。それは高き神が身をかがめ、人間と触れて下さる姿である。それによって神とわれわれのコミュニケーションと交わりが成り立つのである。
◇ヨハネの手紙はこの交わりに入るように人々を招くものである。その場合「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス┬疋キリストとの交わりです」(3節)。人間の交わりは、神御自身の内にある聖なる交わりを土台として形づくられるのである。アウグスティヌスは三位一体の神とは、愛する者(父)と愛せられる者(キリスト)と愛そのもの(聖霊)という愛の存在様式である(バルト)と説いた。それ敬神は自分の中に満ち足りた愛を持っている。しかし神は愛の欠乏からでなく、その愛が溢れ出て、自分の外に愛の対象を創造し、愛の交わりを拡げてゆく。こうして、われわれは創造され、愛の交わりに入れられる。この愛を運んで来られるのがキリストである。
◇この愛を受ける時、われわれの交わりは大きな貯水槽から水があふれるように、愛にあふれたものとなる。「わたしたちの交わり」は、そのような神の愛を源として与えられる愛の交わりである。
「私を愛するか」ヨハネ福音書21:15-19
SCF主事 荒谷出先生
◇今日は教会暦で言うと、聖霊降臨節第二一主日であるが、聖霊降臨節は別名「教会の時」とも呼ばれる。この時は特に教会の歩みを覚える季節である。礼拝で用いるリタージカルカラーは緑色で、この色は成長を表わす。今日は、自分の学生キリスト教友愛会での経験をふまえて、教会についてご一緒に考えてみたいと思う。
◇「私を愛するか」という主イエスのペトロに対する問いは、突きつめて言えば、この問いを発する主イエスがどのような方であったのかを問う問いである。今ぺトロの前に立っておられるのは、最も小さい者として人々からも弟子達からも見捨てられ、十字架にかけられ、復活された主イエスである。
◇アメリカのカトリック教会の神学者でヘンリー┬疋ナウエンという人がここの箇所を題材にして小冊子を書いている。その中で、この主イエスの問いは私達の信仰生活の中で中心的な、最も重要な問いであると言っている。受肉し、復活したイエスを私達が本当に見つめているか、小さき者として、人々から見捨てられ、傷つき、病める者として、私達は隣人の中に、この主イエスを見出しているかどうかがここで問われているのである。
◇私が関わっている青年達の中に、家庭崩壊の中に育ち、非常に傷ついた青年がいる。中学、高校と登校拒否をし、最近自殺未遂をした。強制的に病院に入れられ、母親が面会に行くと、それが自分の母親であることを否定し、また、自分は神様は絶対にいないということが分かったと言ったのである。この青年の言葉から一体自分を愛してくれる人間はどこにいるのかという叫びが聞こえてくるのである。彼だけでなく、今多くの青年達が同じような境遇に置かれて、教会に対してそのような問いを発しているのである。彼らの間いは、主イエスがペトロに投けかけた問いと一緒である。
◇今私達の教会の働きが改めて問い直されている。今私達の教会がなすべきことは「私を愛するか」という主イエスの問いかけに応答することであり、そのような問いを投げかける社会に奉仕することである。
◇今教会から学生や青年達が離れていると言われている。そのような中にあって、私達が最初に耳を傾けなければならないのは、「私を愛してくれるのですか」と叫び続ける青年達の声なのである。私達の教会が遣わされている社会の中にあって、そのような人々の声を、私達は受肉したキリストの声として聞き続けて行く者達でありたい。
「良い羊飼い」ヨハネ福音書10:14-18、ヘブライ書13:20-25
大宮 溥 牧師
◇世界聖餐日が米国の諸教会で始まったのは今から60年程前で、世界戦争への動きが急を告げる時であった。世界中が憎しみと敵意を募らせている時、教会は全世界を通じて一つであり、キリストは御自分の身を裂く痛みを忍びつつ、世界の民を一つにされることを思い起し、和解と一致の道を歩もうとしたのである。今日われわれは地球時代に入ったといわれるが、民族間の対立や様々な痛みを担っている。われわれは主にある一致を聖餐によって与えられ、また痛める人々との連帯を強くしたい。
◇今年の新年礼拝以来学んできたヘブライ人への手紙は、最後の祝福の言葉になった。祝福とは、神の恵みが与えられて、命と繁栄の生活が開かれてゆくことである。神は人間を創造された時「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福された(創世記1:28)。またイスラエルの民が約束の地に入ろうとする時、モーセは彼らの前に「祝福と呪い」の道が置かれていると語った(申命記11:26-28)。ヘブライ人への手紙は、キリストの教会はこの神の祝福を受け継ぎ、それによって力を与えられて生きている群であることを告げているのである。キリスト者はそれを当然のこととか、安価なことこ考えてはならない(12:16-17)。それ故最後に、この祝福を確認し、しっかりと受け止めるように語っているのである。
◇この祝福は第一に「わたしたちの主イエス」が「永遠の契約の血による羊の大牧者」であることが告げられる。主イエスは「良い羊飼い」としてわれわれを導いて下さる。彼はまた神と人間を結び合わせる、とりなしの大祭司であるが、そのとりなしは動物犠牲ではなく、御自分を犠牲にするという、生命をかけた救いをなしとげられたのである。ここに羊のために命を捨てる羊飼いの姿がある。
◇第二に「わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神」が告げられる。キリストの救いは過去のことでなく、今も生ける方の生きた恵みのわざである。キリストの復活を「引き上げる」という独得な言葉であらわしているのは、イザヤ書63:11(ギリシャ訳)のモーセの記事を思い起しているからと思われ、モーセが紅海から引き上げられて民の指導者となったように、主イエスは死より引き上げられて、われわれの主となられたのである。
◇この祝福を受けたわれわれの祈りは「栄光が世々限りなくキリストにありますように」である。キリストが太陽のように全世界を照らしておられる。それを、信仰をもって仰ぎ、全生活を通じて証する。