◇サウロが回心に至る出来事の中で最初にしなければならなかったのは、「サウル、サウル」と呼びかける声に「主よ、あなたはどなたですか」(5節)と尋ねることだった。つまり、彼は天からの光に照らされ無力な者とされることによって、ただ主の名を尋ね求めるしかない存在へと変えられたのだ。しかしそれだけでなく、彼は人々に手を引かれなければダマスコに行けなかったし、目が見えず食べも飲みも出来なかった彼は、アナニアによって手を置いて祈られなければ見えるようにならず、洗礼を受けなければ元気を取り戻すことは出来なかった。あの衝撃的な出来事によって、内面的には一瞬にして回心が与えられたかも知れないが、彼が肉体の行動を変えていくには、なお人々の助けが必要だったのだ。
◇アメリカンフットボールでは、司令塔と呼ばれるクォーターバックを守り抜き、前進させるために他の選手は身を挺して相手の前に倒れ込み、何人もの大男たちに押し潰されたり、踏み付けられたりすることを厭わずひたすら動き回る。それを彷彿とさせるかのように、サウロは彼を殺そうとする者たちから「弟子たち」によって助け出され(23節以下)、その回心を信じないキリスト者との関係を「バルナバ」によって取りなされた(26節以下)。また、裏切り者を殺そうと狙うかつての同僚たちから「兄弟たち」によって守られた(29節以下)。
◇O.ブルーダーの『嵐の中の教会』は、ドイツの山深い村の教会に遣わされてきた、若く伝道意欲に燃えた新任牧師の物語である。牧師は暗い時代の到来を感じ取る。教会員の中にナチス党員のリーダー格が存在し、ナチスによる「ドイツ的キリスト教」運動の勢いに乗じて教会を支配しようとしていたのだ。しかし、牧師を始めとする教会員たちの多くはこうした勢力に抵抗し、牧師は礼拝の中でナチスを厳しく断罪する。この物語の中で注目すべきなのは、牧師が窮地に立たされそうになると、すぐさま牧師を守り、支えていく教会員一人一人の働きだ。牧師はこうした助けなしに暗闇の勢力と闘い抜き、正しい福音伝道を貫き通すことは出来なかった。
◇我々は伝道の業にたった一人で取り組むことは出来ない。助け合い支え合う共同体としての教会に、主が御霊を注いでくださることにより初めてそれは可能となる。教会が絶えず御言葉に聞き、その福音によって生かされているという喜びを増し加えられ、外に向けてその喜びを証しする共同体であり続けることを心から願う。