◇主は群衆たちの追求や誤った期待を避ける為にティルスとシドンの地方に退かれた。祈りや黙想の時を過ごす為であったが、ここでも主を必要とする者が待っていた。
◇カナンの女の叫びは、主がどのようなお方か、ある程度知っていたことを示し、それに基づいた信頼があったことを示す。
◇これに対する主の答えは沈黙であり、直接的な宣言による拒絶だった。ご自分の働きがイスラエルの民に限定されていることをはっきりさせている。神の国への道というものは、まず神によって選ばれた契約の民に示されねばならないということだ。
◇それでもこの女性は、自分を犬とされたことに憤るどころか、主に全ての希望を託すかの如く、「主よ、どうかお助けください」と語る。この女性はイスラエルの救いの優先性ということを知っている。しかし「子供たち」がパンを与えられて、そのパンの意味を本当に理解し、眞の意味でパンに与っているかと考えた時、その大多数はそうではなかった。そう考えると、もしかしたらこの食卓は空席だらけだった、閑散とした食卓だったかもしれないのだ。
◇この女性が求めたものは「パン屑」。それによって必要なものが満たされるという信頼に基づき、求めた。主の力、憐れみ、慈しみは大きいものがあると同時に、それに対する信頼がここで示されている。
◇主がこの時代に為したことは、神への信頼を回復させること、つまり神を信頼できない人々を神へと立ち帰らせることであった。そこで主は何をしようとしたのか。信仰を見つけようとし、生み出そうとした。
◇「信仰」というものは、本質的には個々人、一人一人に関わること。主は一人一人、その人の状況と必要とに応じて、接し、導かれる。我々に決定権があるわけではない。あきらめている自分を捨て去って、主が助けて下さると確信すること、神の為さんとすることを絶対的な信頼を以て受け入れるのが信仰である。この信頼が回復された時にこそ、主による「救いの宣言」が為され、「癒し」も起こるのだ。
◇秋田に赴任した神学校の同級生と、「信じる」・「すべてを委ねる」ことについて話すことが多い。すべてを委ねると言いつつ、その実、すべてを委ね切れていないことがある。そのような時にこそ、聖霊の働き、導きを信じ、そこにこそすべてを委ねる。この女性は主に全てを託し、全てを委ねることによって、主に信頼を示したのだ。
◇この女性に為された「救いの宣言」、それは今を生きる我々も与ることが許されている。そのことを感謝を以て覚えたい。