阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年9月)   
◆2005.9.25<青年学生伝道礼拝>

「神に信頼されて神を信じる」

マルコ1:14-15、12:1-12

東京神学大学 中野 実先生

 

◇神を信じる事は、人生を歩むために必要な強固な土台を獲得することである。我々はその強固な土台の上で自由に大胆に歩める。神は「私」を創られた方であり、創ったからには常に私を担い、背負い、間違った道に迷い出る時には私を連れ戻し、救い出してくださる。

◇「信仰の世界」へのジャンプを助けるコツがある。それは聖書の読み方であり、聖書の中に自分自身の姿を発見する事である。そこでマルコ12:1-12に注目したい。これはショッキングな譬え話である。ある人がぶどう園を作り、それを農夫に貸し与えた。もし、主人が神で、農夫が我々人間だとすれば、神様から人間に託されているもの(例えば、人生)がある、というメッセージを読み取れる。しかし、この話はかなり物騒な話でもある。収穫の時に、主人は収穫を受け取るために僕を派遣するが、農夫たちは彼に暴力をふるう。しかし神は忍耐強く僕を派遣し続ける。ある者は殴られ、ある者は殺された。段々読み進むと、ぶどう園の主人(神)に対する疑問が沸いてくる。ぶどう園の主人の行動はかなり変である。彼の行動は馬鹿げている。12:6以下を読むと、ますますそんな感想は強まる。ぶどう園の主人は、愛する息子を派遣する。しかも「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言う。我々は「そんなバカな」と思うのではないか?予想どおり、農夫たちは息子を殺してしまう。

◇しかしこの奇妙なたとえ話に我々の姿を重ね合わせて考えてみるとどうなるか?我々の人生は神から委ねられているものであるにもかかわらず、人生は自分のものだと勘違いしている。神はそんな我々をほうっておかない。御子イエス・キリストを派遣するほどまでに、信頼し続ける。神を無視し続ける我々を信頼し続けることは馬鹿らしいことかもしれない。しかし神は馬鹿馬鹿しい仕方でなおも我々を信頼し続ける。そんな神の熱い御心がイエス・キリストという存在の中に詰まっている。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主のなさったことで、私たちの目には不思議に見える」。自分勝手な農夫たち(我々)を信頼しつづける神の業は不思議である。主イエスの歩みの中に神の不思議な御心を発見する時、我々は圧倒されてしまう。どんなに我々が無視し、反抗したとしても、神は我々を信頼し続ける。我々が神を信じるよりも先に、まず神が我々を信頼して下さっている。そんな神の信頼に支えられて、神を信頼する人生を歩もう。

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◆2005.9.18<聖霊降臨節第十九主日礼拝>

「常識から信頼へ、対決から対話へ」

マタイ福音書21:18-27

牧師 大村  栄

 
◇マタイ21章は棕櫚の主日のエルサレム入城から始まり、12節以下は「宮清めの月曜日」の出来事。神の宮を「強盗の巣にしている」と言って粛清した主は、その晩、慰めの町ベタニアに宿泊される。しかし翌日火曜日には「18:朝早く、都に帰る」。そして都での厳しい「論争の火曜日」が始まるのだが、その先に受難週後半の偉大な御業が実現する。主のみ跡をたどる私たちも、厳しい現実の中へ「帰る」勇気を得たい。

◇「18:都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」。いちじくの木を見つけて近寄ったが、葉だけで実がなかったのでこれを呪う。荒野でサタンの誘惑を退けた主(マタイ4:4)は、期待が外れたと言って八つ当たりをするような方ではないはずだ。宮清めを必要とするほどに不信仰な都を、実のないいちじくの木に象徴させ、これに対する裁きを語っているとも考えられる。

◇だがもっと大事な意味があるだろう。「21:あなたがたも信仰を持ち疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができる」。季節が違うのに実を期待するのは非常識だが、信仰を持って疑わないなら、季節はずれであろうとも、この木は主に喜ばれる実を付けることが出来るのだ。説教題の前半「常識から信頼へ」である。不可能の現実に囲まれ、立ちすくむ私たちにも、主に委ねる時に奇跡が起こる。「21b:この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」。行く手に立ちはだかる山のような困難にも、信じて祈れば、思いにまさる解決が与えられる。祈るとは、要求することでなく、主を信頼して「み心のままに」と委ねきること。神の意志に聞くチャンネルに、受信器のように自らを合わせることである。

◇主の言動に対して「23:何の権威でこのようなことをしているのか」と問いつめてくる人々がいた。自分たちの社会的権威を維持することに熱心な彼らに対して、主は問い返された。「25:ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。この世の権威にしか目が向かない彼らは、「分からない」と答えるしかなく、それによってイエスとの対話を遠ざけ、ここに「論争の火曜日」が始まり、以来現代の私たちにまで続く対決の日々が始まる。

◇説教題の後半「対決から対話へ」を実現する秘訣は、絶対的な「天から」の権威を仰ぐこと。それは貧しい馬小屋に産まれた神の子が、十字架の中に示された真の権威だ。この方を通して神が働きけかけて下さるスペースを、私たちの内に、お互いの間に確保することによって、「対決から対話へ」と変えられる道が開かれるに違いない。前半のごとく、疑わずに「22:信じて祈るならば」、それは実現する。

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◆2005.9.11<聖霊降臨節第十八主日礼拝>

「敬神愛人 ー共存する世界へ」

出エジプト記20:1-17

牧師 大村  栄

◇「十戒」はモーセがシナイ山において、神から預った二枚の石板に刻まれた戒律である。第一の板には「神に対する義務」(宗教性)、第二の板には「隣人に対する義務」(倫理性)に関連する戒めが記されている。2節の序文で「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神」と告げられるが、その直後から「~してはならない」との禁止命令が繰り返され、「解放」と同時に「束縛」があって矛盾を感じる。しかし「~からの自由」はそれだけでは完成せず、続いて「~への自由」という、新たに目標とすべきものが示されなければならないのである。

◇第一戒はヤーウェに対する絶対的な礼拝を命じ、第二戒は偶像礼拝すなわち神を人の思いのままに利用することの禁止である。第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」は神名をまじないのようにして勝手に利用することの禁止。第四戒は安息日の聖別、季節やタブーを越えて七日に一度巡り来る主の日を重んじ、人間の都合でそれを変えてはならない。第五戒「父母を敬え」は、宗教性を語る前半と倫理性を語る後半の橋渡しである。親は子に神の権威を体現するものでなくてはならない。これらを前提に、後半は隣人への義務が語られる。

◇第六戒「殺してはならない」は生命を尊重し、生かし合う世界を築けと命じる。第七戒「姦淫してはならない」は結婚の契約によって成立する家庭の尊重。第八戒「盗んではならない」は所有権の尊重。第九戒「隣人に関して偽証してはならない」は名誉を尊重し、正義を守れと命じる。第十戒「隣人の家を欲してはならない」は貪欲の禁止。必要以上に欲しがるなと命じる。

◇主イエスは最大の掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」の二つを挙げられた(マタイ22:34-40、「敬神愛人」)。これらは十戒の前半と後半を集約したものである。

◇神を敬い、互いを生かし合うべきなのは、決して人間だけではない。「被造物が共存して生きのびるという事柄こそ、優先されなくてはならない。…人間の利益ばかりに執着する者は、被造物全体が、そしてそれと共に、人間もまた、滅亡していくのに手をかすことになる」(イェルク・ツィンク『美しい大地』)。

◇4年前の今日9月11日以降、陰惨な暴力が止まず、大規模自然災害が続発するこの世界では、特定の者たちだけでなくすべての被造物が尊重し合い、みんなで生き延びることを真剣に考えねばならない。そのときにこの「十戒」の教えが強い支えとなるに違いない。


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◆2005.9.4<振起日礼拝>

「運命にまさるもの」

創世記45:1~15

牧師 大村  栄


◇テキストは、かつてイスラエルがエジプトに寄留することになった事情を語る部分で、創世記37章以降に記されるヨセフ物語のピークである。兄たちによって砂漠の隊商に売られ、エジプトでも奴隷として苦労したヨセフ。しかし彼には夢解きという特殊な才能があった。それを活用して中近東一帯を襲う飢饉を予言し、食料の大規模備蓄を進言する。これによってエジプト王の信頼を得て、ついには総理大臣の地位にまで登りつめた。


◇ヨセフの兄たちも、カナンから食料を求めてエジプトにやってきた。ヨセフはそれに気づいて意地悪をしたりするが、4番目の兄ユダの犠牲的精神によってヨセフの心も和らいでいく。彼は20年間積もった思いを涙にして吐き出し、自分の身を明かして兄たちと和解する。ひとりの人の自己犠牲によって、行き詰まりの状況に和解に向けての突破口が開けた。先週バグダッドでシーア派の群衆が大勢死ぬパニック事故が起こった。対立するスンニ派の青年がチグリス川に飛び込んで溺れる人々を助けたが、力尽きて溺死したと言う。このオスマン青年の犠牲が和解の突破口として受け止められることを願う。

◇「4:わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです」と告白するが、もし彼が昔の事件にこだわり、これに続いて恨み言を言ったりすれば真の和解は実現しない。しかしその後の言葉で、彼が主語を「わたし」(被害者)でも「あなたたち」(加害者)でもなく、「神」に置き換えることによって偉大な展開が起こる。「8:わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」。それは、世界的な飢饉にもイスラエル民族が生き残るための神の非常手段だったのだ。そう見ることによってヨセフは、自分の不幸な青春の意味を知り、自分の人生の目的を見出すことができた。

◇そして神によるこの措置は、一民族の存続のためである以上に、神の民イスラエルを通して世界に「7:大いなる救い」を実現するためであった。この時代から1700年後に誕生するイエス・キリストが、世界の救いのため十字架に最大の自己犠牲を実行される。この「大いなる救い」が歴史の彼方に用意されていたのだ。

◇ヨセフが自分の人生の出来事に執着していたら、そこには何の目的も意義も未来も出てこず、あるのは憎しみばかりだったろう。人生の出来事を神の救いの歴史という光に照らして見る時に、私たちには揺るぎない生き甲斐と使命観が与えられる。決して全体の中に個が埋没して良いということではない。「運命」にまさる神の「摂理」を信じることを、私たちの人生観としたいのだ。

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