◇日本人にとって15節は不思議な感じがする。それは「足」にまつわる慣用句は、美的イメージを伴わないからだ。この15節はイザヤ52:7を踏まえているが、パウロはここで一体、何を言いたかったのだろうか。
◇この箇所を読む毎に、映画『炎のランナー』を思い出す。若者が目標を目指し懸命に走る。その足並みが人生の真剣さを示している。パウロも、救いを一途に伝える伝道者の足をイメージしていたのか。
◇16節にはイザヤが直面した伝道の悲しい現実がある。パウロを悲しませたのは、ユダヤ人が福音に聴くことを頑なに拒否していること(1-3節)。新約に於ける「神の義」は「福音」である。神による一方的な愛と裁き、そこから罪の赦しや永遠の命が出てくる。この「神の義」に対する人間の姿勢は一つしかない。ただ信仰のみにより、福音を受け入れることである。
◇ユダヤ人が言う義とは、モーセの律法を守る、その守りきった自分を根拠に、神が自分を認めてくれるだろうというものである。『炎のランナー』の主人公ハロルドの姿と合致する。目に見える目標が達成された途端、空しさを感じ、成功の故に新たな意欲を失ってしまっている姿、それは「やりきった自分を根拠に、神が自分を認めてくれるだろう」という姿そのものだ。
◇戦後を経てきた日本人が最も好きな諺は「人事を尽くして天命を待つ」だと言われる。これも考えてみれば、「頑張った自分を根拠に、神が自分を認めてくれるだろう」という姿勢であるということができる。
◇しかしパウロは「自分の義」・「律法の義」ではなく、キリスト教信仰の自由な世界を語っている。宗教改革者たちの言葉を借りれば、「キリストのみ」「恵みのみ」「信仰のみ」。それだけではない。心と口という、内から外にあふれる讃美。三一の神を呼び求める世界教会が外側に向かって生まれてきているではないか。そこには同じ主がおり、聖霊が働いているではないか。どんな時、地であっても、伝道の「炎のランナー」の原動力はここに由来している。
◇映画のもう一人の主人公エリックは宣教師の子であった。それゆえ、「神の栄光のために走る」。正に伝道者の姿である。 ◇『炎のランナー』のラストシーン、それは一体何を意味するのか。それは人間のものさしで勝敗を測ってはいけないということ、神の御目から見て、この世のものさしから自由にされ、本当に神のために走り尽くした人の足はなんと美しいことか、と。 「出でよ、炎のランナー」。