◇ある人が主イエスに、「17:善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とたずねると、主は、「19:殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という十戒の後半の掟を提示された。十戒は前半で神を愛し、後半は人を愛せよと命ずる。どちらも「愛を生きよ」との命令である。彼はそれに対して、「20:そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と応える。彼は愛を、単なる命じられた掟としてしか捉えていないのだ。
◇主はそんな彼をじっと見つめ、「21:あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」。愛するとは差し出すこと、捧げること。それを実践して富を手放し、天に富を積む者となれ。そして神を中心とする価値観に生きよと招く。すると彼は「22:この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。
◇「25:金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたが、金持ちでなくとも、自分の持ち物に執着する者は救われないとしたら、「26:それでは、だれが救われるのだろうか」。
◇ご自分を「17:善い先生」と呼ぶ彼に対して主は、「18:神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えた。どんな「善いこと」をすればよいのかではなく、唯一の「善い方」である神に信頼することが大事なのだ。「27:人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と主は言われた。だとしたら神は、かたくなな私をも救って下さらないはずはないと信じたい。多くのものを捨てられない自分をそのまま神にゆだね、この私をまるごと赦し、救って下さいと神に信頼する時に初めて、救いの希望が与えられるのだ。
◇あの青年はその後も悲しみを抱え、どうかこの罪深い自分を救って下さいと祈り続けたかも知れない。去っていく彼の背を見てペトロは、「27:わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と誇って言った。自分たちは真っ先に救われる資格があると自負する彼に主は、「31:先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われた。あの悲しみながら去っていった青年を、その「後にいる多くの者」の一人に加えて考えてはいけないだろうか。
◇「よい子になれないわたしでも、神さまは愛してくださる、ってイエスさまのお言葉」(讃美歌21-60)。人間の完全を目指すのでなく、キリストを通して神の完全に信頼し、委ねていく者でありたい。