◇マルコ福音書はクリスマス物語を一切はぶいて、「1:神の子イエス・キリストの福音の初め」と始める。主イエスの遠縁に当たる洗礼者ヨハネは、ヨルダン川のほとりで「4:罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を宣べ伝え、多くの民がこれを受けていた。そこへ登場した主イエスはヨハネの前にひざまずき、彼からバプテスマを受けることを望まれた。しかし、神の子が罪を悔い改める必要があったのだろうか。ヨハネも当然その疑問を持って、マタイ3:14では「それを思いとどまらせよう」とした。しかし主はあくまで一人の無名の庶民として、ヨハネからバプテスマを受けることを望まれる。
◇クリスマスに貧しい馬小屋に生まれた主は、ここでも無力な人間の一人に徹したのだ。その行動が神の御心に適い、「11:あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の承認が与えられた。私たちにおいても洗礼とは、一人の無力な人間として神の前に恐れおののきを持ってひざまずくこと、人間的な数々の経歴や誇りも捨てて、ただの人として神の前に立つこと、もっと言えば罪人の一人として立つこと。そして私はこれから生涯神に信頼し、委ねていきますという信頼の宣言である。
◇むしろこの後に主は40日間荒れ野でサタンの誘惑にあう。私たちも受洗後にこそ様々な試練に遭うが、自分が信頼することを決断し、宣言した神が、常に最善をなして下さることを信じて平安を得ることができる。だから洗礼と試練の順序はこの通りでなくてはならない。
◇「わたしの心に適う者」は、ベツレヘム郊外で羊飼いたちに注がれた天使の讃美を連想させる。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。「御心に適う人」とは特別な能力や資格を持った人のことではなく、あの貧しい羊飼いたちのように、神を信頼するしか他に道はないということに気付いた人たちのことである。そのような人々によって、「地には平和」が実現する。
◇主が「御心に適う人」であることが明らかになったとき、「10:天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って」来た。ここに天国の門が開けた。天が開くのは旧約では終末の出来事とされている。神の意志によって始められたこの世界の歴史は、やがて最後には堕落が克服され、本来の神の意志が成就する。神の国が実現する。
◇そうやって人生と歴史の始めから終わりまで、すべてを支配する神に全身全霊を委ねるしるしとしての洗礼を、キリストと共に受け、キリストによって開かれた天国に帰る。そんな生涯をたどるのがクリスチャンなのである。
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