◇「あんたねぇ、あんたの罪は、どこまで赦されていると思っているんだい?」とぶっきらぼうな言いかたではあるが、ある引退牧師にこう問いかけられたのは私が大学1年のとき。心動かされる質問であった。「すべて赦されてると信じたいです」と言ってはみたものの、確信がなかった。
◇人からゆるされた経験を得ているだろうか。私の場合は小学1年の頃にチューリップを過って折ってしまった時、小学3年の頃に募金活動のための郵便貯金箱を壊してしまった時、どちらも担任の先生はゆるしてくださった。2度ゆるされ、3度目のゆるしは…人を愛せない私を赦してくださる主との出会い。それは中学のときであった。
◇旧約聖書の神の姿をみると、怒りをあらわにし不正を徹底的に裁かれるお方であることがわかる。人間の罪をどこまで赦してくださる神なのか?「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否むものには、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20:5)熱情の神、その裁きは三、四代に止めつつも、その慈しみは千代にまで及ぶと語られている。
◇完全な裁きを行い、完全な赦しを実現するため主イエスキリストが十字架で苦しまれ、捨てられ、裏切られて、死なれた。そして3日目に復活された。この主イエスと共に私たちも古い自分は死に、主イエスと共に新しい命に生かされているのである。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。神は人の罪を徹底的に裁かれるが、しかし人間存在自体は高価で貴いとおっしゃってくださる。主は人が永遠の死に至ることを望まず、生きることを望んでおられる。洗礼とはこの新しい命に生きるためのもの。
◇赦されないということが、何よりも傷つく事柄ではないだろうか。「受け容れられない」「存在が認められていない」。どうしょうもない自分の弱さは自分が一番よくわかっており、しかしそこから抜け出す窓口が見つからない。そんな私たちに「わたしはある」という名の神が存在を示し、わたしたちの存在を確かなものとしてくださる。
◇なぜ、神はそのようなことをなさるのか。「主は、その偉大なみ名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない」(サム上12;22)神はご自身の存在を現すために、人の罪を赦してくださる。
◇私たちの罪はどこまで赦されるのか、「どこまでも」赦される。その慈しみは、計り知ることができないほどに深い。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」(詩103:11)
◇「赦す」という形においてその大いなる「愛」を示してくださる神に出会うとき、私たちのうちに明日を生きる力がわいてくる。この礼拝において主に赦されていることを知る私たちであるが、一方で人にゆるされることを通しても神様の赦しを知るのである。
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