阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年09月)   
2006.09.24 <青年伝道礼拝>

「神は愛なり」

 詩編 103編 
伝道師 堀江 綾子


◇「あんたねぇ、あんたの罪は、どこまで赦されていると思っているんだい?」とぶっきらぼうな言いかたではあるが、ある引退牧師にこう問いかけられたのは私が大学1年のとき。心動かされる質問であった。「すべて赦されてると信じたいです」と言ってはみたものの、確信がなかった。


◇人からゆるされた経験を得ているだろうか。私の場合は小学1年の頃にチューリップを過って折ってしまった時、小学3年の頃に募金活動のための郵便貯金箱を壊してしまった時、どちらも担任の先生はゆるしてくださった。2度ゆるされ、3度目のゆるしは…人を愛せない私を赦してくださる主との出会い。それは中学のときであった。

◇旧約聖書の神の姿をみると、怒りをあらわにし不正を徹底的に裁かれるお方であることがわかる。人間の罪をどこまで赦してくださる神なのか?「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否むものには、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20:5)熱情の神、その裁きは三、四代に止めつつも、その慈しみは千代にまで及ぶと語られている。

◇完全な裁きを行い、完全な赦しを実現するため主イエスキリストが十字架で苦しまれ、捨てられ、裏切られて、死なれた。そして3日目に復活された。この主イエスと共に私たちも古い自分は死に、主イエスと共に新しい命に生かされているのである。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。神は人の罪を徹底的に裁かれるが、しかし人間存在自体は高価で貴いとおっしゃってくださる。主は人が永遠の死に至ることを望まず、生きることを望んでおられる。洗礼とはこの新しい命に生きるためのもの。

◇赦されないということが、何よりも傷つく事柄ではないだろうか。「受け容れられない」「存在が認められていない」。どうしょうもない自分の弱さは自分が一番よくわかっており、しかしそこから抜け出す窓口が見つからない。そんな私たちに「わたしはある」という名の神が存在を示し、わたしたちの存在を確かなものとしてくださる。

◇なぜ、神はそのようなことをなさるのか。「主は、その偉大なみ名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない」(サム上12;22)神はご自身の存在を現すために、人の罪を赦してくださる。

◇私たちの罪はどこまで赦されるのか、「どこまでも」赦される。その慈しみは、計り知ることができないほどに深い。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」(詩103:11)

◇「赦す」という形においてその大いなる「愛」を示してくださる神に出会うとき、私たちのうちに明日を生きる力がわいてくる。この礼拝において主に赦されていることを知る私たちであるが、一方で人にゆるされることを通しても神様の赦しを知るのである。



                                    
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2006.09.17 <聖霊降臨節第十六主日礼拝>

「生涯のささげもの」

マルコ福音書12:38-44
 牧師 大 村  栄

 

◇「長い衣」を着るなどして自らの地位や権威を主張する律法学者に比して、貧しいやもめは、一人神殿で神の前に打ち砕かれた罪人として立ち、ただ神の憐れみにすがろうと、感謝と献身のしるしの献金を捧げている。彼女は「42:レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」。この銅貨1枚は約80円。ほんのわずかの額だが、主はこの行為を高く評価された。それは額の問題ではない。半分を手もとに残すのではなく、「44:自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。


◇使徒言行録5章のアナニヤとサフィラ夫婦は自分たちの資産を売ってその一部を持参し、これが全額ですと偽って使徒たちの前に置いた。それが嘘だと分かり、「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」とペトロに言われてアナニヤは死んでしまった。ルカ14:3以下では、一人の女が石膏の壺に入った高価な「ナルドの香油」を、壺を割って主イエスに注いだ。弟子達はこれをもったいないと非難したが、主は彼女の行為を喜ばれた。

◇つまり金額の多い少ないの問題ではなく、すべてを捧げて手もとに残さないという姿勢が尊いのだ。賽銭箱を前にして銅貨二つをしっかりとにぎりしめたやもめが、そのうちの一つだけではなく両方を捧げて、手を空っぼにしたのだ。捧げ方の問題という以上に、神に対する信仰と信頼の姿勢である。資産や家族、健康など様々な領域で自分の生活の墓盤を確保しておき、それだけでは不安なので、併せて神を信じていこうとするような信じ方ではなく、すべてを捧げ、すべてを委ねて生きるのである。そんな賭けのような生き方を常にしている必要はないが、人生に起こる「この時」と言う時には、自分の退路を断ち、神に委ねきる生き方を選択したい。そのための備えを常に心掛けたいものである。

◇「ルビコン川をわたる」という言葉がある。ローマ時代に軍隊がこの川を渡ってイタリアに戻る時は武装を解かねばならなかった。さもないと反乱と見なされた。紀元前49年、ガリアの長官だったカエサルはその禁を破り「賽(さい)は投げられた」の句を吐いて軍隊を率いて渡河し、かつての盟友ポンペイウスとの戦いに挑む。以後、重大な決断を下して実行することを「ルビコンを渡る」という。後戻りは出来ない。進路はただひとつ。退路も脇道もない。しかし追い詰められてそうするのとは違う。迷う必要がない、明日を思い煩わないということだ。

◇自分の描いてきた計画、持っている貯金、かけてきた保険、そういうもので安定をはかろうとする生活から一歩踏み出して、明日の事を神に委ね、自分の命を神に委ねて生きてみる。主がレプトン銅貨二つを捧げたやもめの態度を通して、弟子たちに教えようとしたのはそういう生き方なのである。「長い衣」で身を飾り、人間の権威を誇ったり競い合ったりする愚かをやめ、この女のように主にすべてを委ねる謙遜こそが信仰による真の勇気なのである。


                                    
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2006.09.10 <礼拝>

「お前を見捨てることができようか」 

  ホセア書11:1-9
 牧師 大 村  栄


◇ホセアは紀元前8世紀北王国イスラエルの「亡国の預言者」。家庭的悲劇の体験を通して神の愛を知らされる。妻ゴメルが夫を捨てて若い愛人と共に蒸発するが、やがて愛人に飽きられ奴隷に売られる。彼女を買い戻すよう命じられたホセアは、その苦しい体験を通して、背信のゴメル同様に神に背き続けるイスラエルを直視させられ、しかもなおこれを受け入れようとする神の痛みの愛の深さを知る。


◇11章はそういう神の愛の本質を語る部分。「1:まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。奴隷の地から救い出し、実子でない者を「わが子とした」。初めから特権的に神の子(民)だったのではない。神の憐れみ(=ヘセド、愛)によって養子とされたのだ。しかし彼らは神の愛を拒絶し、「2:バアル(偶像)に犠牲をささげ、偶像に香をたいた」。

◇「5:彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる」。この時代は北のアッシリアと南のエジプトの2大国の間を、周辺の小国同様イスラエルも右往左往したが、結局721年にアッシリアによって北イスラエルの首都サマリアは陥落した。その原因は「5:彼らが立ち帰ることを拒んだからだ」。神の民でありながら、神を忘れ、苦難の時には神ではなく大国に頼ったことによって、その大国に滅ぼされたのである。

◇私たちはその次に驚くべき言葉を聞く。「8:ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」。かたくなに背く民であっても、これを滅ぼすのはしのびないと神は言われる。ホセアに淫行の妻ゴメルを受け入れることを命じた神は、裁きを思いとどまることの苦しさを預言者に理解させようとした。

◇「8:わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」。“My heart will not let me do it! My love for you is too strong”(TEV)。滅ぼすべきだと理性では考えても心がそうさせない。見捨ててしまうには愛が強すぎる(too strong)。愛するあまりに合理的でなくなってしまう。淫行の妻ゴメルのごとき背信のイスラエルを受け入れる。それをさせる動機がヘセド、憐れみであり愛である。

◇「9:わたしは神であり、人間ではない。…怒りをもって臨みはしない」。人間は怒りに燃える存在だ。攻撃には怒りを持って報復し、それが正義だと主張する。しかしそれでは何も始まらない。怒りでは誰も救えない。対立を克服するには寛容さが必要だと頭では理解しても、実行は困難だ。そういう現実を突破して、頭で理解できなくても実行せずにおれないという事態をもたらすのが憐れみ、愛。神それを十字架において身をもって示されたのである。

◇エフライムは滅びた。しかし神の愛はむしろ地域限定を越えてユダに拡がり、更にキリストにおいて全世界に向かうものとなった。この愛こそが世界を支え、未来を信じる希望を私たちに与える。




                                    
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2006.09.03<振起日礼拝>

「神より離れし神の子ら」

 マルコ福音書12:1~12
 牧師 大村 栄

◇ぶどう園を農夫たちにあずけた主人が、収穫による収益を取り立てるために使いの僕をつかわすが、農夫たちは彼を「3:捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。彼らは地主から借りているぶどう園を、いつかは返さねばならないという契約関係を嫌い、全部自分たちのものにしたいとの欲望にかられた。主人に仕えるのでなく自分が主人になりたくなった。そこで契約を履行するために送られてくる使者を何度でも拒絶する。

◇そこで主人は最後の手段として最愛の息子を送り込む。「6:わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と考えたのだ。しかし農夫たちは「7:これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と考え、「8:息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」。「ぶどう園の外」とは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘。そこに十字架が立てられることを暗示している。「みやこの外なる丘のうえに、主を曳行きしは何のわざぞ。神より離れし神の子らの、幾重と知られぬ罪のきずな」(讃美歌261)。

◇「神より離れ」るとは、神の賜物を何の管理も受けずに独占、私物化したいと願うこと。それが人間の飽くなき欲望の本質だろう。神からの賜物の究極は「いのち」だ。いのちを私物化し独占しようとする欲望が人間をとりこにし、他人のいのちを蹂躙し、支配する悪がはびこっている。自分自身のいのちを独占私物化しようとする時、人は自分が何に属し、どこに向かって生きる者であるかを見失う。そこへ神の呼びかけがある。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43:1、礼拝招詞)。

◇その呼びかけの媒介であった預言者たちを人は無視し続け、最後の手段として送り込まれた独り子を都の外で十字架につけてしまった。普通なら主人が「9:戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与え」て当然だが、主人はそれをする権利を行使しなかった。なぜなら、何物にも束縛されず、自分の環境を独占活用して好きなように生きたいという欲望にかられ、それによって自らを見失ない、他者との比較や競争に身を焦がしている愚かな人間を、神は力によって断罪するのではなく、赦して救うことを決意されたからだ。「ほろびの道より主は我らを、かえして御国へ導きたもう、我らも主イエスを愛しまつりみ業にいそしみ、み旨にそわん」(讃美歌261の4節)。

◇「神より離れし神の子ら」である我らを主のみ手に返して御国へ導くために、「隅の親石」となって下さったキリストの恵みを味わう聖餐にこれからあずかる。この方の身代わりを通して神が私たちに「あなたはわたしのもの」と呼びかけて下さる。その呼びかけに応えるのが洗礼の決断だ。その決断をして呼びかけに心開く者に、この神の救出計画が実現し、「ほろびの道」からの奪回が開始される。





                                    
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