阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年1月)   
◆2005.1.30
「愛はすべてに耐える」(降誕節第六主日礼拝)
イザヤ書5:1-7
マタイ福音書15:21-28
大村 栄 牧師

 

◇「21:ティルスとシドンの地方」で弟子たちに教えておられたとき、現地カナンの女性が飛び込んできて、「22:主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。重い病気だったのだろう。しかし主は「23:何もお答えになら」ず、さらに「24:わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と冷たく退けた。キリストに見る神の愛は、求めれぱいつでも自動的に応えてくれる愛ではない。

◇私たちも愛する人を選ぶことがある。咋日ここで行われた結婚式では、この人だけを愛しますという約束に、見守る人々は清らかな感動を覚えた。「えこひいき」と言えるほどに特定の人に集中する愛は、自分がその対象でなくても人の心を打つ。

◇主イエスにとって、今一番大事なのは、神が選ばれたイスラエルの民だ。神はアブラハム以来、この民を愛してきた。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」(イザヤ書5:7)。しかし現実には不正と堕落が満ちている。主はこの民に悔い改めを促すことがご自分の使命であると自覚していた。

◇そこで「26:子供たち(イスラエル)のパンを取って小犬(異邦人)にやってはいけない」と言われた。すると意外にもカナンの女はそれを理解して、「27:主よ、ごもっともです」と応える。彼女は主イエスのえこひいきに、冷たさではなくむしろ愛の深さを感じとったのだ。自分の命を犠牲にしてまで一つの民族に愛を集中的に注ごうとするその姿に、それが自分に向けられたものでなくても愛の深さを感じて感動し、彼女は主イエスの言葉を受け入れたのだ。

◇拒絶されてもひねくれず、神の前に謙遜になって、さらに彼女は、その深い愛はきっと異邦人の自分にも注がれるに違いないと信じて、「27:しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と機知に富んだ表現で応じる。主の愛に触れて与えられた心の豊かさを感じる。主は彼女の姿に心を動かされて「28:婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と告げ、娘の病気をいやされた。しかしたとえそうならなくても、神の愛に触れる体験を通して私たちは、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Iコリント13:7)ことのできる者に変えられていく。

◇この女の信仰告自から、福音は異邦人世界に拡大していったと言われる。神の愛に信頼する人々の群れ、すなわち教会を媒介として、神の救いは世界へ拡がるのである。

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◆2005.1.23
「廃止ではなく、完成のため」(降誕節第五主日礼拝)
イザヤ書30:18-21
マタイ福音書5:17-20
大村 栄 牧師

 

◇「17:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。主イエスは「十戒」に始まる律法の戒めが形骸化していることを批判し、続く6つの具体例を拳げて律法の本質を論ずる。

◇「21:昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22:しかし、わたしは言っておく。・・・兄弟に『ばか』と言う者は最高法院に引き渡される」。第6戒「殺人の禁止」はいのちの尊重だが、殺さなければ何をしても良いと曲解する者たちに、主は本当の命の尊重とは人格的な尊重がなされることであり、ののしりも戒めに背く行為である、と主は主張される。

◇第7戒「姦淫してはならない」に対しては、「28:みだらな思いて他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と、問題の本質は行為よりも動機にあると告げる。「31:妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」(申命記24章)は本来弱い立場の女性を保護する制度だったが、男の身勝手に解釈されていたのを是正された。「33:誓ったことは、必ず果たせ」(申命記23章)に対して主イエスは、神への誓願は神を利用する傲慢てあると批判し、「34:一切警いを立てはならない」と宣言する。

◇「38:目には目を、歯には歯を」(レピ記24章)は復讐の連鎖に歯止めをかけるための同害報復法だが、主イエスは決して復讐してはならないと告げる。それだけではなく、「39:だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と、積極的な和解の道を指し示す。最後の「43:隣人を愛し、敵を憎め」(レピ記19章)に対しては、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。無理難題を押しつけているのではない。「隣人」と「敵」を区別することの愚かさ、傲慢を言っているのだ。

◇敵味方を特定することも、復讐も人間のすべき事ではない。誓うのも倣慢だし、結婚や男女関係を合理的に処理できると思い上がるのも神に対する冒涜だ。さらには人を殺して良いかどうかなどと考慮すること自体が、命を創られた神への背信だ。律法に生きる生き方の本質は、神への徹底した服従と謙虚にあると主は断言された。

◇そして律法の中心は自発的、積極的な愛にある。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)。それはキリストの生涯に示される神の愛である。真の愛なきところでは、あらゆる戒めが形式化するとの警告を心に刻みたい。

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◆2005.1.16
「最後まで支えられる神」(降誕節第四主日礼拝)
イザヤ書49:14-21
Iコリント書1:1-9
久山 康彦 先生(センテナリー合同メソジスト教会牧師)

◇パウロは問題の多かったコリント教会に対し、どのように考えるべきかを記している。どこにでもあるような問題だが、そこに潜む深い意味を考えさせられる。「一つであること」と「それぞれが違うこと」を扱うからだ。しかしパウロは「キリスト・イエスにあって」と繰り返し記している。それはなぜか。私達を一つにするものは、キリストの愛以外にはないからである。

◇パウロにとって、十字架によって示されたキリストの愛以外に語るべきものはない。それ故、最も大切なこととして語らねばならないのだ。では「キリストの愛」とは何か。すべての基となる愛とは何なのか。

◇千歳船橋教会にいた時、北森嘉蔵先生から、キリストの愛を語る時、「そうではないもの」に目をつけなければならないと聴いた。一つは「キリストの愛は妥協ではない」。妥協というのは相手を自分に合わせ、次第に自分がなくなっていく。それは愛ではない。私達がキリストによって変えられたのであって、キリストが変わったのではない。もう一つは「キリストの愛は打算ではない」。キリストは自分の意思を押し通したわけではなく、十字架に於いて死なれたのだから、打算は成り立たないと自える。

◇では私達が追い求めようとすることは妥協ではないのか。打算ではないのか。人間やコミュニティーの関係に於いても、それがキリストの愛によるものならば、パウロが記すようにキリストにある一致を得ることができ、そうでなければお互いの罪の故に、分裂を招くことになるのだ。

◇ロサンゼルスにいると、キリストの愛が私達の中にあるのか、私達は本当に一つになれるのか、非常に具体的な問題として、いつも問われている。違うものが共存することは難しい。それでもキリストの証人として、キリストにあって一つになるということを諦めるならぱ、教会は存立する意義を失う。何の為に教会はあるのか。それはキリストの弟子を作る為にあるのだ。

◇なぜ神は私達をそのような地に置かれたのか。神が目的をもって私達をこの地に置かれた。そのような信仰的確信なしに、礼拝も伝道もすることはできない。

◇主イエスの愛によって、私達は最後まで支えられる。様々な違いを乗り越え、支えられる。つい私達は「あの人とは違う」と思いがちだ。しかしそれでも愛することをやめてはならない。なぜなら愛は妥協でも打算でもないからだ。私達はキリストの愛が人生を変え、心を変える信仰を失ってはならない。

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◆2005.1.9
「最後の時まで」(降誕節第三主日礼拝)
コヘレトの言葉3:1-11
ルカ福音書2:22-40
北川 善也 神学生

◇「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」というシメオンの言葉は、ヘブライ11:13を思い起こさせる。そこではアブラハム、イサク、ヤコブの信仰について述べられている。彼らは、いずれも神の約束の完成を、はるか遠くにではあるが確かに見た。そして、このシメオンも彼ら同様、神を信じ通し、幻として示された希望を仰ぎ見て生き抜くことが出来たのだ。


◇滝野川教会の大木英夫牧師は、自分が信仰の道を歩み始めた時の出来事を、次のように説明している。軍国主義教育を受けて育った彼は、「それまで日本を束縛していた国家が敗戦で破れ、そこから放り出されなければ、わたしは教会と出会っていなかった」と告白し、これこそが自分にとっての「教会の純粋経験」であったと言う。


◇主イエスは、神の御子としての完全な清さをもって、神と人間との間を仲介してくださった。この清さは、罪に汚れた人間にとっては直視することが出来ないほどまばゆい光を放っていて、我々は何も代償にせずにはこのお方に目を向けることが出来ない。「教会の純粋経験」とは、我々が人生の柱としてしがみついていた価値観を放り出し、主お一人に対して目を向けようと決心した時に初めて与えられるのだ。


◇今日与えられたコヘレトの言葉は、「人間は物事を認識し、時間の流れをつかむ能力を持っているのだから、その能力を自分に与えられた使命とそれを行なう時を知るために使え」と語りかけている。我々は、神によって果たすべき務めを与えられるという仕方で、そのご計画の一端に加えられている。それゆえ、我々は神が与えてくださった務めが何なのか、そして、それを果たす時がいつ訪れるのかを常に求めつつ生きていくしかない。


◇シメオンは、神の約束を受け、信仰を貫き通すことによってその約束の完成を迎えることが出来た。しかも、それは現実的には未完成の状態であるにもかかわらず、神に対する絶対的な信頼ゆえに見ることを赦された完成であった。


◇我々も、主によって日々新しい命を与えられているという確信と、この命が主のために用いられることに最大の喜びを見出す人生を、最後の時まで貫いていきたい。そして、一人一人に対してその時に最もふさわしい御言葉をもって語りかけてくださるお方にすべてを委ね、信仰に基づく大きな希望を抱いてこの新しい一年も歩みたいと思う。

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◆2005.1.2 (新年礼拝)
「わが身にさちのあらずとも」
エレミヤ書31:15-7
マタイ福音書2:13-23
牧師大村栄 
◇へロデ王による嬰児虐殺と、聖家族の逃避と帰国という悲惨な場面。この部分の文体的特徴の一つは、これらが旧約聖書の預言の実現であったと繰り返し告げられていること。もう一つは夢で天使に「起きて~しなさい」と命じられると、これに素直に従ったというヨセフの行勤パターン。繰り返される彼の素直さが印象的てある。それと対比されるのはへロデ王だ。占星術の学者達が、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を拝みにやって来た時、彼は不安を抱き、病的なほどの猜疑心から、「ぺツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。

◇ヨセフにも違和感はあった。いいなづけのマリアが身ごもった時からそれはあった。今度は赤ん坊と若い妻を連れて、遠いエジプトまで逃げよと言う。何の保障がなくても、彼は不安を不安として抱えたままで、立って従う。信仰による深い信頼と従順がこれを可能にした。「木に竹を接ぐ」ような事柄だが、自分が生きるのでなく、キリストという異質なものをいかすためにヨセフは身を引いた。しかしそれによって自分を最大限に活用し、燃焼しきったのだ。

◇武士道という台木にキリスト教が接ぎ木され、木と竹のように異質な両者が合体して、双方を生かす新しい「日本的キリスト教」の精神が構築された。評論『内村鑑三』の著者新保祐司氏が、講演「内村鑑三 - 武士道と基督教の中でそう語った(2000年12月)。ヨセフの態度がこれに等しい。「人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見出すのです」(アッシジのフランチェスコの祈りより)。自分を捨てるとは抹殺することではない。自分自身が神の支配のもとにあることを信じて、委ねていくのだ。それによって最も正しく自分を見出し、生かすことが出来る。

◇旧約の預言の成就が続くというもう一つの特徴が示すのは、主イエスにおいて起こることはすべて、神があらかじめ決意しておられたという事実。そして私たちも主イエスと共にある限り、神が計画し、約束された以外のことは起こらない。ヘロデの暴力のような悲劇が起こっても、それもエレミヤ書の実現であると言われるように、その背後に神の支配は失われていない。

◇不安を抱えたままの新しい出発だが、「見よ、新しいことをわたしは行う。今やそれは芽生えている」(イザヤ書43:19)「父のみ神よ、この年も御業のために捧くれば、わが身に幸のあらずとも、常にあらわさんみ栄を」(讃美歌413番)。


                                    
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