◇「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」というシメオンの言葉は、ヘブライ11:13を思い起こさせる。そこではアブラハム、イサク、ヤコブの信仰について述べられている。彼らは、いずれも神の約束の完成を、はるか遠くにではあるが確かに見た。そして、このシメオンも彼ら同様、神を信じ通し、幻として示された希望を仰ぎ見て生き抜くことが出来たのだ。
◇滝野川教会の大木英夫牧師は、自分が信仰の道を歩み始めた時の出来事を、次のように説明している。軍国主義教育を受けて育った彼は、「それまで日本を束縛していた国家が敗戦で破れ、そこから放り出されなければ、わたしは教会と出会っていなかった」と告白し、これこそが自分にとっての「教会の純粋経験」であったと言う。
◇主イエスは、神の御子としての完全な清さをもって、神と人間との間を仲介してくださった。この清さは、罪に汚れた人間にとっては直視することが出来ないほどまばゆい光を放っていて、我々は何も代償にせずにはこのお方に目を向けることが出来ない。「教会の純粋経験」とは、我々が人生の柱としてしがみついていた価値観を放り出し、主お一人に対して目を向けようと決心した時に初めて与えられるのだ。
◇今日与えられたコヘレトの言葉は、「人間は物事を認識し、時間の流れをつかむ能力を持っているのだから、その能力を自分に与えられた使命とそれを行なう時を知るために使え」と語りかけている。我々は、神によって果たすべき務めを与えられるという仕方で、そのご計画の一端に加えられている。それゆえ、我々は神が与えてくださった務めが何なのか、そして、それを果たす時がいつ訪れるのかを常に求めつつ生きていくしかない。
◇シメオンは、神の約束を受け、信仰を貫き通すことによってその約束の完成を迎えることが出来た。しかも、それは現実的には未完成の状態であるにもかかわらず、神に対する絶対的な信頼ゆえに見ることを赦された完成であった。
◇我々も、主によって日々新しい命を与えられているという確信と、この命が主のために用いられることに最大の喜びを見出す人生を、最後の時まで貫いていきたい。そして、一人一人に対してその時に最もふさわしい御言葉をもって語りかけてくださるお方にすべてを委ね、信仰に基づく大きな希望を抱いてこの新しい一年も歩みたいと思う。
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