阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年2月) |
◆2005.2.27 |
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「悪魔と呼ばれた男」<受難節第三主日礼拝> |
ヨブ記1:1-12
マタイ福音書16:13~28 |
牧師 大村 栄 |
◇シモン・ペトロが主イエスに対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのを主は評価して、「わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる」と言われた。ペトロ自身の上にでなく、彼の口にした信仰告白の上に教会が建つのだ。そして「わたしはあなた(信仰告白に立つ教会)に天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。天国の扉に関する全権を託されている教会は、ここへの道を宣べ伝えることに怠惰であってはならない。
◇後半で、主イエスが受難予告をされると、ペトロが血相を変えて言った、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。しかしそれに対して、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と激しく叱られねばならなかった。最大級の賛辞を受けた同じ人物が、すぐ直後に「サタン=悪魔」と呼ばれる。順調なときには立派な信仰告白をするけれど、我が身に危機が迫ると転向してしまう。信仰告白が実質化していないのだ。それでは何の力にも平安にもならないだろう。
◇ヨブ記に登場するサタンは、地上にヨブほど「無垢な正しい人」はいまいと言う神に、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」と懐疑的な反論を展開する。「サタン」と呼ばれたペトロにも、これと同じく自分の利益のためにキリストに従うという打算的な要素があったのだ。「キリストの愛は『妥協』ではなく『打算』でもない」(久山康彦牧師が北森嘉蔵先生から教えられた言葉)。打算の究極は自己実現。しかしキリストの愛は自分を十字架で滅ぼすのだから打算ではありえない。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。「自分を捨てる」とは打算や願望、野心を捨て、神から課せられる十字架、すなわち人生の使命を生きることである。
◇ペトロは三度もイエスを否んだ。自分を捨てずに守って、イエスを捨てたのだ。こんな失敗を繰り返したペトロだが、それでも「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた主の宣言は撤回されなかった。その後の彼は、奴隷階級の人々に福音を宣べ伝え、最後はネロ帝の迫害の中で逆さ十字架によって殉教したと言われる。「サタン」と呼ばれ、一時は悪魔の誘惑に屈したかに見えたペトロだが、自力ではなく、主の忍耐と十字架の贖いによって、サタンを屈服させることができたのだ。
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◆2005.2.20 |
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「決して滅びず、決して奪われず」<受難節第二主日礼拝> |
ヨプ記27:1-10
ヨハネ福音書10:22-39 |
伝道師 川俣 茂 |
◇神殿の回廊を歩いていた主イエスは、ユダヤ人たちに取り囲まれて詰問された。彼らは主の教えが続けられたならば、自分たちの宗教(神殿)も国民も滅ぽされてしまうと考えていたのかもしれない。
◇基本的な問題は、主が救い主か否かである。しかしそれは主に属する「羊」ならば悟ることができるという。ユダヤ人たちはそこから程遠い存在だったといえる。
◇主はご自身が救い主だとはユダヤ人にははっきりとは語っていなかった。主の為した業は父の名によって為されたものであり、神を示すものであった。その業を見、言葉を聴いていれば信じることができた。本来ならば、それが彼らの問に対する答となっていたはずである。しかし業が生きた証しをしているにもかかわらず、彼らは気づかなかった。不信仰そのものであった。彼らは「わたしの羊ではないからである」。
◇主が羊に与える「永遠の命」とは、救い主が与えるものであり、滅んでしまうことはない。我々の羊飼いは父なる神から与えられた全能の力を持っているが故に、従う羊には何ら恐るべき事はない。羊飼いである主はその群れを最後まで世話して下さる。
◇しかしユダヤ人たちは主の言栗・行動を「神を冒涜するもの」とみなし、自らの手で裁きを実行しようとした。それは律法を忠実に実行しようとしたものであった。
◇これに対し、主は逃げることもせず、多くの善い業を行ってきたことを語る。その善い業は「父が与えてくださった」。主は一人で行動しているのではなく、父なる神と共に行動していたのだ。
◇主イエスはユダヤ人たちに、自分が行う業を信じるようにと語る。それは彼らに「本当に重要なもの(こと)は何か」ということを知らしめる為であると同時に、知り、悟る状態に永遠にとどまり続けてほしいという思いがあるといえる。
◇結局、彼らは石を投げることはなかった。主は神の力強い御手に守られた。彼らは本来、神の国から遠い存在ではなかった。もし彼らが主の言葉を受け入れていたならぱ、同じ羊として加えられていたはずなのに。
◇28・29節の主の断言は我々に与えられた救いに確信を持てと言っているようだ。我々が神の手中にある以上、神の力と支配は世々限りなくあり、救いは確実なものであると語っていると同時に、約束して下さっている。神が信仰者を守り給うのであるなら、その人々は永遠に救われ、またそれを保証され、誰もその人々を奪い取ることはできないのだ。
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◆2005.2.13 |
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「安心しなさい。わたしだ」<創立81周年記念礼拝> |
イザヤ書43:1-5a
マタイ福音書14:22-36 |
大村 栄 牧師 |
◇創立80周年の一年間、教会標語「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6:8)の派遣の言葉が、いつも通奏低音のように響いていた。派遣には疑いが忍び寄る。疑う(ディスタゾー)は、心が二つに割れること。湖上を歩くキリストを見て、ペトロも水の上を歩き出したが怖くなって沈みかけた。すると「31:イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」
◇一途にキリストを見つめ、信じて歩き出した時には、波立つ水の上も歩けた。しかし現実に目が向いて疑い、心が割れた時に歩けなくなった。疑いは私たちの歩みを妨げるものである。信仰は荒波の上を歩く原動力だが、自分に力があるのではない。主イエスにその力があると信じること。ペトロに先だって、まず主ご自身が高ぶる波を踏みつけられた。主は人生にわき上がるすべての困難を、足の下に踏みつける。この方に従う私たちは何を恐れよう。
◇キリストを差し出して下さった神は、「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぷ」と言われる。なぜなら「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛」するから(イザヤ書43:1、4)。阿佐ヶ谷教会は81年間、世界を生かすこの神の愛と恵みを語り継いできた。そしてこれからもその業に用いられる。
◇このような光栄ある使命に用いられる教会は、それなりの責任や義務を負う。「22:イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」た。教会というこの舟には、ある種の束縛があり制限がある。
◇「信徒の友」40周年感謝会が昨日ここで行われ、小塩節氏の講演「天と地のひびき - 神を賛美し人の心を生き返らせるために」を聞き、鈴木雅明氏によるパッハのオルガン曲演奏を聴いた。バッハにとっての音楽は、「強いられた恩寵」であったと間いた。彼は生活のために、町の教会の地味な奏楽者に終始せざるを得なかったが、その束縛と義務の中から産み出された音楽は、人類の宝と呼べるものとなった。
◇私たちも、最初は喜び勇んで乗り込んだ舟だが、「強いて」乗せられていると感じる時もある。しかしここで義務や責任を果たす中から、バッハのごとく「神を賛美し人の心を生き返らせる」新しい使命を生きていくのである。押し寄せる疑いの波に沈みそうになる時にも、主イエスが近寄って下さり、「27:安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われる。なぜなら、「わたしはあなたを愛する」から。
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◆2005.2.6 |
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「イエスのまなざし」(降誕節第七主日礼拝) |
申命記7:6-11
マタイ福音書4:18-25 |
大村 栄 牧師 |
◇ガリラヤ湖畔で主イエスは「18:シモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった」。漁師たちは日常生活のただ中で、主イエスに見つめられ、呼びかけられて従った。「ああ主のひとみ、まなざしよ」。私たちも、様々な課題や重荷を抱えた日常生活のただ中で、主のまなざしを受けて、ここで、このままで私を用いようとされる主の招きに気づく。
◇生まれつきの盲目という障害は、「神の業がこの人に現れるため」(ヨハネ9:3)との意味がある、と主は言われた。あらゆる人において、様々な苦難も含めて、そこに「神の業」を現すという<命の課題>がある。世界のすべての人々に、イエスのまなざしは注がれており、それに気付いた人は、自分に神から託されている<命の課題>を自覚して歩み出すに違いない。そのまなざしを宣べ伝えるのが教会の伝道である。
◇その作業への最初の招きの言葉が、「19:わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。彼らが漁をしていた「湖」は「海」とも呼ばれ、怪物レビヤタンが住んで人間を脅かすと言われた。様々な悪魔的な力に悩む人々を、被造物の原点に立ち返らせ、自由へと解放するのが「人間をとる漁師」の仕事である。23節以下で行われる「いやし」は、単なる病いの治療ではなく、悪魔的な力にとりつかれて立ちすくむ者を、福音によって<命の課題>を生きる者に変える奉仕なのである。
◇この奉仕に彼らが選ばれた理由は分からない。神の召しはいつも一方的だ。かつてイスラエルが神に選ばれたのは、「ただ、あなたに対する主の愛のゆえ」(申命記7:8)であったように、人間の資質や能力とは関係なく、神が自由に選ばれる。だから私たちは、自分が召しにふさわしいか否かを検討する必要はない。主が自ら「神の業」を現そうとしておられるのだから、そのために必要なものは必ず、神が用意して下さる。能力の有無を心配するより、身軽に従うことが肝要だ。
◇「20:二人はすぐに網を捨てて従った」。人生は主に従う旅だ。主の召しに応えて、捨てるべきものを捨てて「すぐに」従おう。若者はまだ時間があると、応答を先延ばしにする(モラトリアム)。老人はこれまでやって来た応答の仕方を変えられず、自動的に繰り返すことで新たな応答を怠る。「イエスのまなざし」に出会った者は、それぞれに、「今、見つめられている」、「今、呼ばれている」との自覚を持つ者とされる。あるがままで「神の業を現す」器として自らを捧げていきたい
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