◇主イエスは十字架への道へと踏み出す前に「高い山」に登り、この道が本当に神のみ旨なのかを問うた。すると主の姿は変貌して輝き、両脇にモーセとエリヤが立った。これは主の歩む道が神の計画であることを示す。M・L・キング牧師が1968年4月4日に暗殺される前夜、教会で語った説教が「私は山に登った」。「そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私はみなさんと一緒にそこには行けないかもしれない。しかし今夜これだけは知って頂きたい。すなわち私たちは一つの民として、その約束の地に至ることができるということである」。
◇「高い山」はそこから四方を見渡し、進むべき道を見定めた上で、降りてきて、更なる旅を続けるための場所である。キング牧師がそこから「約束の地」を見たように、モーセがピスガの頂で約束の地カナンを見渡したように、主イエスもしっかりと進めべき道を見定められた。弟子たちには、それが栄光に輝く道にしか見えなかった。だから記念に「ここに仮小屋を三つ建てましょう」などと言う。しかし主の目には、その道の途中に十字架の影が写っていた。
◇だから下山の途中で言われた。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」。主イエスがメシア(救世主)としての使命を最終的に全うするのは、十字架と復活においてである。病人を癒したり、嵐を沈めたり、5000人に食料を与えたりという奇跡は救世主の本質ではない。真の救いは十字架と復活によってのみ実現した。それを無視した信仰はキリスト教ではないし、福音ではない。
◇内村鑑三はキリスト教的な思想や活動の氾濫に対し、「我等は基督教を称ぶに新しき名を以てするの欲求を感ずる、而して余は此欲求に応ぜんが為に十字架教なる名を提供する」(1921・大正10)と語った。彼の社会的関心が低かった訳ではない。日本人でアメリカの人種差別の悪を最初に批判的に叙述したのも内村である。しかし彼は社会と人間の問題を最終的に克服するのは、十字架と復活の福音に依ると信じたのだ。
◇神と人との関係を「11:元どおりにする」ため十字架についた主イエスによる和解こそが世界の希望だ。「13:洗礼者ヨハネ」もキング牧師もそのことを語って拒絶され、殺された。しかしその信仰が世界を変えた。
◇私たちも主イエスにならって、高い山で問い、み旨に従う歩みを整えたい。高い山に登ることは、祈りであり、礼拝に連なることである。ここから私たちは「約束の地」への旅を、「一つの民」となって進む。
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