◇「先生、しるしを見せてください」(38)と乞う律法学者らは、主イエスに関心は抱きつつも、真実な出会いを避けて媒介(しるし)を求めている。納得できる保証や媒介を間に置けたら、そのとき主イエスを認知しようとしている。主体的な出会いを避けて、保証を媒介にしてイエスを見ようとする態度は消極的であり、不誠実であると言わざるを得ない。主はこれを見抜き、彼らに「しるし」を見せることを拒否する。
◇しかしあえて「しるし」と言うなら、旧約聖書に「預言者ヨナ」のしるしが既にある。ヨナの告げる神の言葉を、厳しい警告として聞いてニネベの人々が悔い改めた。もう一つのしるしは、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た南の国の女王」。ソロモンに知恵を語らせる神を称えたシェバの女王(列王記上10:1)である。
◇主イエスは「ヨナにまさるもの」であり「ソロモンにまさるもの」であるのに、人々が主イエスから直接神の言葉を聞き取ろうとしないなら、彼らは「よこしまで神に背いた時代の者たち」(38)と呼ばれ、二ネベの人々やシェバの女王が「裁きの時」に「彼らを罪に定めるであろう」(41,42)。
◇彼らが求めた「しるし」は信じるための媒介だったが、人は信じないための媒介を自ら設定してしまうこともある。「これがあるから信じない」と言って、自分と真理との間に距離を置こうとする。しかしそれは、信じないための言い訳でしかない。復活の主はトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と言われた。多くの人にその「幸い」を知ってもらいたい。
◇「ヨナのしるし」のもう一つは、ヨナが魚の中に三日間いたことと、主イエスが三日間陰府にいたこととの類似だ。そこは人間の手だての絶え果てた場所、希望を持ち得ない、絶望のどん底である。しかしそこにも主イエスを通して神が直接触れて下さった。「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43:5)の実現である。
◇私たちは行き先の定かでない人生航路にさまよっている。だから先の見通しを求め、安定を求め、安全の保証を探し求める。しかしそれは、「しるしを見せてください」と求めた律法学者たちと変わらない。たとえ見通しの利かない人生でも、そこには三日間を陰府に過ごし、三日目に復活された主イエスが、そのキリストを賜るほどに世を愛された神が共にいて下さる。聖書に証しされた最大の「しるし」であるキリストのほかに、しるしを求める必要はない。
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