阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年4月)   
◆2005.4.24
「神に至る道」<復活節第五主日礼拝>

棟方 信彦 先生

ヨハネ福音書14:1-11

◇本日は「労働聖日」である。元来プロテスタントの勤労観は万人祭司の理解が基本にある。全ての労働が神の召しであり、人間は生涯を通じて持続的成長を目指しながら神の召しに応える自覚が求められる。

◇不安に陥っている弟子に対して、イエスが「神を信じ」、「わたしをも信じなさい」と励ましを与えられる。不安の原因は、裏切りやペトロの否認、そして何よりもイエスの訣別であろう。孤立無援の弟子たちにはこの世の勢力からの迫害の危険も有り得た。この世に残される弟子に天国の約束が示される。天国は死のない世界、救いの情景である。そこに弟子の場が用意されている。イエスご自身が先に行って場所を用意される。そして再び戻られ弟子を一緒に連れて行って下さる。最も近く仕え従い、その不思議な業とメッセージに誰よりも多く接 してきた弟子ならば、当然イエスの行かれるところを理解するはずとイエスが確信を持って宣言される。

◇イエスの問い掛けに対して、2人の弟子が愚問をぶつける。トマスはイエスの十字架の傷の証拠を求めた弟子であるが、イエスの歩みの目的地を確かめようとする。これは人間の避けがたい性向でもある。人間のもてる力全てが許されても、正され清められる必要がある。

◇イエスは「道」、「真理」、「命」であると自己証言され、神へ至る道であることを明示される。「真理」と「命」は神の性質そのものであり、この宣言に直面するものはイエスが誰であるかに応える決断に迫られる。更にフィリポの愚問が続くが、イエスは一貫して神とご自身との一体性を強調される。イエスにおいて神から遣わされた言葉が受肉したからこそ、イエスはこの世において神に至る唯一の道である。イエスは自分の先在の神の場、人間の目指すべき目的地を知るから人間をその場に導くことが出来る。

◇改めて「道」の意味へと誘われる。道はそこを通らなければ目的地に着けない。道は未知への通路であり、歩む者に緊張と畏怖の思いを与える。またヘブルの語源には歩む者に踏みつけられて出来る道のイメージがある。イエスは宣教の歩みで弟子たちの道となって導き続けたが、弟子たちはイエスが示す目的地を知りえずに、不安のうちにイエスを踏みつけにしている。わたしたちも主イエスに躓きながら多くの過ちと弱さでイエスという道を踏みつけにしていないだろうか?それでも神の愛の許しにより、イエスの励ましに応えて完全を目指して持続的成長(ウェスレー)の歩みを生涯続けたい。  

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◆2005.4.17

「教会を再建する」<復活節第四主日礼拝>

ネヘミヤ記2:1-8
第1コリント12:3-13

大村 栄 牧師

◇バビロンの捕囚民の中に育ち、解放後もペルシアの王宮に仕えていたネヘミヤは、ある日アルタクセルクセス王に、祖国への帰還とエルサレム再建を願い出る。王はこれを許可し、帰国と再建のために様々な配慮をしてくれる。計画の開始におけるこの祝福の背後には、ネヘミヤの主に対するあつき<祈り>があった(1:5-11)。彼の大事業は、神を信じてすがる祈りから始まり、この祈りを土台にして実現したのだ。

◇また<忍耐>があった。故郷の荒廃の報告を受けて嘆き、彼が主に祈ったのは「キスレウの月」1月のこと。しかし王に申し出た「ニサンの月」は4月。その間彼はじっと耐えて時を待った。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(詩編126:5)のを、信じて待つ心を持ちたい。さらにネヘミヤはエルサレムを「先祖の墓のある町」と呼んで、異教徒である王の理解を得た。ネヘミヤのそんな<知恵>も功を奏して、神の都への旅が実現した。

◇故郷に着いてすぐ、彼は反対者の妨害を避けて深夜に実態調査を行い、同胞に呼びかける。「17:御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか」。私たちにとってのエルサレム、すなわち教会は、単なる集会所ではなく、私たちの信仰を形に表したもの。独り子を賜うほどに世を愛された神の愛を分かち合い、宣べ伝える媒介。独り子の十字架と復活を通して開かれた天国への道筋を示す場所。そのように私たちのいのちの意味と目的、更に行き先を指し示す教会が荒れていたとしたら、すぐに再建に取りかかるのが私たちの務めだ。

◇荒れていたら再建すべきなのは、教会そのものだけではなく、ここで礼拝される神の愛の対象であるすべての人間だ。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリ3:16)。これが損なわれ、汚されている時、神は自らが辱められたと感じ、深く悲しまれ、これを再建するために努力される。再建事業の中心に立つのは神ご自身。私たちは「その僕」だ。

◇「20:天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する」。教会を建て直し、教会が宣べ伝える神の愛の対象であるすべての人(自分自身を含む)を、本来の姿に建て直す神による再建工事に、祈りと忍耐をもって、それによる知恵を求めつつ参加してまいりたい。

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◆2005.4.10

「見通しが立たなくても」<復活節第三主日礼拝>

列王記上10:1~9 

 マタイ福音書12:38~42

大村 栄 牧師


◇「先生、しるしを見せてください」(38)と乞う律法学者らは、主イエスに関心は抱きつつも、真実な出会いを避けて媒介(しるし)を求めている。納得できる保証や媒介を間に置けたら、そのとき主イエスを認知しようとしている。主体的な出会いを避けて、保証を媒介にしてイエスを見ようとする態度は消極的であり、不誠実であると言わざるを得ない。主はこれを見抜き、彼らに「しるし」を見せることを拒否する。

◇しかしあえて「しるし」と言うなら、旧約聖書に「預言者ヨナ」のしるしが既にある。ヨナの告げる神の言葉を、厳しい警告として聞いてニネベの人々が悔い改めた。もう一つのしるしは、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た南の国の女王」。ソロモンに知恵を語らせる神を称えたシェバの女王(列王記上10:1)である。

◇主イエスは「ヨナにまさるもの」であり「ソロモンにまさるもの」であるのに、人々が主イエスから直接神の言葉を聞き取ろうとしないなら、彼らは「よこしまで神に背いた時代の者たち」(38)と呼ばれ、二ネベの人々やシェバの女王が「裁きの時」に「彼らを罪に定めるであろう」(41,42)。

◇彼らが求めた「しるし」は信じるための媒介だったが、人は信じないための媒介を自ら設定してしまうこともある。「これがあるから信じない」と言って、自分と真理との間に距離を置こうとする。しかしそれは、信じないための言い訳でしかない。復活の主はトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と言われた。多くの人にその「幸い」を知ってもらいたい。

◇「ヨナのしるし」のもう一つは、ヨナが魚の中に三日間いたことと、主イエスが三日間陰府にいたこととの類似だ。そこは人間の手だての絶え果てた場所、希望を持ち得ない、絶望のどん底である。しかしそこにも主イエスを通して神が直接触れて下さった。「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43:5)の実現である。

◇私たちは行き先の定かでない人生航路にさまよっている。だから先の見通しを求め、安定を求め、安全の保証を探し求める。しかしそれは、「しるしを見せてください」と求めた律法学者たちと変わらない。たとえ見通しの利かない人生でも、そこには三日間を陰府に過ごし、三日目に復活された主イエスが、そのキリストを賜るほどに世を愛された神が共にいて下さる。聖書に証しされた最大の「しるし」であるキリストのほかに、しるしを求める必要はない。

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◆2005.4.3
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」-2005年度教会標語-

イザヤ書43:1~7,16~21

大村 栄 牧師


◇イザヤ書43章は紀元前450年頃、捕囚の地バビロンで書かれた第二イザヤ(40~55章)に属する。42:18から43:7までが一つの段落で、小見出しは「捕囚の解放」。第二イザヤが語った預言の中心テーマである。内容は三つの部分に分けられる。第一は「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」(42:18)。神に選ばれた民でありながら、神の声に聞かないイスラエルのかたくなさ、愚鈍さを言う。

◇その結果第二の段階で、「この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている」(42:22)。バビロン捕囚である。祈祷会で読んできた列王記上下は、神の審きによって捕囚を体験したイスラエルの不信仰の歴史を描き、徹底した悔い改めを残りの民に訴えている。イザヤ書もそれと同じ厳しい口調である。

◇そして今日の43章前半が第三段階だが、ここには過去の罪を責めるだけでなく、さらに大きな恵みが告げられている。不信仰を怒られた神は、それにも関わらず、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(43:1)とイスラエルに呼びかけて下さる。無知で頑固な民ゆえに懲らしめたが、それでも神にとっては愛するわが子。名を呼んで「恐れるな」と呼びかける。

◇「あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」。多くの犠牲を払ってでもあなたと共にいる、そこまで言われる理由は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛」するから。それ以上の理由はない。本当の愛に理由はないのだ。私たちは昔から今に至るまで、その神の恵みの中で生かされてきた。しかし「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」(18節)。

◇過去を思いめぐらすだけなら、それは真に歴史を担うことにはならない。今日発行の『阿佐ヶ谷教会80年史』序文に書いた。「歴史とは、単に出来事や証言を記録することではない。それらの根底を支えるものを指し示し、これを次の世代に伝承すること。そして伝承の場となる共同体を形成していくことであると考える」。(4頁)

◇教会の歴史を支えてきたものは、「あなたはわたしのものだ」と言って下さる神がそれゆえに私たちを赦すと言い、私たちを愛すると言い、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と言って下さるという事実である。これを次の世代に伝承していきたい。教会をそのための場として用いたい。

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