阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2005年6月)   
◆2005.6.26<聖霊降臨節第七主日>

「してもらいたいことを、しなさい」  

歴代誌下6:12-21
マタイ福音書7:1-12
大村 栄 牧師

◇「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(7:12)。私たちはこれと逆に「自分がされたくないことは、ほかの人にもするな」と申し合わせている。そのような消極的、自己防衛的な合意によって支えられているもろい社会に、「してもらいたいことをしなさい」と積極的な善を勧めるこの「黄金律」に、「律法と預言者」すなわち聖書全巻が掛かっている。

◇それに先だって「1:人を裁くな」「3:兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と傲慢を戒められる。そのような罪が十字架の贖いによって赦されるという偉大な出来事を告げるのが聖書の福音であり、それを「神聖なもの」と呼ぶが、これを拒絶する者もいる。「6:神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」。「豚に真珠」の語源だ。福音を伝える伝道は、しぱしば「足で踏みにじ」られるような拒絶に合う。それでも語り続ける私たちだが、拒絶する者に対して無制限に寛容であることは、却つて「神聖なもの」を汚すことになると言う。福音の寛容性を拒絶する者は、その者が赦しから遠ざけられるのか。

◇「7:求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。「求め、探し、門をたたく」のは、いずれも祈ること。その祈りに応えて、「与え、見つけさせ、開いて」下さるのは神だ。絶対者なる神に求め続け、探し続ける人生は、確実な手応えのある人生である。神への信頼を親子関係にたとえている。「9:あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。10:魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」。どうせだめだという消極性から、信じてやってみようという積極性への転換を体験したい。

◇ただし何を「求めよ、探せ」とは書いてない。すなわち何を祈るかではなく、祈る態度そのものに意義がある。祈りとは自分の願望を神に突きつけるのではなく、最終的には私たち自身以上に最善をご存じの神が、「11:求める者に良い物をくださるにちがいない」と信じて委ねることである。

◇「12:人にしてもらいたいと思うこと」とは、まず神が主イエスにおいて私たちに与えて下さった恵みの数々である。これを受けとめ直す所から、私たちは愛と真実の歩みへと踏み出すことが出来るのである。









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◆2005.6.19<聖霊降臨節第六主日>

「信仰のない私の信仰」  

マルコ福音書9:14-29
東京神学大学助教授  中野 実先生

◇キリスト教信仰の深みとは一体どこにあ るのか?今日の御言葉から聞き取りたい。

◇汚れた霊に取り付かれた子供を救おうと 努力するが、どうにもできない弟子たちの 様子をご覧になって、主イエスは「なんと 信仰のない時代なのか」と言われる。この 厳しい言葉の意味は何なのか?

◇「信仰がない」とは、信仰が弱い、足ら ないという事ではない。信仰について語る 時ですら我々は自分にこだわる。「私が」 信じている、信じていないが問題なのであ る。しかし、主イエスが「信仰がない」と 指摘されるのは、我々のうちに信仰と呼ぶ べきものが全くなく、全く神なき存在であ るからである。しかし、そのような「信仰 がない」という認識は、信仰への大切な出 発点、信仰者として成熟していく大切な転 換点ともなりうる。

◇無教会の指導者の一人であった関根正雄 はしばしば「無信仰」について語った。 「不 信仰」という中途半端なところではなく、 信仰が全くない、つまり自分が本当に神な き存在 であることを知るところから本当の 信仰の歩みは始まるのだと言う。信仰に関 してすら自分を基準 にしか考えられない我 々は自分自身に愛想を尽かし、絶望する事 が必要である。そのような絶望は 神によっ てのみ生かされる歩みへと我々を導く重要 な信仰の経験なのである。

◇9章24節で子供の父親は「信じます。信 仰のない私をお助けください」と叫ぶ。こ れは明らかに矛盾である。しかし、信仰者 が自分の中に「信仰がない」事実を認める 事によって、自分のうちには何の確かなも のもないのだという事実を認める。そして そのような認識は、信仰に関してすら自分 を基準に考えがちな私たちを、すでに我々 のうちで御業を始めておられる神を信頼す る事へと導く。我々の信仰は、無理やり自 分自身の中から絞り出すようなものではな く、神が我々のうちで始めてくださった救 いの業を信頼することに他ならない。その ような神の業としての信仰を主イエスは今 日も我々のうちに見出してくださる。

◇この点で印象深いのは、マルコ5章21節 以下の物語である。十二年間も出血の止ま らない女性がただ絶望の中で必死に求めて 主イエスの衣の房に触る。決して信仰とは いえない、 むしろ迷信的とも言える女性の 業を主イエスは「あなたの信仰」と呼んで くださる。とても信仰 とは呼べない我々の  「信仰」は十字架にいたるまで父なる神を 信頼し抜いた主イエスの信仰に よって支え られている。そこにキリスト教信仰の深み がある。

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◆2005.6.12<全家族礼拝>

「仲直りをしてから」  <全家族礼拝>

マタイ福音書5:21-26
大村 栄 牧師

◇モーセの「十戒」を始めとする律法には、「殺してはならない」などの基本的な戒めが記されている。しかし聖書を読む人々の間でも、戦争や殺し合いは絶えない。神の命令を聞き違えているのではないか。
 
◇主イエスは、十戒の命令以上のことを要求される。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(21-22)。モーセを通して神が言われた「殺すな」は、殺人を禁じている。だったら殺しさえしなければ何をしても良いだろう。どんなにおどしたり、いやがらせたりしても、殺しさえしなければ許される、と人は考えてしまう。
 
◇これに対して主イエスは、目に見える外面の行為だけでなく、「腹を立てる」という心の内側の意志まで問題にする。それでこそ、いのちの尊重を命じる「殺すな」の本当の意味を実行できるのだ。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5:17)。しかしそれでは一体、誰が人の心の中にまで見て裁きうるのか。それは神にのみ可能だ。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(口語訳「心を見る」)」(サム上16:7)。
 
◇真実にいのちを尊ぶ神の意志を実行するためには、行動を自制するだけでなく、憎しみに燃える心や、腹を立てて拒絶的になっている心が変えられることを求めねばならない。それが主イエスの言う「仲直り」である。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(23-24)。祭壇で供え物を捧げるのは礼拝を指す。もし、仲が悪い人がいるなら、礼拝を途中で止めてでも、自分から行って「仲直り」をしなさいと言われる。途中で止めてもそれは、礼拝を軽んじることではない。むしろ仲直りする努力をしないままで神の前に立つことは、それこそが「心を見る」神を冒涜することになる。
 
◇私たちは仲直りをするのがとても苦手だ。しかしこの礼拝は「心を見る」神を礼拝すると同時に、神と人との仲直りをさせて下さったキリストの十字架を仰いで行われる。この和解の主なるキリストによって、仲直りができない私たちの、弱さをおぎなっていただきたい。それによって勇気をもって仲直りと和解のため、そして世界の平和のために行動する人に変えられたい。

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◆2005.6.5
「あなたを輝かせる神」
イザヤ書60:19-22
マタイ福音書5:13-16
伝道師 北川 善也

◇我々は日常生活において、エネルギーの消耗とストレスの蓄積を余儀なくされているが、これを繰り返しているだけでは精神状態がささくれてしまう。「塩に塩気がなくなる」とは、人間のそんな状態を指すのではないか。我々は失った塩気を取り戻す術を探し求めなければならない。

◇使徒2:44以下には、「信者たちは…毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、…神を賛美していた」とある。これが初代教会の姿だ。彼らが何よりも重視していたのは、「ひたすら心を一つにして」礼拝を捧げることであり、このような生活の中で彼らはこの世のものより大切な何かを見出す感性を磨き、日々それを養い続けたのだ。

◇イザヤは、太陽や月のような形で世を照らすのとは全く異なる方が我々の永遠の光だと宣言する。しかも、この方に照らされ、その光の中に生きる者とされた時、今度は我々自身が輝くようになると言うのだ。

◇主は「あなたがたは、すべての人々を照らすともし火になれ」と告げる。これは、十字架の死からの復活した後の「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という主の伝道命令とも一致する。主が命じられるのは伝道に他ならない。

◇主は「あなたがたは世の光である」と言う時、我々をバラバラにではなく一本の光として捉えている。つまり、伝道の業を担うように命じられているのは教会である。そして、それはキリストを頭とし、全世界に広がりを持つ全体教会を指している。

◇塩と光には共通している点がある。塩は少量であっても絶大な効き目を発揮するし、光も真っ暗闇の中ではほんのわずかでも大きな安心感をもたらす。塩にしても光にしても、自分とは異なる性質の中に置かれて初めて、その本来の力を発揮する。

◇主イエスは、十字架にかかることによって、まさに燭台の上に置かれたともし火となり、地にあるすべての人々を照らし出された。しかし、我々にも「地の塩、世の光となれ」と言われるのは、我々が蛍光塗料のように主によって照らされない限り輝くことが出来ない、しかもその発光が永続的ではなく時の経過と共におぼろげにされてしまうような存在だからだ。

◇我々は主によって与えられた光を結集し、互いに照らし合う場所を与えられている。それが教会であり、聖書にはすべてがここからスタートすると示されている。我々は、礼拝によって全世界の人々が主の光に照らされ、神の家族として結び合わされる日をはるかに望みつつ歩みたい。
     

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