◇モーセの「十戒」を始めとする律法には、「殺してはならない」などの基本的な戒めが記されている。しかし聖書を読む人々の間でも、戦争や殺し合いは絶えない。神の命令を聞き違えているのではないか。
◇主イエスは、十戒の命令以上のことを要求される。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(21-22)。モーセを通して神が言われた「殺すな」は、殺人を禁じている。だったら殺しさえしなければ何をしても良いだろう。どんなにおどしたり、いやがらせたりしても、殺しさえしなければ許される、と人は考えてしまう。
◇これに対して主イエスは、目に見える外面の行為だけでなく、「腹を立てる」という心の内側の意志まで問題にする。それでこそ、いのちの尊重を命じる「殺すな」の本当の意味を実行できるのだ。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5:17)。しかしそれでは一体、誰が人の心の中にまで見て裁きうるのか。それは神にのみ可能だ。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(口語訳「心を見る」)」(サム上16:7)。
◇真実にいのちを尊ぶ神の意志を実行するためには、行動を自制するだけでなく、憎しみに燃える心や、腹を立てて拒絶的になっている心が変えられることを求めねばならない。それが主イエスの言う「仲直り」である。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(23-24)。祭壇で供え物を捧げるのは礼拝を指す。もし、仲が悪い人がいるなら、礼拝を途中で止めてでも、自分から行って「仲直り」をしなさいと言われる。途中で止めてもそれは、礼拝を軽んじることではない。むしろ仲直りする努力をしないままで神の前に立つことは、それこそが「心を見る」神を冒涜することになる。
◇私たちは仲直りをするのがとても苦手だ。しかしこの礼拝は「心を見る」神を礼拝すると同時に、神と人との仲直りをさせて下さったキリストの十字架を仰いで行われる。この和解の主なるキリストによって、仲直りができない私たちの、弱さをおぎなっていただきたい。それによって勇気をもって仲直りと和解のため、そして世界の平和のために行動する人に変えられたい。
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