阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年1月)  
◆2006.1.29<降誕節第五主日礼拝>
「知られている」
エレミヤ書1:4~10
牧師 大村  栄

 

◇預言者エレミヤは、若き日に神の召しを受けたとき躊躇したが、神が彼を説得する。「5:わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」。誰もが特に若い時には、自分が何者かという疑問にとらわれる。アイデンティティー(自己同一性)の問題といえよう。

◇17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトが、この問題に光明を与えた。彼はあらゆるものを疑った。しかしどうしても疑うことのできないものがある。それは自分が疑っているという事実と、その疑いを抱いている自分自身の存在である。それを自分の存在の根拠とするのだ。「我思う(疑う)、ゆえに我あり。コギト・エルゴ・スム」である。この思想は近代人の精神に大きな影響を与えた。人を疑い、制度や法則を疑い、伝統を疑い、そして神を疑う。その疑うという行為の中に自己を表現し、自己を実現していくことができると考えている。

◇そんな近代人の姿と逆の生き方、自己発見のあり方が、エレミヤに対する神の言葉の中にある。「わたしは一体何者か」と悩む若者に、神は「わたしはあなたを知っている、だからあなたは存在している」。「我思う(我疑う)、ゆえに我あり」ではなくて、「われ神に知られる、ゆえに我あり」だ。

◇聖書のそういう信仰をよく表しているのが詩編139。「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる」(1-2)。キリスト者は「疑う我」にでなく「知られている我」に平安があることを知り、その喜びを生きる。「知られている」という状態はあらゆる領域にまで及ぶ。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます」(8)。昨日ここで一人の愛する兄弟の葬儀を執り行った。故人は陰府に横たえられたが神はそこにもいます。私たちは先に召された方々を未知の世界に送り出したのではない。たしかに行ったことはないけれど、疑う必要はない。私たちがどこにいても、私たちを知っていて下さる方があるから。

◇「わたしはあなたを知っている」と呼びかける神の声を聞こうとせず、それゆえに疑うことによって自己を確認しようとする人々に、神の声を届けるために立てられたのが伝道者である。今日は礼拝後に臨時教会総会で担任教師の辞任と招聘を協議する。これは若き伝道者たちの出発を主の計画と信じて受けとめる時である。伝道者だけでなくすべてのキリスト者の命を召す(召命)のが神である。そして神はその命を誰よりも、本人よりも知っておられる。この神にわが身を捧げて生きたい。疑うことをもって私たちの行く手を阻む様々な力があるが、神に知られている確信に立って、恐れず神の道を歩もう。

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◆2006.1.22<降誕節第四主日礼拝>
「まことのいやし」
マルコ福音書1:21~28
牧師 大 村  栄

 

◇主イエスが安息日に会堂で神の言葉を語っておられた時、そこに「汚れた霊に取りつかれた男」がいた。「悪霊」とも呼ばれるこれは、人間を駄目にする勢力である。心や身体の病だけでなく、様々な姿において私たちの生活をおびやかす。主イエスの語った教えの中心は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。「国」とはここで領域でなく「支配」のこと。神の愛による支配が始まったことを告げる福音(良い知らせ)を主は語った。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。律法学者たちは神の愛を語っていなかった。人々は、神の深い愛と憐れみの中で人を心底ふるい立たせる教えを語る主イエスを、本当の「権威ある者」と認めたのだ。

◇誰よりもこれに強く反応したのは、「汚れた霊に取りつかれた男」だった。敏感な感受性を持った彼は、手強い敵の登場を悟った。だから突如、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と叫んだ。これに対して主が「黙れ。この人から出て行け」と叱ると、悪霊は出て行った。これを見た人々が、これは「権威ある新しい教えだ」と驚嘆した。悪霊を追い出したのは呪術的行為などでなく、主イエスの権威ある「教え」、すなわち神の愛を告げる福音のメッセージだったのである。

◇悪霊は自らを「我々」と複数形で呼んだ。マルコ福音書5章の墓場で叫ぶ男に取りついていた悪霊も名前を聞かれて、「名はレギオン(軍団)。大勢だから」と答えた。悪霊は一人の人間の中に大勢が住み着いて分裂と混乱を起こさせ、自主的判断や行動を出来なくさせる。集合体であろうとすると同時に、常に誰かに寄生しようとする自主性のない依存的な存在。そういう人間の弱さを擬人化したものを悪霊と呼ぶのだろう。これを追放し、依存的だった人が自主的に行動し、自分らしく本当の自由を生きるようになることが、いやされて生きるということである。神を信頼し、勇気を持って自立的に歩むことである。

◇最も人間を駄目にさせる勢力は、死の恐れかも知れない。しかしそこにおいても神の愛は私たちを離さず、最期まで真の自分らしく生きることを促して下さる。「わたしは確信しています。死も、命も、・・・・、現在のものも、未来のものも、・・・・、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38-39)。死も命も時間さえもみな神の被造物であり、その支配の下にある。私たちを弱らせ、依存的にさせ、自分で考え行動することを阻もうとするどんな勢力も、病も死も、それに対して私たちは「主キリスト・イエスによって示された神の愛」を告げる福音によって、勇気と希望を持って立ち向かうことが出来る。これを教会と私たちの最大の武器としようではないか。

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◆2006.1.15<降誕節第三主日礼拝>
「何をしてほしいのか」
マルコ福音書 10:46-52
神学生 伊藤 英志

 

◇主イエスは、エリコからエルサレムに向かう険しい山を上っていく街道を進まれようとされたとき、道端で物乞いをしていた盲人バルティマイの目を見えるようにする奇跡を示された。これは主イエスが十字架にかかる前にお示しになった最後の奇跡である。
◇「何をしてほしいのか」と言われた主に、彼は「目が見えるようになりたい」とただひとつの願いを率直に申し出た。彼は、「ナザレのイエス」について聞いた時から、主の御業と御力をすでに信じ、その到来をひたすら待ち望んでいた。だからこそ主の呼び掛けに上着を脱ぎ捨てて、踊り上がって主に近付いていき、癒されるとエルサレムへと進む主に従って行くことができた。
◇この出来事は、目が癒されるという奇跡物語に留まらない。この奇跡が示しているのは、主イエスが三度も示した死と復活の予告に目を開こうとしない弟子達と、主がエルサレムで何をなさるのか全く知らないまま主に従っていく群衆とを対照させながら、目が開かれると主と共にエルサレムへの道を歩み始める一人の信仰者の姿である。その姿は、信じる姿と信じることによる招きと救い、主イエスへの真の献身をも示している。
◇バルティマイの「目が見えるようになりたい」という願いは、別の日本語では「見上げられるようになりたい、仰ぎ見られるようになりたい」という意味にもなる。主は十字架を見上げてエルサレムへの道を上ったが、目を開かれたバルティマイは、主を仰ぎ見て、主がたどろうとしている道を共に見上げつつ歩むことを願ったとも考えられる。それは、自分の一切を捨てて主の道を歩むという願いである。そこに、我々は真の信仰者の姿を見る。
◇バルティマイの癒しは、何に対して目を開くべきなのか、まず何を願い出るべきなのか、そして主の道を歩むことはどういうことなのか、現代の信仰者に鋭く問いかけている。主は今も「何をしてほしいのか」と我々に敢えて問い掛けている。
◇神によって目を開かれ、新しい命を与えられた人間は、十字架の道を歩まれた主に従い行くことを志す。しかし、その道を歩むことは決して容易ではなく、その途上には様々な誘惑や迷いや挫折が待ち構えている。我々はまず何を神に願うかを互いに確かめ合っていかなければならない。
◇その願いとは、主の道から外れた道端にただ座りながら、通り過ぎる人々からの施しや善意に頼ろうとするのではなく、まず十字架に目が開かれて十字架を仰ぎ見ることができるようにと願う道であり、十字架を見上げつつ進んでいく主の道を歩もうとすることである。
◇主イエスの福音の始めの言葉を、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とマルコによる福音書は記している。十字架での死と復活を見上げつつ歩まれた主イエスこそが、私たちの道であり、真理であり、そして命なのである。

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◆2006.1.8<降誕節第二主日礼拝>

「招きに応える勇気と信頼」

マルコ福音書1:14~20

牧師  大 村  栄

 

◇主イエスの宣教の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。主は30年間市井の人として暮らしながら時を待った。そして遂に行動を起こし、ヨハネから洗礼を受けたが、さらに40日間荒野でサタンの試みにあわれ、ヨハネが捕えられたのを聞いておもむろに語りだした。大事を成すのに慎重な姿を見る。我々も人生の大きな決断をする時に、自分の中に芽生えてきた決意を、これは単なる欲望や野心ではないだろうかと繰り返し自問自答し、そうではない、これをするように大きな力によって促されているのだ、という確信を得て本当の決断に到達したい。時が満ちるのを祈って待つことの大切さを主イエスに学ぼう。

◇「神の国は近づいた」の「神の国」は、領域でなく神の支配を指す。キリストを通して神の「直接支配」、「直接行動」が開始したということだ。その支配や行動の内容はキリストの言葉と行いに示されている。悲しむ者を訪ね、不治の病に悩む婦人を救い、幼い子らを抱き上げる。神を敬い人を愛することが最も大切であると教えた。「神の支配」とは「愛の支配」であり、「神の行動」とは「愛の行動」である。「神の国が近づいた」とは、このような愛の世界が始まったということである。これを「福音」(良い知らせ)と言わずして、何と言おう。

◇洗礼者ヨハネも同じようなことを言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)。しかしそこには「福音」が抜けている。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(3:7)と叫ぶヨハネにとって、神の直接行動とは「怒り」であり「裁き」であった。彼の言う「悔い改め」は、文字通り罪を悔いることである。だが元来メタノイアは「悔い改め」よりも、神に立ち帰る「方向転換」を意味する。自分を造った方にまっすぐ向き直って、造られた者に相応しく生き始めることだ。怒りの前に恐れおののいて自分を矯正するのは、本当の方向転換と言えるだろうか。

◇主イエスが「近づいた」と言った「神の国」は、「差し迫った神の怒り」ではなく「愛の支配」である。過去の反省や後悔も超えて、その神の赦しと愛を信じて生きようと決心すること。それが本当の方向転換である。そちらに向き直る時に私たちも人を愛し、赦すことを真実に始めていけるのだ。

◇漁師たちは「福音を信じなさい」との言葉に突き動かされ、招きに応えて「すぐに網を捨てて従った」。とは言っても責任を放棄したのではない。ただ「自分が何とかせねば」という焦りから解放され、持ち物や思いわずらいのすべてを主にゆだねたのである。悲壮な決意と言うよりも、「おおらかな楽観主義」である。すべてを神に委ね、おおらかに生きていこう。行く道は神による「愛の支配」の中にあるのだから。時の満ちるのを待ち、勇気と信頼をもって踏み出そう。

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◆2006.1.1<新年礼拝>

「途上に生きる」

マタイ福音書2:1~12

牧師 大村  栄

 

◇ 星に導かれて、東の国から旅をしてきた三人の博士たち(占星術の学者たち)に、もう一人の仲間がいたという話しがある。ヴァン・ダイク作『もう一人の博士』(1896年)、四人目の博士「アルタバン」は仲間に後れをとり、メシアを探し求める旅に出たが、捧げ物として用意した三つの宝石も、途中で人の命を助けるために使い果たしてしまった。33年後にゴルゴタの丘に駆けつける直前に倒れるが、実はその長い旅が常に主イエスに伴われていたことを知って感謝し、安らかに息を引き取った。

◇ アルタバンも三人の博士たちも、人生の目標を救い主と出会うということに定め、それに向かって旅を続けた。私たちも主との出会いを求める旅を歩みたい。旅に生きるとは、不安定な状態に身を置くことだ。持物は最小限に限られる。だが実はそれで充分なのだということを発見する。そして自分の持物より、与えられるものによって生かされているのを知る。それが旅である。

◇ 新年を迎え、人生の年輪をまた一つ加える。それにつれて私たちは定住を指向し、現状維持を望む。しかし今一度自分を旅人の立場に置き、博士たちのようにキリストとの出会いという目標に向かって歩み出す者でありたい。その時私たちは生きているのでなく、生かされていることを改めて知るだろう。

◇ 主はそのような旅を続ける者と共におられる。なぜなら主も旅人だから。主イエスは平安な神のみもとを離れ、荒々しいこの世に最も無防備な幼な子の形で来られた。これは旅である以上に冒険(アドベンチャー)である。しかしその根底に、世界万物を造られた神への深い信頼があった。世界のすべては神のみ手の内にある。私たちもこの主イエスの信頼の姿勢にならって、キリストと共に神の世界を生きる人生の冒険に踏み出していこうではないか。

◇ エマオへの道の出来事を思い出す。失意の中でエマオに向かって旅していた弟子たちに、復活の主イエスがそっと近づいて旅の同伴者となられた。そして彼らの心を神の言葉で燃え立たせ、それによって彼らは、苦難の待つ都エルサレムに勇気を持って引き返して行くことができた。私たちも主イエスとの出会いを求める旅に足を踏み出すなら、その時に主がきっと、見えざる同伴者としてそこに寄り添い、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43:5)と言って下さるに違いない。

◇ アドベント(アドベンチャーと同じ語源)に深めた「到来」を待つ信仰、すなわち「再び来たりたもう主を待ち望む」希望とは、遠い将来の可能性を待つことではない。もしかしたら今すぐそこに、私たちの背後に立って共にいて下さる主を見出す信仰である。私たちと共にいて、私たちの冒険を共に担って下さる主を同伴者に迎え、新たな人生のアドベンチャーに生きる一年でありたい。

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