◇わたしが講師をしている中学校の修養会に参加したことがある。生徒たちは、信仰を持って隣人愛に生きた人たちの中から一人を選び、その人がどのような信仰を持っていたかということに焦点を当てて調べ、発表した。人間的に見て立派な仕事をし、多くの人に感化を与え、すばらしい足跡を地上に残していった人々の多くは、大変苦しい経験をしている。また必ずしも自分でその道を選び取ったのではない。
◇弟子たちは主イエスと共に歩んできたが、いつの日か一人立ちする日が来る。いつまでも主と共に歩むことはできない。もちろんそこに聖霊が降り、主が弟子たちと共に、またわたしたちに先立って歩んでくださっていることがわかるようになるが、主を見失う可能性は常にある。
◇弟子たちは舟旅に出る。舟にたとえられる教会も、わたしたち自身も常に旅をする存在であることを忘れてはならない。しかもその海はしばしば荒れるのである。波風に悩まされ、なかなか向こう岸にたどりつく事ができない。そんな中、弟子たちの舟に一人の男が近づいてくる。「幽霊だ」とおびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。波風が彼らの行く手を妨げている上に、恐ろしげな出来事が起こる。彼らは大混乱を起こす。
◇恐怖とか不安というものは大変不思議なもので、一度怖い思いをすると、その状態からなかなか立ち直れない。「信仰の反対は何か」。すぐに「不信仰」という答えを出すかもしれない。しかしある人は言う。「信仰の反対は恐れ」だと。そして信仰とは恐れからの解放であるとも言う。
◇主なる神さまがくださる平安は、恐怖や不安を克服して得られるようなものではない。主イエスがおられるところに、常に平安があるという事実である。恐れとか不安というのは実に主観的なもの。そしてイエスさまがくださる「平安」「信仰」は、主観的なものを乗り越えて、平安があるということをわたしたちに見せてくれる。
◇恐れる弟子たちに、主はおっしゃる。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」信仰者が不安や恐れを覚える時、それを乗り越えさせるのは、その人の人間的な勇気や力ではない。神様がそれをぬぐい去る力
を与えてくださる。主イエスを幽霊だと見てしまう心を捨てさせてくださる。
◇「ライオン」の創業者小林富次郎は、絶望の中で、ヘブライ人への手紙12:11の御言葉を聴く。富次郎を取り巻く状況は決して変わっていないが、彼は立ち上がった。変わったのは何か。自分のうちにある不安や絶望や、恐れしか見えなかった人が、神を見いだすことができたのである。神が共にいる、主イエスが共にいるという事を見いだすことができた。私たちも世々の聖徒たちと共に「安心しなさい」との御言葉を聴こう。