阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年2月)  
◆2006.2.26<降誕節第九主日礼拝>
「安かれ、わが心よ」
マルコ福音書4:35~41 
 牧師  大 村  栄

 

◇先週<講壇交換>を行った坂下道朗牧師(阿佐谷東教会)による説教(「安心しなさい」マタイ14:22以下)と同じガリラヤ湖上での出来事だ。湖上を進む一槽の小舟に、主イエスと弟子たちが乗り込んでいる。そこへ突然「37:激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」。湖は「海」とも訳されるが、天地創造の始めに神が悪魔的な力に勝利して、それを封じ込めたのが海とされる。安全な陸とは違って悪魔の支配する闇の世界である。嵐で舟から放り出されたり、水浸しになって転覆すれば、その闇の世界に呑み込まれてしまう。弟子たちはパニック状態に陥っていた。

◇ところが、「イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」。聖書では心地良い眠りは、神への信頼のしるしとされている。「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」(詩編127:2)。弟子たちは叫び訴える、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。神信頼による平安を証しするイエスと共にいながら、彼らは同じ平安にあずかることが出来ず、舟の外から押し寄せる罪の力や死の恐れに脅えている。それはまさに私たち自身がしばしば直面する試練のときである。

◇その時「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた」。主イエスのこの命令は、風や波だけでなく、弟子たち(私たち)の心に向かって発せられるのだ。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。「信じる」とは神に知られている自分を知ることであると言えよう。「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(ガラテヤ書4:9)。自分の状態を神に知らせて助けて貰わなくてはと焦らなくとも、すべてがすでに知られている。知られていることの平安に生きるのが信仰生活である。

◇そのような神に対する信頼と、それによる平安を示して下さるキリストが共にいる舟とは、教会を指している。主は私たちをこの舟に招き、一緒に「向こう岸へ渡ろう」と言われる。向こう岸とは神の愛が支配する領域である「神の国」のことだ。この世に、この地に、私たちの世界のただ中に、神の愛による支配を打ち立て、神の国を完成するために、私たちは教会の舟に乗り込んでいる。

◇そして大事なのは、「ほかの舟も一緒であった」という点。教会の舟は単独でなく船団で進む。阿佐谷東教会も西東京教区も日本基督教団も、さらに主にある全国のすべての教会と共に進みたい。それぞれの舟に、主イエスが乗っておられる。「艫(とも)」とは船尾のこと。船尾には舵がある。舵取りを主にゆだねて「向こう岸へ渡ろう」ではないか。「安かれ、わが心よ。主イエスは共にいます」(讃美歌298)と歌いつつ。


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◆2006.2.19<降誕節第八主日礼拝>
「安心しなさい」
マタイ福音書14:22-34
阿佐谷東教会牧師 坂下 道朗 先生

 

◇わたしが講師をしている中学校の修養会に参加したことがある。生徒たちは、信仰を持って隣人愛に生きた人たちの中から一人を選び、その人がどのような信仰を持っていたかということに焦点を当てて調べ、発表した。人間的に見て立派な仕事をし、多くの人に感化を与え、すばらしい足跡を地上に残していった人々の多くは、大変苦しい経験をしている。また必ずしも自分でその道を選び取ったのではない。

◇弟子たちは主イエスと共に歩んできたが、いつの日か一人立ちする日が来る。いつまでも主と共に歩むことはできない。もちろんそこに聖霊が降り、主が弟子たちと共に、またわたしたちに先立って歩んでくださっていることがわかるようになるが、主を見失う可能性は常にある。


◇弟子たちは舟旅に出る。舟にたとえられる教会も、わたしたち自身も常に旅をする存在であることを忘れてはならない。しかもその海はしばしば荒れるのである。波風に悩まされ、なかなか向こう岸にたどりつく事ができない。そんな中、弟子たちの舟に一人の男が近づいてくる。「幽霊だ」とおびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。波風が彼らの行く手を妨げている上に、恐ろしげな出来事が起こる。彼らは大混乱を起こす。

◇恐怖とか不安というものは大変不思議なもので、一度怖い思いをすると、その状態からなかなか立ち直れない。「信仰の反対は何か」。すぐに「不信仰」という答えを出すかもしれない。しかしある人は言う。「信仰の反対は恐れ」だと。そして信仰とは恐れからの解放であるとも言う。

◇主なる神さまがくださる平安は、恐怖や不安を克服して得られるようなものではない。主イエスがおられるところに、常に平安があるという事実である。恐れとか不安というのは実に主観的なもの。そしてイエスさまがくださる「平安」「信仰」は、主観的なものを乗り越えて、平安があるということをわたしたちに見せてくれる。

◇恐れる弟子たちに、主はおっしゃる。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」信仰者が不安や恐れを覚える時、それを乗り越えさせるのは、その人の人間的な勇気や力ではない。神様がそれをぬぐい去る力
を与えてくださる。主イエスを幽霊だと見てしまう心を捨てさせてくださる。

◇「ライオン」の創業者小林富次郎は、絶望の中で、ヘブライ人への手紙12:11の御言葉を聴く。富次郎を取り巻く状況は決して変わっていないが、彼は立ち上がった。変わったのは何か。自分のうちにある不安や絶望や、恐れしか見えなかった人が、神を見いだすことができたのである。神が共にいる、主イエスが共にいるという事を見いだすことができた。私たちも世々の聖徒たちと共に「安心しなさい」との御言葉を聴こう。

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◆2006.2.12<創立82周年記念礼拝>

「教会の権威」

マルコ福音書2:1~12

牧師  大 村  栄

 

◇天井からつり降ろされてきた中風の病人に、主イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言した。しかし見た目には何の変化も起こらない。皆が期待したのは目に見えない罪の赦しより、見える病のいやしだった。病と罪の関係について。罪は病の原因ではなく結果である。病気になると人はとかく希望を失い、人を疑い、神を疑って罪におちいる。聖書の言う「罪」とは神との関係の乱れ。創造主との関係が崩れると被造物である人間は足もとが揺らいでくる。人生の苦難、特に死を予感させる病はそういう神との関係の乱れを起こさせるのだ。

◇主イエスが病人に「あなたの罪は赦される」と宣言したのは、「病の中であなたが見失ってしまった神との豊かな関係を、神が取り戻そうとしておられる。神は決してあなたを見捨てない」と諭したのである。マタイ福音書では「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)と言った。この「元気を出しなさい」の聖書的な表現が「あなたの罪は赦される」なのである。しかし主は病におびえる私たちの弱さをも知って、中風の者をいやされた。目に見える救いを願う者を拒絶なさらず、そういう愚かさも含めて、人間を救おうとして下さるのだ。

◇ただし救いの本質は病のいやしではなく、あくまで「罪の赦し」である。目に見えるいやしの奇跡は、見えない世界での権威を証明するためのしるしでしかない。ルカ福音書17:11-19「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」という箇所で、主イエスにいやされた9人はどこかへ行ってしまった。1人だけ「大声で神を賛美しながら戻って来た」者に主が言われた、「あなたの信仰があなたを救った」。「神を賛美」したというのは神との関係が回復したこと、すなわち救いの実現を喜び祝うことである(礼拝の本質はここにある)。そこまで至った者にのみ、主は「救い」の成就を宣言された。残る9人はいやされたけれど救われてはいない。いやしは信仰の入口であるが、最終目標ではないのだ。

◇このあとマタイでは、「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」(9:8)。「人間」とは主イエス(人の子)のことではなく、主を救い主と仰ぐ人々、すなわち教会である。「教会にこれほどの権威をゆだねられた神」と読むべきだ。十字架の贖いによって実現した罪の赦し。それによって神の被造物でありながら自らその位置を見失っている人間に、本来の位置を取り戻させ、神との関係を和解させる罪の赦しを宣言する権威が、私たち教会に託されている。

◇教会には様々な要素が期待される。社会問題への取り組みはもちろん、教育、福祉、芸術文化、国際交流の面でも社会に貢献していきたい。しかし何よりも罪の赦しを宣言する重大な権威を託され、畏れをもってこれに仕えることを教会の命としたい。そこからあふれ出る愛の業として、この世に仕える奉仕を積極的に行っていきたいものである。

 

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◆2006.2.5<降誕節第六主日>

「打ち砕かれ悔いる心」

サムエル記下12:1~15a

牧師 大村  栄

 

◇ダビデ王はウリヤの妻バト・シェバを夫から奪い、彼を戦場で死なせた。これに対して預言者ナタンが激しい叱責を浴びせる。多くのものを恵みとして与えられたダビデに弁解の余地はない。彼は罪を告白する。「わたしは主に罪を犯した」。この時にダビデが歌ったのが詩編51編。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」。深く悔い改めたダビデにナタンが言う、「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。ダビデが後世に優れた王と言われるようになったのは、彼の能力によるのではない。罪は犯したが、それを深く悔いることのできた人間であったという点においてである。

◇このあとに告げられたナタンの言葉も忘れてはならない。「このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」。二人の間に生まれた不義の子は病に冒され、ダビデは断食して祈り続けた。しかし死んだと聞くと着替えて食事を始めた。死後の世界は神の領域という徹底した聖書的信仰が見える。弔いや供養が死者に影響を及ぼすことはないのである。

◇ところで、この名も付けられない内に父母の罪の身代わりとして死なねばならなかった子供は、一体何だったのか。1963年に米国アラバマ州で、人種差別論者が教会に投げ込んだ爆弾で4人の少女が即死した。その一人は後のコンドリーザ・ライス国務長官の親友だった。この体験からライス女史は、「力には力を」という思想を深めていったようだ。しかしM・L・キング牧師は、この少女たちの葬儀で「不条理な苦難は贖罪の力を持つ」と語った。身代わりになって散らされる命を聖書では贖(あがな)いと呼ぶ。

◇「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」(ヘブライ書11:4)。兄の妬みを買って若くして殺されたアベル(創世記4:8)。空しく終わったその命だが、彼は「信仰によってまだ」世に働きかけている。不条理な死というものはそれ自体に意味があり、生きている者に及ぼす何らかの力があるということだ。アラバマ州で殺された少女たちも、ダビデとバトシェバの不義の子もそれぞれ空しくはかない命だったが、今も私たちに働きかけている。

◇「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。雪よりも白くなるためには、徹底して打つ砕かれる必要がある。しかし人間には完全な悔い改めは実現できない。その未完の部分に、打ち砕かれ、召された者たちによる「贖いの力」が発揮されるのだろう。そのような生と死の出来事の中心にキリストの十字架が立つ。そしてここに人間の限界を超え、絶望を越えた神の国の希望が拡がっていくのである。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。


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