◇我々人間は、困難にぶつかった時など、祈りたくなってしまうものだ。教会やキリスト者は確かによく祈る。我々の「祈り」というものは、神との対話の時である。
◇5-8節の主の言葉は、祈りを知っている者の為の言葉である。では神や祈ることを知らない者は、仮に祈りたくとも、誰にどう祈ったらいいかわからない。祈りの手引といったものが必要になる。それが9節以下の「主の祈り」である。
◇神学校の松永希久夫先生の授業で、「主の祈りは地上に於ける最大の殉教者だ」との話をよく覚えている。形式的に口にしたり、呪文のように唱えるというような乱暴な扱いをされている、という意味に於いてである。確かに指摘どおりかも知れぬ。
◇J・ウェスレーの「祈りについての自己検討」という文章がある。それを初めて読んだのは神学校に入る前のことであった。
◇神学校に入学して間もなくのある体験、それは「教会に、礼拝に集いたくても集えない」ということ、「祈ることの重要性」、そして「我々には祈ることが許されている」ということを改めて知らしめられた時でもあった。
◇自分自身にとって、その一連の出来事は「祈り」、「祈るということ」に対する思い入れというか、黙想的なものではあるが、阿佐ヶ谷教会では祈祷会というものがあり、大切にしてきた。祈ることの大切さ、祈りの力、祈りは聴き上げられるということをよく知っているはずである。祈りこそ、「教会がもう一度生きるようになった基」、「原動力」であり、教会が祈りによって生き、生かされたことはすでに証しされている。
◇フォーサイスの『祈りの精神』。その冒頭は「最大の罪は祈らないことである」。あらゆる罪の原因は、その人が祈っていないからであると。しかし考えてみれば、我々は主が問題とされる程に、熱心に祈っているか。そう問われると、考え込んでしまうのではないか。
◇我々には「祈れない時」ということがある。しかし祈れる、祈れないということをどういう基準で決めるのか。自分で自分自身を判断して「自分は神に対してしっかりと祈っている」と思ってしまうことも違うのではないか。祈れない時、祈る言葉が出てこなければそれはそれでいいと。なぜなら、我々に必要なものを神は知っていて下さる。祈りの内容や言葉によって、救いの道を変えてしまうような神ではない。祈れなくても、備えられたもの、救いの道に感謝すればいい。祈りによって我々は、喜びと恵みを戴いている。それにまさるものはない。