◇表題に「祈り。心くじけて、主のみ前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」。原始的な祈りは神々を動かし、自分の目的を遂げるための手段だったが、聖書に学ぶ私たちの祈りは、神との人格的な交わりの中に、人生と社会における生きる道を見出すことだ。真実な祈りは「私たちが欲していること」ではなく、「神が欲しておられること」に私たちを関わらせていくものである。
◇様々な集会を祈って始めることが多いが、祈りは決してその場の第一の言葉となり得ない。第一の言葉は「神の言葉」であり、祈りはそれへの「応答」である。神の言葉はただ語られるだけでなく、応答としての祈りを引き起こしてこそ、語られ、聞かれたと言いうる。そんな祈りの指導書が詩編である。聖書の多くの部分は「私たちに向かって」語りかけるが、詩編だけは「私たちと共に」語る。
◇102編は「嘆きの詩」に属する。「10:わたしはパンに代えて灰を食べ、飲み物には涙を混ぜた。12:わたしの生涯は移ろう影、草のように枯れて行く」。旧約の偉大さは、詩人がこのような苦悩の中で、過去から未来に目を向き換えていること。そして自分個人の問題に執着せず、イスラエル全体の救いの歴史に関心を移していることだ。
◇次の13節の冒頭に口語訳では「しかし」があった。「13:主よ、あなたはとこしえの王座についておられます。14:どうか、立ち上がってシオンを憐れんでください」。個人の思い悩みに沈む者が、シオン(エルサレム)の回復を祈る者に変えられる。自分の問題が解決した訳ではないが、シオン復興の希望の中に、「18:すべてを喪失した者の祈り」が顧みられると確信し、未来を信じて生きる者とされる。「19:後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」。
◇シロアムの池で盲目の原因を問う弟子たちに主が言われた言葉、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:2-3)、また教会標語の「すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)ともつながる。人生の目的と意味は「神の栄光」を賛美し、その「み業(働き)」を現わすというところにある。そういう志を生きる中で神は「すべてを喪失した者の祈りを顧み」て下さる。
◇自分自身の思い悩みから、「しかし」と神の支配に委ねる心を与えられる時、私たちの生きる「今」は、単なる過去の堆積としての現在ではなく、神のみ手にとらえられ、神の永遠につながる尊い「今」となる。そのような「今」を生きる人生は、長さより意味を、形より志を大切にする人生となる。
◇「心くじけて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」。その「心くじけ」た人、「すべてを喪失した者の祈り」こそが顧みられ、神を讃える賛美に変えられるということを、詩編を通して教えられ、また信仰生活全体を通して体験させて頂きたい。
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