阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年06月)   
2006.06.25 <ホームカミング礼拝>

「持続する志-昨日、今日、明日

 コヘレトの言葉11:1-12:2
Ⅰコリント書1:26-31
 寺島 昭二 先生(野方町教会牧師) 

◇自分が阿佐ヶ谷教会の伝道師をした5年間(1967~72年)は、昨年発行の『阿佐ヶ谷教会八十年史』によれば、第五章「低迷」と題される時代だった。大学紛争、教団紛争の時代で教会の礼拝出席者数は激減し、大村勇牧師の苦悩は深かった。この苦悩に対する特効薬は見つからなかった。克服するためと信じて「何でもやってみる」しかなかった。大島藤倉学園ワークキャンプはそんな試みの一つとして1971年に始められた。「低迷」から抜け出すための特効薬、起死回生の切り札というようなものは容易に見つかるものではない。

◇全国で教会学校の子供が激減している。ここにも特効薬を探すより、あれやこれやの試みを繰り返すしかないだろう。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」(コヘレト11:6)。

◇その後下関に転任した。子供は少なくてお年寄りばかりだった。しかし阿佐ヶ谷での経験から、「行き詰まったら、何でもやってみる」を繰り返し、その内の幾つかが希望となっていった。人間の知恵ではなく、神が教会を憐れんで下さったということにほかならない。その確信は今もずっと続いている。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19:21)。

◇「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、…彼らを担ってくださった」(イザヤ63:9)。がむしゃらになっていた時は気付かなかったが、後になって、私たちの苦難を神が「御自分の苦難とし」ていて下さったことを知った。見捨てられたり、見放されたりしていたのではない。あの時はそれに気付かなかっただけだ。「信ずる者は慌てることはない」(イザヤ28:16)。きっと神が出口を示して下さる。

◇「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」(Ⅰコリント1:26)。各人がイエスと出会った方法は違っている。どれが良くて、どれが悪いのではない。「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)。ただ大切なのは息の長い信仰生活を、遅くてもいい、自分の足で歩き続けていくこと。それが祝福の道だ。

◇私たちはとかく最短距離で物事を判断しがちだが、人間の時間で判断するのではなく、神のゆったりとした時間の中を、もっと長い目で、もっと広い心で歩むことを考えて良いのではないか。神は「(あえて)無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(Ⅰコリント1:28-29)。これはすなわち、全責任をわたしが持つという神の宣言なのである。
◇「持続する志」を持たせて下さる神は、神自らが私たちに対する愛の志を持続しつつ、私たちの人生と歴史に伴って下さる。



                                    
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2006.06.18 <聖霊降臨節第三主日礼拝>

「究極のいやし」

 マルコ福音書5:1-20
 大村 栄 牧師 

◇ガリラヤ湖の対岸、デカポリス地方ゲラサ人の土地に、墓場を住まいとする暴力的な男がいた。人を襲うだけでなく自分自身を傷つける。自分を傷つけて痛みを感じない人は、平気で人を傷つけるだろう。失うものは何もないとばかりに、何ものも恐れず、やりたい放題の不良行為を行っている。聖書は彼を「汚れた霊に取りつかれた人」と呼ぶ。

◇悪霊は主イエスの権威に屈服して、すんなりと名前を白状する。その名は「レギオン。大勢だから」。ローマの軍隊用語で6000人くらいの軍団をいう。一人の中に大勢が住み着いて分裂と混乱を起こさせる。それが悪霊のしわざなのかも知れない。レギオンは「豚に乗り移らせてくれ」と願い、「2000匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」。さぞかし衝撃的なシーンだったろうが、豚の所有者にとっては大変な財産の損失だ。町の人々は主イエスに「その地方から出て行ってもらいたい」と言った。キリストによる変革を見ても、それを我が身に引き寄せる勇気が持てなくて、拒絶反応に変わっていく。

◇出て行こうとする主に「悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った」。彼は自分を救って下さった方に同行するという方法で生涯を捧げたいと思ったのだろう。しかし主は「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と彼の人生の選択を制限し、彼の願いとは違う方法で御業を宣べ伝えよとの課題を与える。徹底してキリストに従うなら、その方法も自分で選択せず、主に委ねて指示を求めるべきだ。

◇彼は命じられた通りその土地に留まり、「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」。主による課題をしっかり生きたのだ。これを聞いた「人々は皆驚いた」とあるが、かつては乱暴者だった男自身が、自分はこんなに変えられたと証言するのだから、これ以上に驚きを与え、これ以上に説得力のある伝達方法はほかにない。福音伝道に最も有効なのは、上手な言葉や理論でなく、信仰によって変えられた人の存在そのものだ。

◇この男の変化とは、単に狂気が鎮められたというだけではない。かつて自分自身を傷つけ、自暴自棄になっていた彼が、2000匹の豚を代償にして生まれかわった。それは神が、この男を被造物の位置に取り戻したいと望まれたからだ。「自分を失っても平気だ」と言っていた者が、「おまえを失いたくない」という神の愛の中で多くの財産を犠牲にして自分を取り戻すことができ、その愛を感謝し、愛を宣べ伝える者となった。

◇尊いものを犠牲にしてまで、失われた魂を本来の場所に取り戻す神の愛。その究極は主イエスを十字架に差し出して人間の罪を帳消しにするという贖罪の行為である。そこに「究極のいやし」がある。




                                    
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2006.06.11 <三位一体主日礼拝>

「祝福の源」

 創世記11:31-12:9
 堀江綾子伝道師 


◇「祝福をあなたにも」これが今日の聖書箇所の中心主題。「祝福あれ主の御名によって来る人に。詩編118:26」との招きの言葉のように、祝福とは「祝福あれ」という神様の命令によって私たちに与えられるもの。「光あれ」と天地創造の時に光を創造された神様は、「祝福あれ」と私たちのうちに祝福を注いでくださる。
◇「わたしが示す地に行きなさい。」と神様はアブラムに命じるが、その背後にはアブラムを大いなる国民とし、祝福し、その名を高めるという目的があった。「祝福の源となるように。」は「祝福であれ!」。この命令はアブラムに対する神様の新たな召命の言葉となる。
◇アブラムの父テラはカナンの地を目指していた。アブラムはテラの息子として共に旅をしていた。しかしハランの地に来たところで父テラは死んだ。そのハランの地で今度はアブラムが先頭に立ってカナンを目指し、更には行き先はわからずとも神様の示すままに旅を続けてゆくのである。
◇聖書が示す共同体(神様を礼拝する集まり)、それは今集っている人々のみを現すのではなく、時代を超えて神様を礼拝してきたそれぞれの世代の人々を表す。阿佐ヶ谷教会ならば平岩愃保先生を始め阿佐ヶ谷教会の歴史を生きた人々をも含む。一部分を担うということは全体を担うことである。過去に祈られた祈りは今日のため。今わたしたちが祈る祈りは今日のため、これから先の阿佐ヶ谷教会のあゆみを支えるもの。この祈りにおいて代々の人々は一つとされるのである。
◇祝福とはこの集いに次から次へと人々が加えられていくこと。「あなたの子孫を空の星のように砂浜の砂のように、その数を増す。」と神様はアブラムに約束された。共同体から排除されることが聖書の示す呪いでもある。その逆が祝福。神様のもとに集められ、その輪の中に入れられるとき「いかに幸いなことか、あなたの家に住むことができるなら。詩編84編」との歌が生まれる。
◇「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」アブラムは祝福の源、神様が人々を祝福するための道具とされた。「祝福に入る」とは「互いに祝福し合う」という意味も含まれる。私たち一人一人は土の器にすぎないけれども、神様がその器に祝福を注ぎ、祝福の源として遣わされる。
◇アブラムは神様の召命に応え、旅を続ける中で常に祭壇を築き礼拝し続けた。行く先がわからない中で常に神様を礼拝しその名を呼び続けた。私たちもいついかなる時も神様の名を呼び、神様を礼拝し、多くの人々がこの祝福に満ちた教会に導かれるよう祈りを捧げていこう。
◇今日(6/11)は花の日。「God Bless You!」「祝福をあなたにも」と小さな花束を祝福の言葉と共に、病の中にある人々、悩みの中にある人々、主の救いを求めている人々に届けよう。



                                    
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2006.06.04 <聖霊降臨日>

「強く、雄々しくあれ」

 ヨシュア1:1-9  使徒言行録2:1-11
 牧師 大 村  栄 


◇ヨシュア記は出エジプトしたイスラエルの民が、約束の地カナンを獲得していくBC1200年頃の物語。他部族から故郷を取り戻すために、彼らは厳しい戦いを体験しなければならない。有名なのはヨルダン川を渡って最初に直面するエリコでの戦い。他部族との抗争だけでなく、自然環境との戦いも深刻だ。ヨルダン川は、エリコに近い死海沿岸では海抜マイナス400メートルという低地にある。うだるような暑さと湿気の中、塩分の多い水に腰までつかって、彼らは約束の地へと渡っていく。「強く、雄々しくあれ」と三回も語りかけられなくては踏み出せない厳しい道だったのだ。しかし「8:あなたは、その行く先々で栄え、成功する」と言われ、やがて広い世界に住むことが約束されている。そんな祝福の未来を来たらせるためにはどうしたらよいのか。

◇三回繰り返される「強く、雄々しくあれ」の部分に、そのための示唆が三つある。第一は「6:強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である」。この道を行くのは人間の計画ではない、あらかじめ備えられた神のご計画であると確信し、感謝をもって謙虚に歩むなら、必ずや未来への道が開ける。

◇第二は「律法」すなわち神の言葉に忠実に生きること。「7:ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」。み言葉を「8:昼も夜も口ずさみ」なさい。大声で唱えるのではない。低い声でも、自分に言い聞かせるように神の言葉を繰り返す人。その人の未来に道が開かれる。

◇第三は「9:わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。「どこに行っても」共にいる神を確信すること。今日ペンテコステに、神はそういう確信を聖霊によって私たちに与えて下さったのである。

◇弟子たちは復活の主イエスに問うた、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒言行録1:6-8)。救いの場所と時間を特定しつつ、主に対する依存もある彼らに、主はその時は「あなたがたの知るところではない」と言われ、さらに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。場所の限定を禁じた上で、弟子たちの依存的態度に対しては、「あなたがたが」聖霊を受けてそれをするのだと告げる。

◇「3:わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」とヨシュアに言われた神は、私たちにも今自分の足で道を踏んでいく勇気と決断を求めておられる。死海のほとりを行くような厳しい環境であっても、私たちは「聖霊」の助けによって歩んでいこう。そこに、主と共に生きる未来への道が開かれる。



                                    
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