◇ガリラヤ湖の対岸、デカポリス地方ゲラサ人の土地に、墓場を住まいとする暴力的な男がいた。人を襲うだけでなく自分自身を傷つける。自分を傷つけて痛みを感じない人は、平気で人を傷つけるだろう。失うものは何もないとばかりに、何ものも恐れず、やりたい放題の不良行為を行っている。聖書は彼を「汚れた霊に取りつかれた人」と呼ぶ。
◇悪霊は主イエスの権威に屈服して、すんなりと名前を白状する。その名は「レギオン。大勢だから」。ローマの軍隊用語で6000人くらいの軍団をいう。一人の中に大勢が住み着いて分裂と混乱を起こさせる。それが悪霊のしわざなのかも知れない。レギオンは「豚に乗り移らせてくれ」と願い、「2000匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」。さぞかし衝撃的なシーンだったろうが、豚の所有者にとっては大変な財産の損失だ。町の人々は主イエスに「その地方から出て行ってもらいたい」と言った。キリストによる変革を見ても、それを我が身に引き寄せる勇気が持てなくて、拒絶反応に変わっていく。
◇出て行こうとする主に「悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った」。彼は自分を救って下さった方に同行するという方法で生涯を捧げたいと思ったのだろう。しかし主は「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と彼の人生の選択を制限し、彼の願いとは違う方法で御業を宣べ伝えよとの課題を与える。徹底してキリストに従うなら、その方法も自分で選択せず、主に委ねて指示を求めるべきだ。
◇彼は命じられた通りその土地に留まり、「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」。主による課題をしっかり生きたのだ。これを聞いた「人々は皆驚いた」とあるが、かつては乱暴者だった男自身が、自分はこんなに変えられたと証言するのだから、これ以上に驚きを与え、これ以上に説得力のある伝達方法はほかにない。福音伝道に最も有効なのは、上手な言葉や理論でなく、信仰によって変えられた人の存在そのものだ。
◇この男の変化とは、単に狂気が鎮められたというだけではない。かつて自分自身を傷つけ、自暴自棄になっていた彼が、2000匹の豚を代償にして生まれかわった。それは神が、この男を被造物の位置に取り戻したいと望まれたからだ。「自分を失っても平気だ」と言っていた者が、「おまえを失いたくない」という神の愛の中で多くの財産を犠牲にして自分を取り戻すことができ、その愛を感謝し、愛を宣べ伝える者となった。
◇尊いものを犠牲にしてまで、失われた魂を本来の場所に取り戻す神の愛。その究極は主イエスを十字架に差し出して人間の罪を帳消しにするという贖罪の行為である。そこに「究極のいやし」がある。
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