◇羊飼いの少年ダビデは戦地にいる兄たちに食糧を届けに来た時、身長3メートルもある戦士ゴリアトがイスラエルの陣営に向かって大声で叫ぶ声を初めて聞いた。そして「イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた」(24)という大人たちの実態に失望した。この「イスラ・エル」というヤコブに付けられた民族名は、「神と争う」あるいは「神が戦う」との意味だ(創世記32:29)。少年ダビデは言う、「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」(26)。神の戦いを戦う神の民が、不信仰(無割礼)な者によって辱められ、神が卑しめられていることに対してダビデの怒りは燃えあがった。
◇サウル王が自分のよろい兜を着せたが、「こんなものを着たのでは、歩くこともできません」(39)と脱ぎ捨て、いつもの羊飼いの道具だけ持って巨人に向かって行く。「ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた」(49)。有名な場面である。
◇ダビデはゴリアトに対して、「万軍の主の名によってお前に立ち向かう」(45)と言い、「この戦いは主のものだ」(47)と言っている。人間の力強さによって勝った戦いではなく、神が戦いたもう(「イスラ・エル」)戦いゆえに与えられた勝利だ。天地創造において無から有を創造し、闇を封じ込めて光を輝かせ、海を封じ込めて地上の生物が生きる場としての陸を出現させ、聖なる秩序を実現された神。そして神の勝利によって実現した聖なる秩序を、私たちに管理させるために、私たちと共に戦い、勝利したもう。私たちは自力で戦うのではなく、神の勝利の跡をなぞるのだ。
◇たとえ眼前に立ちはだかる敵はゴリアトのように強大であっても、神への挑戦はそれ自体が無意味であることを知らせるのが私たちの務めだ。その「敵」とは特定の国や組織団体などではない。真の神を神と認めないあらゆる勢力である。そこには私たち自身の疑いや不安や恐れも含まれる。被造物である世界と人間を聖なる秩序の中に置き、いのちを豊かに生きること、生かし合うことを促す神に対抗し、神のみこころを否むあらゆる勢力、すなわち罪の支配こそが私たちの敵である。
◇この戦いに私たちは、人間の力によってではなく、「万軍の主の名によって」、すなわち神ご自身によって戦う。創造の初めから既に勝利しておられる神の戦いに、私たちはただ参与するのみ。「この戦いは主のものだ」。この戦いを戦う群に与えられている神の勝利のしるしが十字架である。十字架を仰ぐ「新しいイスラエル」としての教会。少年ダビデのように無力ではあるが、神の勝利のみ跡をたどるということにおいて、そこにおいてのみ私たちは偉大であり得る。「主が共におられ、味方となられる。何を恐れよう」(讃美歌21-392)。
|