阿佐ヶ谷教会 礼拝説教集 (2006年08月)   
2006.08.27 <聖霊降臨節第十三主日礼拝>

「清く、正しく」

 エフェソ書 4:17-24 
伝道師 堀江 綾子


◇そこにあるとわかっていてもなかなかつかめないもの、空気、音、夢。「清さ」「正しさ」もその一つかも知れない。これが正しいと思った瞬間その正しさはがらがらと崩れてしまう。そして清さ、正しさを求めるよりはきたない現実の中で慣れ親しむ方が心地よいと、いつしか清さ、正しさを求めることを忘れてしまう。そんな私たちに今日のみ言葉は語りかける。「だから以前のような生き方をして情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって創られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(22-24節)


◇例えば、人間関係において、清さを求めてもうまくいかない壁にぶつかることがある。この人のことをよく理解しているつもりでいても実は自分の考えの中に相手を引っ張り込もうとしているだけだったりして、結局分かり合えていなかったりする。清さ、正しさを追い求めた結果、知ったのは汚れのみであった。しかし、ある意味それでよいのだ。なぜなら、私たちが自分の汚れを知るとき、それ以上にもっとひどい汚れを知っている主イエスが私たちの元へ近づいてきてくださるから。自分がどんなに人を憎んだかと自己嫌悪に陥るときそれにも勝る憎しみを引き受けられた主イエスがそこにおられるから。私たちが手に収めることなく風に舞い上がらせてきたその現実を、主イエスの目を持って見るとき、私たちは目をそむけずに直視できるようになる。まずは、ありのままを受け入れてよいのだ、と。

◇現実に目を向けるとは同時に神に目を向けること。「神を知っているのに、神として崇めてこなかった」目も当てられない現実の中で神への信仰を疑い続け、知っているのに知らない振りを続けた結果、次第にその思いが硬直し心が頑なになっていく。そして神の命から遠く離れたところに行き着いてしまう。しかしその果ての先に、この先はもうないぞと言って釘を打たれたその両手を広げて立っていてくださる主イエスが、そこにおられる。

◇改めて「清さ」「正しさ」とは何なのか問う。正しさとは義、神と私たちの正しい関係のこと。また聖書が清さを現す言葉は三つある。一つはきたないものに触れていない清さ。二つ目は神に属するものは清いという意味において使われる清さ。三つ目は神によって定められ、神の意志にかなっているという意味での清さ。ヘブライ語の神に愛されているという意味の単語との関係があることから「神の愛を一身に集めている」という意味をも含む。今日共に聞く清さは3番目。主は私たちを選び、清い者としてくださっている。汚い現実に目を向け嘆くのでなく、清い者として私たちを創ってくださった主を見上げて歩むことこそ真理に基づいた清く正しい生活。不完全さに留まりつつも、完全なお方に触れ続けるため、今日も明日も神のみ前に祈り、礼拝を捧げてゆきたいと願う。神の形に創られているのだから。




                                    
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2006.08.20 <聖霊降臨節第十二主日礼拝>

「何をしてほしいのか」 

 マルコ福音書10:46~52 
 牧師 大 村  栄

 ◇道端で物乞いをする盲人バルティマイは、主イエスが通り掛かるのを聞いて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。「主よ、憐れみたまえ」は「キリエ・エレイソン」。「ダビデの子」は力による改革を期待する呼び名だ。自らを「人の子」と呼ぶ主は、力によってでなく十字架の贖いによって救いをもたらす。バルティマイはそれを正しく埋解していないが大声で激しく求め続け、これが彼の人生を変える奇跡を起こす切っ掛けとなった。私たちも、正確な理解の探求を超えて、ただ「主よ、あわれみたまえ」と祈り続けたい。

◇主が「わたしに何をしてほしいのか」とたずねた時、バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と即答した。彼はこれを求めることに人生の焦点を合わせてきた。そして主イエスはそれを実現する力のある方だという確信が彼にあった。だからこそ「憐れんでください」と何度も叫んだ。

◇主イエスは歩みを止めて振り返り、「あの男を呼んできなさい」と命じる。バルティマイはどれほどこの時を待ち続けたことか。「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」。生活必需品の上着を捨てて行くというのは、必ず見えるようになるという確信が彼にあったからだ。しかしその上着が王衣だったら捨てられなかったろう。待ち続けるとは、招きに応えて立ち上がる準備をすること。それは持物を増やさないということ。彼のそのような姿勢が「あなたの信仰」と評価され、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。ここでは信仰とは、確信を持って待ち続け、求め続け、呼ばれれば応える備えを怠らないこと。

◇「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」。キリストにいやしを求めたバルティマイは、いやされた時にキリストの道に従う者とされた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と言われたキリストは、まさにご自身が「自分を捨て、十字架を背負」うことによって永遠のいのちへ勝利を実現された。

◇「何をしてほしいのか」との問いに応えて、「求めているものを神に打ち明け」(フィリピ4:6)よう。そこで与えられるのは、十字架の主から託される人生の重い課題である。しかしそれを通して私たちが最上の未来への希望を生きる者とされることを信じたい。「あらゆる人知を超える神の平和(平安)」(同4:7)がそこに実現することを確信する。

◇弟子たちを含む周囲の人々は、始めバルティマイを叱って黙らせ、イエスから遠ざけようとした。しかし主の「あの男を呼んできなさい」との命令に従って、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、主の招きを取り次ぐ人となった。ここにキリストの招きを取り次ぐ教会と私たちの使命がある。




                                    
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2006.08.13 <聖霊降臨節第十一主日礼拝>

「自分の足でまっすぐに」  

  ヘブライ書12:1-13
 牧師 大 村  栄

◇手足が萎えたときはリハビリテーションが必要なように、信仰にも鍛錬が必要である。その鍛錬は「競争」にたとえられる。「1:すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。人と争う競争ではない。各自「自分に定められている」信仰の生涯という競走だ。見えない未来の希望に向かう道を走る競争を雄々しく走り抜きたい。

◇私たちは「1:おびただしい証人の群れに囲まれている」。そのことが競争の支えとなる。「証人」は「殉教者」と語源を同じくする。単なる証言者ではなく命がけで生きた証しする人のこと。1章3節以下のアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセなどは皆生涯を主に捧げて生きた。その殉教者の究極が「2:信仰の創始者また完成者であるイエス」である。この方を「見つめながら」歩むのが信仰の道である。周囲に証人たちの声援を受けながら、正面にキリストを見据えて走るのが信仰の歩みだ。

◇「イエスを見ると、イエスを見つめれば、見つめるほど、自分がはずかしくなるのです。それと同時に、イエスに魅せられるのです。不思議に勇気を与えられるのです。その時、自分は誰かに捕らえられているのです。見えない大きな手に」(木下順治)。

◇私たちが見つめる主イエスは、誰よりも壮絶な試練を経験した方だが、及ばずながら私たちも人生の途上において罪との戦いを経験する。それは「主の鍛錬」である。「6:主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる」。父は愛する子に鍛錬を与えたもう。「神の子」の筆頭はイエス・キリスト。神の鍛錬を率先して受けて十字架の受難を経験し、それを通して天の栄光に入られたこの方を長子として、私たちも「神の子」と呼ばれる者とされた。この私たちの経験する鍛錬こそが「神の子」のしるしであり、神の国を目指す希望の旅路を歩む者とされたしるしなのである。

◇「11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。「義」は神との関係だが、それが発展して社会の平和、人と人との平和を実現し、世界に愛の実りをもたらす。

◇「12:萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。これはイザヤ書の引用でもある。「花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。…人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。3:弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ」(イザヤ35:2-3)。かつてイスラエルの民が期待され、今や教会の民が期待されているのは、神の子であることを自認する信仰共同体として、この世に花を咲かせ、神の栄光を現すことだ。「すべて神の栄光を現すためにしなさい」(教会標語)。教会はこの喜びの課題を生きる群れとして、各人は人生の目標を確信する者として、イエスを見つめつつ信仰の旅路をたどっていこう。





                                    
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2006.08.06 <聖霊降臨節第十主日礼拝>

「キリストの体」

 Ⅰコリント12:14-26
 伝道師 北川 善也

◇我々の教会が奉じる教団信仰告白は、教会の務めを、「公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」ことと告白する。教会に示されているのは、こうして少しずつ成長していく伝道のビジョンだ。だから、我々は日本の伝道が振るわないと言って気にしすぎる必要はない。我々に欠けているものをすべて、余りある形で補ってくださるお方が我々の信仰対象だからだ。我々が欠いてはならないのは、そのお方に喜ばれる正しい礼拝をお献げすることである。

◇阿佐ヶ谷教会八十余年の歴史の中で、いったい何人の伝道者が生み出され、世に送り出されていったか。過日、川村菊枝先生の葬儀が執り行われた。先生は、1930年、阿佐ヶ谷教会で平岩愃保牧師から受洗され、その後教会が力を失いかけていた時に行われた祈祷会で得た喜びによって伝道者として献身された。川村先生は、キリスト教主義学校での若い魂への福音の種蒔きに情熱的に取り組まれた。この先生を筆頭に、阿佐ヶ谷教会がこれまで生み出した伝道者の数を見ただけでも、教会の伝道は決して停滞していないということがわかる。

◇教会成長の根拠は主イエスの御言葉、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:16以下)である。この主による宣教命令を受けて、我々は終わりの日まで伝道を続けるのだ。

◇我々がこの世において教会と共に歩めるのは限られた短い期間に過ぎない。しかし、我々は、この世の死で終わることなく、永遠の命を与えられ、父なる神のみもとに赴かれた主イエスによって教会へと呼び集められている。教会の成長は、人間の尺度では到底計り知ることの出来ない「終わりの日」という地平に向かって、主の導きのもとになされるのだ。しかも、主は我々にとって未知の領域であるそのような状況においてさえ、我々を単なる傍観者にしてはおかれない。我々は、教会を成長させるダイナミックな業の一端を担う事を赦されている。

◇「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26節)。体の一部分が感じた、痛みにしろ喜びにしろ、人間は体全体で受け止める。我々が教会という一つの体を構成する一部分であるならば、教会に欠かせない存在である兄弟姉妹の痛みも喜びも、自分のものとして感じるのだ。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)。我々が目指すべき教会のあり方は、まさにこのようなものだ。我々は、同じ信仰に基づきキリストの愛を標榜するこの共同体を拡大することによって平和を目指すよう教えられている。

◇主イエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)と言っておられる。我々は、自分たちが創り出そうとする以前に「主の平和」を与えられている。そして、我々はその平和の主の御体である教会を構成する一部分として召し出され、平和を実現するための業に取り組むよう命じられているのだ。我々がその命令に応えて、それぞれの賜物を平和を創り出すために用いることが出来るよう祈りたい。



                                    
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