◇そこにあるとわかっていてもなかなかつかめないもの、空気、音、夢。「清さ」「正しさ」もその一つかも知れない。これが正しいと思った瞬間その正しさはがらがらと崩れてしまう。そして清さ、正しさを求めるよりはきたない現実の中で慣れ親しむ方が心地よいと、いつしか清さ、正しさを求めることを忘れてしまう。そんな私たちに今日のみ言葉は語りかける。「だから以前のような生き方をして情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって創られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(22-24節)
◇例えば、人間関係において、清さを求めてもうまくいかない壁にぶつかることがある。この人のことをよく理解しているつもりでいても実は自分の考えの中に相手を引っ張り込もうとしているだけだったりして、結局分かり合えていなかったりする。清さ、正しさを追い求めた結果、知ったのは汚れのみであった。しかし、ある意味それでよいのだ。なぜなら、私たちが自分の汚れを知るとき、それ以上にもっとひどい汚れを知っている主イエスが私たちの元へ近づいてきてくださるから。自分がどんなに人を憎んだかと自己嫌悪に陥るときそれにも勝る憎しみを引き受けられた主イエスがそこにおられるから。私たちが手に収めることなく風に舞い上がらせてきたその現実を、主イエスの目を持って見るとき、私たちは目をそむけずに直視できるようになる。まずは、ありのままを受け入れてよいのだ、と。
◇現実に目を向けるとは同時に神に目を向けること。「神を知っているのに、神として崇めてこなかった」目も当てられない現実の中で神への信仰を疑い続け、知っているのに知らない振りを続けた結果、次第にその思いが硬直し心が頑なになっていく。そして神の命から遠く離れたところに行き着いてしまう。しかしその果ての先に、この先はもうないぞと言って釘を打たれたその両手を広げて立っていてくださる主イエスが、そこにおられる。
◇改めて「清さ」「正しさ」とは何なのか問う。正しさとは義、神と私たちの正しい関係のこと。また聖書が清さを現す言葉は三つある。一つはきたないものに触れていない清さ。二つ目は神に属するものは清いという意味において使われる清さ。三つ目は神によって定められ、神の意志にかなっているという意味での清さ。ヘブライ語の神に愛されているという意味の単語との関係があることから「神の愛を一身に集めている」という意味をも含む。今日共に聞く清さは3番目。主は私たちを選び、清い者としてくださっている。汚い現実に目を向け嘆くのでなく、清い者として私たちを創ってくださった主を見上げて歩むことこそ真理に基づいた清く正しい生活。不完全さに留まりつつも、完全なお方に触れ続けるため、今日も明日も神のみ前に祈り、礼拝を捧げてゆきたいと願う。神の形に創られているのだから。
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