◇「知恵文学」であるヨブ記の主題は、なぜ人は苦しまねばならないかということ。1章冒頭で富豪であるヨブをめぐって神とサタンが対話する。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」(1:9)。ヨブの信仰は豊かさの中でこそ維持されている、人間の信仰とは条件によって生ずるものだとサタンは主張し、これを否定する神と対立、両者は賭を行う。財産や家族を失ったときヨブは言った、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ」(1:21)。
◇2章ではさらにサタンが神に挑戦する。確かに財産や家族を奪われても信仰を捨てなかったが、「皮には皮を、と申します」(2:4)。周辺でなくもっと奥を傷つければ必ず神を呪う者となるとのサタンの主張に、神はヨブ自身を傷つけることを許可する。ヨブは「素焼きのかけらで体中をかきむしる」ほどの病いに苦しむが、なおも「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)と言う。ここまでだけ読んでヨブ記を判断しようとするならば、自分はこんな立派な信仰は持てない、との感想で終わってしまう。しかしヨブ記の本当の価値はその先にある。
◇3章でヨブが重い口を開き「自分の生まれた日を呪って言った。わたしの生まれた日は消え失せよ」(3:1-3)。彼の苦悩と悲嘆の言葉がここから始まる。長い対話の中でヨブの友人たちが、苦難にはそれを受けるだけの理由があると主張する。人知れず犯している悪行を天は決して見逃さない。そういう古今東西にある勧善懲悪、因果応報の思想が友人たちの背景にある。ヨブはこれに反発し、自分の苦難の原因は神にあるのだ、「神はなぜ私をこのような目に合わせられるのか」と神に直接問いかけていく。私たちも発するこの問いに神は必ず答えて下さる。
◇しかしその答えは思いがけないものだった。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(38:2)。「経綸」とは神の意志や計画。口語訳聖書では「計りごと」、新改訳では「摂理」。お前はそれらを知らないのだと指摘され、それに続いて神は天地創造の手順やその秩序を述べ、それらをお前はどれほど知っているのかと迫る。人間は自力で世界を豊かに出来ると過信し、その中で起こる苦難や災難には、身勝手な理論や古来の言い伝え、迷信などで分かったようなつもりでいる。しかしヨブ記が告げるのは、実は私たちは何も知らない、知り得ないのだということである。
◇「暗黒の神秘が四方を囲むとも、わずかに澄み輝く奇跡が漏れ知らされることを知るだけで十分である」(ゴルディス)。その「奇跡」とは、独り子をお与えになったほどに世を愛された神の愛である。人は神の「経綸」を知らなくてもよい。大事なのは知ることより信じること。それも愛されていることを信じること、信じて委ねることである。神のみ前に静まる平安と、任せることができる恵みを思う。
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