◇わたしたちはなぜ教会に来るのか?それは教会にこそ、まことの慰めがあると信じているからである
◇「慰めよ、私の民を慰めよ」と神は天使に命じる。慰められるべき「私の民」とはどのような人々か?それは心に染み入るように語らなければならないほど、心がかたくなになっている人々。バビロン捕囚によって故郷において堅く信じていた神との関係が崩れてしまった人々。礼拝を捧げていた神殿は壊され、他 の宗教が盛んな異国の地で神を見失い、信仰を失っていた人々である。
◇そのような人々に、今や苦役は満ちた、と天使が語りかける。その苦しみから解放されるときが来、頑なになるほどに心を縛り付けていた鎖が今や解き放たれるのだと。もちろんイスラエルの人々が過ちを犯したことは事実である。神を王とせずこの世の王に信頼を寄せていた。あるいは他の神々を礼拝していた。 そのような問題を抱えた人々に対して、もはやそれらの咎は償われたと宣言する。それは何か悪いところを改善したから救われたのではなくどのような状況にあろうとも、主の自由な恵みの選びにおいてあなたは救われたのだ!と宣言されるのである。
◇この救いの宣言を天使は預言者に伝え、預言者が人々に伝えるように命じている。しかし預言者はこの救いの宣言を自分には語れないと、その命令を拒んでいる。なぜなら肉なるものはみな草に等しいことを知っていたからであり、人間のはかなさ、あるいは国家と言うものの不安定さを知っていたからである。「 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ」と語っているように主の息が吹きかけるならば、つまり神様が怒りを発せられるならば、罪深い人間は滅ぼされてしまう。今や神のその裁きの中にあるのに、なぜ救いの宣言などできるのか、と嘆いているのである。ある意味この預言者は事実を語っている。人々は戦争に負け捕虜 とされた、これは神の裁きであった。しかしこの預言者は知らなかった。神は徹底的に裁かれるお方であるけれども、同時に徹底的に救いをもたらすお方であることを。
◇「草は枯れ、花はしぼむ」天使も確かに人間は神の裁きに対して無力であり滅びてしまう者であることを認めている。しかし、同時に神より発せられる救いの御言葉が必ず実現するものであることをも伝えている。あらゆる人間の現実、否定の言葉、あるいは耳障りのよい言葉、それらよりも前に、唯一の神の言葉 が先行するのである。未来からその救いが来る、わたしたちの前を行く神の言葉こそ、今なお砂漠に生きる人々の最終的な支えなのである。
◇慰めとは何か、それは他の何ものでもない神のみ言葉が、私たちの前に立つことである。私たちの心に神のみ言葉が立つ。それは私たちが神様のみ名を呼ぶとき、つまり神を礼拝するときにこそ実現することである。神様に名を呼ばれ、私たちも神様の名を呼ぶ、この神様との正しい関係が結ばれるときにこそ神の 栄光があらわされる。
◇1月1日礼拝を持って始まったこの1年、礼拝をもって終わろうとしている。主の名を呼ぶ礼拝を通して慰められ歩み通したこの1年は祝福に満ちたものであった。
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