はじめに
使徒言行録は、紀元80年〜100年の間に、ルカがローマの高官でキリスト教に理解があるか、又はキリスト者であったテオフィロの依頼を受けて「ルカによる福音書」と一対で書かれたと両書の冒頭で記されている。
ルカは、アンティオキヤ生まれの、地中海地方に散らされた(ディアスポラ)のユダヤ人の子孫で、優れた神学者・医者・文学者であった。旧約聖書やユダヤ教の歴史に精通していた。神とユダヤ人との契約、モーセ以来の律法と祭儀の遵守による救い、苦難の中からのメシア待望の旧約思想から、キリストの十字架の死と復活による神の祝福に預かることが新しい道であるとして「ルカによる福音書」を書いた。ルカ16章16節に、律法と預言者はヨハネの時までと言い、神の国の福音を述べている。
ルカは、両書を多くの原始キリスト教の伝承に由来する資料と、直接パウロからの薫陶により書いたと思われる。ルカは、第2回伝道旅行の途中からパウロ一行に加わり最後はローマまで同行している。言行録16章10節、20章5節、27章1節で「私たち」とパウロとの同行を、フィレモン24節、コロサイ4章14節にパウロの両教会への挨拶で「ルカからもよろしく」とある。
ルカは使徒言行録を書くにあたり、初期のパウロ書簡を読んでおらず、パウロの神学を充分に理解していないようなので、使徒言行録とパウロ書簡を比較して進める。
イエスの復活後の弟子達と聖霊降臨
イエスの受難と復活は、驚くべき出来事としてエルサレムのみならず周辺のユダヤ人社会に拡まった。受難時の弟子達はエルサレムから逃走するが、復活のイエスが現れ弟子達を励ます(ルカ24章15節〜、36節〜)。言行録1章3節〜では、イエスが現れ、弟子達にエルサレムを離れないこと、間もなく聖霊による洗礼を受ける希望を与えて昇天された。弟子達は、イエスの顕現により復活の事実と福音の意味を理解でき、勇気付けられた。この間、弟子達は結束と信仰集団として確認を強めることに努めた。
5旬節の聖霊降臨は、弟子達が聖霊を受けて自ら立って「イエスは私たちの罪を贖うために死に、葬られて復活した。イエス・キリストはやがて到来する世の終わりに、栄光の姿で現れ万人を裁く」との福音を述べた。言行録1章8,9節のイエスの言葉、「聖霊を受けてエルサレムのみでなく地の果てまで私の証人となる」。この実現に歩み始めた。
エルサレム教会
当時のエルサレムにはディアスポラとなって周辺の国々に住んでいたギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)が多く住んでおり、キリストの福音を受け入れた。しかし、弟子達は、割礼を受けたユダヤ人の神殿でのみキリストの十字架の死と復活の福音を述べ伝え、ヘレニストや異邦人は疎外された。また、イエスをキリストとして認めた福音を語る一方で、律法主義を徹底的に否定できず伝統的なユダヤ教の枠内の留まった
ヘレニストの追放
信徒達の数が増えてヘレニスト達に不平が出たので、7人の弟子を選出させた。 その中にはステファノなどディアスポラのユダヤ人が多かった。彼らはヘレニズムの影響を受けて、旧約以来のユダヤ思想に強い拘泥を持たず、イエスの福音を素直に受容し、モーセ以来の律法の修正や神殿礼拝、祭儀の無用など、ユダヤ教側にとって癪にさわる主張を行った。ステファノは傑出した人物で力強い説教としるしはユダヤ人側の妬みをかい、モーセと神を冒涜したとの偽証により石打の刑になった。(言行録6章)
ルカは、この殉教とキリストの殉教を対の出来事として描いており、弟子達がイエスを見殺しにして逃亡し、ステファノの時もペトロ達はステファノをかばえず、弟子達の弱さを表現している。
ステファノの殺害と同時に、言行録8章にあるヘレニスト達の迫害が始まった。一方、 12使徒やアラム語を話すユダヤ人キリスト者は、律法を守り神殿崇拝の否定などに控え目で、パレスチナ的敬虔の伝統のなかにいるとみなされ追放されなかった。
ヘレニスト達は、マタイ10章22、23節のイエスの教えにある「わたしの名のためにすべての人に憎まれる・・・」のように、ステファノの殉教をエルサレムへの神の裁きと認識して、敵対者の暴力には意気消沈することなく、自分達の道の正しさを確認した。ヘレニスト達のエルサレムからの追放は、神殿崇拝や祭儀律法からの自由と、福音のユダヤ教周辺移民や異邦人への伝道など布教上の新しい方向を作りだした。フィリポのサマリア、カイザリア伝道など広く地中海域への福音伝道が始まるのである。
パウロの召命
パウロはタルソ生まれのディアスポラのユダヤ人で、ファリサイ派の属し若き日にエルサレムで著名な律法学者に厳しい教育を受けた。フィリピ3章5、6節に有名な、8日目に割礼を受け・・・ヘブライ人の中のヘブライ人・・・・などの自己紹介がある。ヘレニスト達のユダヤ教をおとしめる布教を許せず、ヘレニスト迫害に出てダマスコ途上でキリストの顕現を受ける(言行録9章1節から)。目も見えず食事も取れない3日間を過ごして、神の命を受けたアナニアから洗礼を受けた。そして、アナニアから「サウロを異邦人や王たちやイスラエルの子らに、わたしの名を伝える為の器である・・・」との神の命を聞いた。その後、パウロはダマスコのユダヤ人キリスト教団に属して伝道するが、ユダヤ人に憎まれ殺されそうになり、弟子達がダマスコから脱出させた。
ルカは、聖霊降臨、福音がエルサレムから小アジアへ、ギリシャからローマへと伝播して行くときに、その過程で起こる新しい展開や教会の重大な決断を、異像や幻の形で導かれる。これらは、単なる幻覚でなく、教会の発展と福音の伝播が神の御意と導きで行なわれている証明であり、パウロへのキリストの顕現も異邦人伝道をさせるための神の行為であるというルカの神学として読むべきである。
パウロのエルサレム訪問
その後パウロは、3年位アンティオキヤを中心に伝道を行ってから、エルサレムから派遣されたキプロス出身のレビ人で、有力な信徒であるバルナバに連れられエルサレムに出かけた。パウロは自分の「復活のイエスの顕現」とエルサレムにいる使徒達のイエスの生前の姿、受難と復活や顕現の体験が同じ出来事あったかどうかを確認したかった。パウロには彼の伝道にとって大切なことであった。言行録9章26節以下で、イエスの弟子達との自由な交流が述べられているが、パウロの書簡では少し違って、ガラテヤ1章18節以下でペトロと主の兄弟のヤコブとのみ逢い15日間滞在したと言う。Tコリント 15章5節から、ケファに現れ、ヤコブに現れた復活のキリストは同等であると宣言する。
パウロが、他人の言説を反復するのでなく、エルサレムの指導者から任命されたのでなく、直接復活のキリストに召されて使徒になったと言う。ガラテヤ書冒頭で、「人からではなくキリストを死者の中から復活させた神によって使徒とされたパウロ」と宣言する。
また、フィリピ3章8節では、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ており、それらは塵あくたであると見做している。キリストを得て、キリストの内にいる者と認められるためであると言っている。
パウロは本来異邦人だけでなくユダヤ人達にも福音を伝える義務を負ってい
た。ロマ15章19節からエルサレムからイリリコンまで、Tコリント9章20節から、
ユダヤ人にはユダヤ人のように、ユダヤ人を得るために、・・・。ルカは、パウロの
律法、祭儀を否定する福音がユダヤ人の反発をかい、ヘレニストや異邦人へと
向かうという図式を示している。ルカは言行録11章26節で、キリスト者がクリスチ
ャンと呼ばれるのはアンティオキヤが最初と記している。
パウロの宣教は、ロマ3章23節から、「人はみな罪を犯して神の栄光を受け入れられないが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる。我々の罪を贖う供え物となったイエスを信じるものが義とされる」。神との契約に忠実であるか、律法を守るかとは無関係に、神の主権性と愛から罪人を受け入れる恩寵と、 その恩寵を素直に受け入れる信仰が肝要であると言う。
エルサレムの使徒会議
パウロ達のアンティオキヤを中心とする福音伝道の成功は、エルサレム側の異邦人伝道への疑義を与え、割礼の強要などモーセの律法の遵守を要求して、両教団の対立が激しくなった。言行録15章から使徒会議の模様が示されている。また、Tテサロニケ2章14節からで、ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、 私達を迫害し・・、異邦人が救われるよう私たちが語るのを妨げていると批判している。
使徒会議では、ペトロが15章10節で先祖が負い切れなかったくびきを、なぜ今彼らに負わせるのかと言ってパウロたちを執り成し、この結果、穢れた肉と淫らな行いを禁ずることで決着した。
パウロは、ガラテヤ2章5節からで会議の顛末を述べ、異邦人のテトスへの割礼の強要やパウロたちに何の拘束も無かったこと。ペトロには割礼を受けた人への伝道、パウロには割礼を受けない異邦人たちへの伝道とそれぞれユダヤ人と異邦人への伝道の棲み分けを行った。パウロとバルナバの妥協の無い振る舞いが、律法に拘束されない伝道への正当性を承認させた。
ペトロがエルサレムを出てアンティオキヤに来たとき、初めは異邦人と食事をしていたが、イエスの兄弟のヤコブのもとから人が来たとき、ペトロばかりでなくバルナバをも異邦人との交わりから身を引いた。パウロはガラテヤ2章11節で、ユダヤ人でありながらユダヤ人らしい生き方をしないで異邦人のように生活をしているのに、どうして異邦人にユダヤ人のような生活を強要するのかと、面罵している。パウロは、イエスの直弟子の筆頭であるペトロを罵倒してまで、福音による律法からの自由を守ろうとした。
パウロによる積極的な福音伝道は、小アジア、ギリシャの諸都市に多くの教会が造られ、いよいよキリスト教が世界へと歩み出した。
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