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    2008年5月25日  
  日中外交の原点と今後の課題 
  講師 中江 要介  

1.日中国交正常化の背景
日本への台湾等の割譲は、日清戦争の勝利後の清国との交渉で行われた。日本と中国との戦争は、1931年の柳条湖事件いわゆる満州事変から1945年の第2次世界大戦敗戦までで、蒋介石が率いる中華民国を長年蹂躙した戦争であった。第2次世界大戦での敗戦後の処理は、米英中3国すなわち、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石によるカイロ宣言、ポツダム宣言により、満州、台湾及び澎湖諸島を日本から取り上げて中華民国に返還することになった。これの履行は日本ではなく3国の責任であるがそれは実施されなかった。 日本はサンフランシスコ条約で台湾及び澎湖諸島への全ての権利を放棄した。そしてアメリカの意図で、日本は中華民国と国交を結んだ。(「日華平和条約」)
一方中国では民族開放闘争により、中華人民共和国が大陸全土を掌握し、中華民国は台湾に逃れた。
毛沢東は、台湾の開放をまたずに1949年10月に建国の宣言をした。このことは、革命の矛先を台湾に向けずに中途半端になり、「一つの中国」か「中国と台湾の二つの中国」かなどの問題を残してしまった。また、国連における代表は中華民国政府であったが、1961年から10年かけての交渉と投票を繰り返すうちに、中華人民共和国政府がアフリカや中南米の国々の票を集めて、1971年の国連総会で代表権を取得した。
この頃の日中間では、政治とは別に経済関係が進み、中国への投資も多くなり、日中友好協会の働きで
中国との政治的繋がりを持つべきとの声が高まった。 私は、日中国交正常化の1年前の1971年から7年間アジア局に勤務した。交渉には多くの問題をかかえ、特に台湾との関係が大問題となった。周恩来首相が日本との国交回復の前提としての三原則を持ち出した。中国のような多民族を抱えた巨大な国では単純な原則を用いることが多い。即ち、
(1)中華人民共和国政府は中国での唯一の合法的な政府である。
(2)台湾は中国に属する。
(3)「日華平和条約」は合法的な中国との条約としては認められず無効である。
中国との国交を拓くためには、この三原則を満たさなければならなくなった。機は熟したが、日中国交正常化には台湾との国交断絶が厳しい条件となった。
2.日華断交
 この時までの日本と台湾の関係は、政治経済上何の問題もなく友好的であった。時の外務大臣の大平正芳氏は、「中国問題とは台湾問題であり、これの処理にかかっている」とよく言っていた。当時日本と中華民国は、アメリカがもくろむアジアにおける反共の包囲網の一部を担うことになり、日本はアメリカの援助の下に復興成長した。この関係から、中華民国からの賠償の要求はされなかった。
 1972年9月29日になされた日中国交正常化の共同宣言に先立ち、9月17日に自民党副総裁の椎名悦三郎氏が政府特使として、「戦後に受けた中華民国への恩義は忘れず、政治的にも従来の関係を継続したいが、諸般の事情により若干疎遠になるので我慢して欲しい」旨の田中親書を持って台湾に行き、随員として私が随行した。台湾では日中正常化に反対する市民の激しいデモに遭い、生卵を投げられたり車を棒で叩かれたりした。蒋経国総理との会談では、親書は意味をもたずそれぞれの国に事情がありながら、両国の面子が立つ状態で決着できた。椎名氏と蒋経国氏の二人の人格の触れ合いの中で解決できた面が大きかった。
3.日中国交正常化
 日中平和友好条約と国交正常化のどちらを優先するかについては、周恩来の提案が大きかった。彼は、条約を結ぶのには日本での政治的環境のなかで、国会で審議して正式に承認するには問題が多いので、先ず両国の首脳が国会の承認を経ずに共同声明という形で国際約束が出来る国交正常化を選び、大使の交換をはじめいろいろな関係を深めたのち、平和友好条約を結ぶことになった。周恩来の慧眼と指導者としての資質をみた。
 国交正常化交渉は、1972年9月29日に田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進氏などが出席して調印された。国交正常化交渉は、周三原則による日華断交も終えて、茅台酒を飲みながら「おめでとう、おめでとう」と言いながら容易に締結された。
4.日中平和友好条約
 国交正常化から平和友好条約の締結までに6年を要した。国内にはこの条約を結ぶにあたって多くの問題があった。条約締結を推進した人の外に、共産主義は認めず台湾との関係が大事と主張する人が多くいた。1977年になり当時の福田赳夫首相は、我々を自宅に呼び平和友好条約を熱心に勉強し始めた。これによって条約締結の行く先が見えた。福田派には、対中強硬派や台湾派が多かったが、福田首相は派内を丁寧に説得した。中国に強硬と見られた人が首相となったため、それが反対派を抑えられた要因であったと思う。
 条約の中に「反覇権条項」があることで交渉が難航していた。相手を力で押さえ込む覇権について、両国はこれを行使せず、覇権を求める国には反対するということである。日中共同声明にも米中コミュニケにもこの条項が入っている。1975年の東京新聞のスクープでこの条項は対ソ連を意識した条項であると指摘されたので、ソ連、親台湾派や親ソ連派が勢いを得た。この締結は日ソ平和条約の妨げとなり、日ソ関係を悪化させると言っていた。日本とソ連は友好を望むが中ソは対立状態にあり、この条項では両国がそれぞれ納得できる毒抜きが必要であった。その条文として「この条約は第三国との関係に関する立場に影響を及ぼさない」を入れることで交渉していた。
8回の交渉を行い上述の条文が入る締結できるかをどうかを決断する時期になった。
8月1日の日本大使公邸でのレセプションで、私は中国の高官に、華国鋒主席のルーマニア訪問の時期を問うたところ、8月18日であるとの答があり、これで条約は締結できるとの確信を得た。華国鋒主席がこの条約をもってルーマニアでソ連からの引き離し工作をすることが想定できた。私は帰国を命ぜられ、有名な箱根会談でアジア局長の発言が注目されるなか、福田首相以下にこの条約は必ず締結できると進言した。すぐに園田外相が訪中し、1998年8月12日に上述の条項を入れた条約が締結された。
これぞ外交のプロの仕事であったと自負している。
5.今後の課題
 日中関係には、まだ、多くの課題がある。日中友好で問題を起した事柄として二つ上げると、江沢民総書記の歴史認識問題と小泉前首相の靖国参拝がある。江沢民総書記は日本に来て早稲田大学での演説や宮中においてすらも、日本が中国で行った暴虐を充分に謝っていないと言い、歴史教育の不十分を不必要に言い続けた。
また、小泉首相は中韓両国の反対を押し切って強引に靖国参拝を続けた。中国の言い分は、日本に賠償を要求しなかったのは、戦争を起したのは一部の日本軍の指導者で日本国民も過酷な戦争を強いられた被害者である。憎むべきはA級戦犯であると国民に説得したこともあり。これらA級戦犯を祀っている靖国神社に首相が参拝するのは許せないと言うわけである。同じく初めて公式参拝をした中曽根元首相は、中国の言い分に理解を示し一度で参拝を取り止めた。
 歴史教育の問題は大切で、日本史で日本が起した戦争でアジア諸国を蹂躙した歴史を正しく教えておらず、植民地解放に貢献したかのごとき発言をする政治家すら見受けられる。三民主義を掲げた中国解放の父孫文が、1924年11月に神戸で行った大アジア主義という演説、「西洋覇道の番犬にならず、東洋王道の干城たれ」がある。西洋の「力による威圧や搾取」ではなく、東洋的な「信義に厚く道徳的で話し合いによる王道」を歩んで欲しいと言った。日本は、逆に戦争の道を選び、特にテロとの戦いからアメリカの方向は、覇権主義が鮮明になり、友好国以外は敵と見做し、アフガンやイラクへ凄まじい介入をしている。
「前事不忘後事之師」、歴史を鑑として未来を拓く。この言葉を心に留めて進みたい。
中国は改革解放政策を進める努力しているが、一党独裁の国というばかりでなく、巨大な国を近代化するのは容易ではない。情報開示や透明性を持った国の運営には時間がかかる。それでも少しずつ進歩していると思う。中国を見るとき、「断定は許されない」ことで対応すべきである。心と心を通じさせて話し合うことが道をひらくことになる。
かつて福田赳夫首相が提唱した(1)日本は軍事大国にはならない。(2)物や金でなく心と心を結ぶ外交。
(3)体制や主義主張を越えて平和共存する。いわゆる福田ドクトリンは海外首脳から高い評価を得た。日本はこれからも、アジアの中で特に優位な国であると思い上がり、他の国を見下すような姿勢では、世界中の国から尊敬されず孤立するばかりであろう。                     (文責:玉澤武之)



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