はじめに
使徒言行録をみますと初代教会の伝道は、聖霊降臨から始まっています。今回は、パウロの第二、第三伝道(宣教)
旅行における次のことに焦点を当ててお話したいと思います。
@伝道(宣教)者、Aパウロたちの同労者、Bその伝道により「キリスト者」となった人々。すなわち、何が初代教会
の使徒たちを伝道へと駆り立てたのか、伝道をしないではいられない気持ちにであったのか、私なりに捉えたことをお話
します。そして、併せてその同労者とその伝道により信仰者(キリスト者)の群に加わった人たちの姿を見てみたいと思
います。
異邦人伝道の拠点であったアンティオキアの教会
アンティオキアの教会は、異邦人伝道の拠点となりました(使徒 11:19〜26)。聖霊降臨後、ペトロたち使徒
を中心とする弟子たちはイエスがキリストであること、自分たちがイエスが復活したことの証人であることを大胆に、多
くのユダヤ人たちに語り始めました。その結果、弟子の数が増え、その中にはギリシャ語を話すユダヤ人の一人である
ステファノもおりました。主イエス・キリストの恵みと力に満ちたこのステファノは死をも恐れず、イエスが真の救い主であり
、復活して神の栄光を受け天に挙げられたことを説教したのです。その結果、ステファノは殉教してしまいます
。
そして、このことをきっかけにエルサレムの教会に対する大迫害が起こり、使徒たちほか多くの弟子たちが、各地に散らされていきます。その散らされた人々がアンティオキアにも行き、ギリシャ語を話す人々にも主イエスについての福音を語りかけ、異邦人も多く信じるようになります。ついにアンティオキアに信仰者の群ができ、エルサレムにある教会は聖霊と信仰とに満ちていたバルナバを遣わし、その指導をも受けてアンティオキアに教会が生まれたのです。
なぜ、弟子たちはキリスト者と呼ばれたのか
使徒言行録11章26節には、「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」と記されています。では、なぜ弟子たちはキリスト者(【ギ】クリスティアノス、口語訳では「クリスチャン」)と呼ばれたのでしょうか。忘れてはならないことは、キリストを信じない人々が「キリストを信じる人々」を嘲り、あだ名として“キリスト者”と呼んだことです。ギリシャ語の「クリスティアノス」には、“キリストの奴隷”という意味もあります。
弟子たちの信仰生活をみて、彼らが事あるごとに“キリスト”、“キリスト”と言い、あたかもキリストの奴隷でもあるように、キリストを中心に生活をしている姿から、人々は弟子たちを嘲笑って、「キリスト者」と呼んだのです。ですから、「キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(ペトロ一 4:16)と記されています。キリスト者と呼ばれることは、初代教会の弟子たちにとって苦しみであったのです。キリスト者と呼ばれ、辱しめを受けていたのです。この聖霊に満たされ、信仰深いアンティオキアの教会が異邦人宣教の拠点となり、
第一伝道旅行の際、パウロとバルナバはここアンティオキアから出発して(使徒13:1〜3)、その働きはアンティオキアの教会に報告されました(使徒14:26)。さらに、母教会であるエルサレムの教会やユダヤの諸教会を支援するほどに成長していきました(使徒11:27〜30)。そして、古代キリスト教会の中心となり、“アンティオケ学派”と呼ばれる聖書学の中心地ともなったのです。
伝道旅行の目的
さて、第二伝道旅行の目的(出発の動機)は、第1回に訪問した信徒への慰問を目的としていたといえます(使徒15:36)。そして、「シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた」(使徒15:41)ともあり、前回の伝道のフォロー・アップをすることは、宣教者に課せられた任務です。
そして、言葉をかえれば信仰者は、宣教者によるアフター・ケアを必要としているのです。初代教会地代においては、異教の地にあって信仰を保つことは難しいことでした。「弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」(使徒14:22)。指導者は、信仰者一人ひとりを理解し、心配りを忘れませんでした。「また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。」(使徒14:23)
伝道旅行の特徴
初代教会の伝道は、「聖霊降臨」により開始され、聖霊に導かれて継続されたものでした。すなわち、 伝道旅行は、聖霊に促されたものだったのです(使徒13:2)。また、エルサレムにおける使徒会議で異邦人キリスト者の信仰生活指針について聖霊の示す決定がなされ、その決定を「シリア、キリキア」の異邦人教会に伝えるための宣教でした(使徒15:23)。そのように聖霊に示されたものでしたから、伝道者たちはいつも聖霊の導きに従って宣教の業をしました。人間の知恵や計画は虚しく、どのように慎重に立てた計画でも主のみ旨に適わない場合があります(使徒16:6、7)。聖霊から禁じられる場合もあれば、その反対に福音を語れないような状況から脱することもありました。フィリピで投獄されたときは、不思議な出来事により窮地を脱し、福音宣教が実現しました(使徒16:25)。
T 伝道者の姿
では、伝道者を宣教へと衝き動かしたものは何だったでしょうか。それは、私たちの罪の贖いのために御子をさえ惜しまずに死に渡された主なる神への感謝であり、神への愛であります。その愛(【ギ】アガペー)には力があり、最も偉大なるものです(コリント一
13:13)。その愛(【ギ】アガペー)は、死をも恐れないものです。そして、伝道者を宣教へと駆り立てたものは、神の言葉への服従の思い、それはキリストの“奴隷”としての当然の行動でした。彼らは神の命令にはいつでも従おうとする「信仰の熱心さ」がありました。それは別の観点から言えば、自己否定です。自分の考えた計画を捨て、聖霊の導きに従う信仰生活であり、聖霊が示す宣教の業です。
ときとして、伝道者は信徒と同様に働いて自らの生活の糧を得ることもありました。そのように労働、あるいは奉仕をすることにより伝道者は世俗社会との関わりを持ったのです。いかなる状況にも対処できる能力を与えられていました。コリントでは、パウロは信徒の家に住み込んで、テント造りの仕事を一緒にしたと記されています(使徒18:3)。もちろん、状況が許されれば宣教に専念しました(使徒18:5)。その伝道は断食して祈り、神のみ旨を求めつつ行なったのは、言うまでもありません(使徒14:23、16:25)。ですから、反対勢力と宣教への妨害にも耐えることができたのです(使徒16:22〜24)。彼らは、ときには偶像礼拝への憤りを表しました(使徒17:16)。そして、その時代の学識者とも「知恵の言葉」を用いて論じ合うこともできたのです(使徒17:16以下)。しかし、このことに対して、後日「優れた言葉や知恵」を用いることを反省しているような表現もあります(コリント一 2:2〜5)。
伝道者が伝えたことは、キリストの福音、すなわち救い主イエス・キリストが私たちの罪を負い、十字架の上で死に、そして復活された真実です。各地で「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」こと、また「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証をしたのです(使徒17:3)。ですから、フィリピでは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と語ったとあります。「看守とその家族の人たち全部に主の言葉を語った」(使徒16:31、32)。
アテネでは、聴衆に悔い改めをせまり、ナザレのイエスがメシアであることを力強く証ししました(使徒18:5、11)。
U 宣教の同労者の姿
福音を語る宣教者には同労者が必要です。バルナバとパウロは、第一伝道旅行のときはともに宣教の業をしました。2回目の宣教では、同行する同労者を巡って、パウロはシラスを、バルナバはマルコを、との意見の対立があり別行動をしたのです。しかし、この意見の相違があったことにより二つの宣教団が生れたのです(使徒15:36〜41)。決して福音宣教における根本的なことでの対立ではありませんでした。
パウロは、同労者がいることにより信仰に導かれた人々を彼らに任せ、次なる地へと伝道を展開していくこともできたのです(使徒17:14)。では、同労者として相応しい人はどんな人でしょうか。パウロの同労者の一人、テモテのことを聖書は次のように記しています(使徒16:1〜3)。テモテの母はユダヤ人、父はギリシャ人であったこと、評判の良い人で、後にパウロはテモテを「信仰によるまことの子」(テモテへの手紙一 1:2)、「彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者」で、良き協力者であるとも記しています(コリント一 4:17)(ローマ 16:21)。
V 信じた者たちの姿
次にそれらの使徒たちによる宣教によりイエスを救い主と信じた者たちの姿をみてみましょう。フィリピおいては、リディアという「ティアティア市出身の紫布を商う人で、神をあがめる」婦人がいました。
「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼(バプテスマ)を受けた」とあり、自らの家を宣教者、信徒たちに提供しました(使徒16:14〜15、40)。パウロが投獄されたときの看守は、劇的な出来事により「自分も家族の者も皆すぐに洗礼」を受け、神を信じる者となったことを家族」ともども喜びました(使徒16:31〜34)。
さらにアテネでは、アレオパゴスの議員ディオニシオ、ダマリスという婦人(使徒17:34)が、コリントではアキラというユダヤ人とその妻プリスキラ(使徒18:2)という人たちが信仰に導かれています。
もちろん、信じない人々もいました。コリントでは、パウロが熱心に御言葉を語り「ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」のに反抗され、ののしられました。そのときは、パウロは服の塵を振り払って、「今後、わたしは異邦人の方へ行く」と激しい口調で宣べ、異邦人への宣教は拡大していったのです(使徒18:5、6)。そのような状況の中でも、ユダヤ人社会から“村八分”になることも恐れずに「一家をあげて主を信じるようになった」会堂長(管理者)のクリスポがいました(18:7、8)。
こうして、パウロらが福音宣教をした各地で多くの人々が彼らの言葉を聞いて信じ洗礼を受け、教会が拡大していきました。
むすびにかえて
このように、伝道の結果、信じる者も信じない者もいました(使徒 17:32〜34)。しかし、その宣教の評価は神がなさることです。ただ、伝道することは神のみ旨であり(マタイ28:16〜20など)、伝道をしないことはそのご命令に背くこととなり、神の御前では罪になると言えます。
その伝道の方法、手段については、その時代、その地域などを考慮する必要はあるでしょう。これからの時代は、インターネットを活用した伝道なども考えられます。
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