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    2008年7月20日  
  使徒信条について
  中野 実 先生 

今回は、使徒信条がいかに成立し、また、現在の私たちにとっていかなる意味を持つかについて 考えたい。使徒信条は、新約聖書を的確に要約しており、一般的にはキリスト教の教育、特に洗礼準備会で「神と人との契約のしるし」を教える役割を担っている。使徒信条は、 西方教会の流れをくむ信仰告白であり、さらに16世紀の宗教改革者が用いたことからプロテスタント教会でも採用されている。東方教会での評価は違っている。

1.歴史的視点から
 クレド、「われ信ず」は、キリスト・イエスの死と復活の出来事と十二使徒へのキリストの顕現によって、キリストが真の神であることを告白した。命名の由来は、 十二使徒が1項づつ告白して構成されたことから「使徒信条」と称されたと言われたが、今はそうは考えていない。キリストの死と復活と言う宇宙をひっくり返すような 出来事の目撃者である使徒達が、キリストを神の終末的な救済の始まりとし、キリストを救い主であると告白したもの。パウロもまた、キリストの顕現を受けて「キリス トが私たちの罪のため死んだこと。葬られたこと。三日目に復活したこと。ケファに現れ、その後十二使徒に現れ、(中略)最後に月足らずで生まれた私に現れた」 (一コリント15章3〜8)と告白した。信仰告白は、自分が見て信じたことを他の人に述べ伝えるが、伝承の過程で内容の変節がないよう「使徒信条」として守ってきた。 その構成では、マタイ伝28章19節に「あなた方は行ってすべての民を弟子とし、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(中略)私は世の終わりまであなたとともに いる」と三位一体的な神性が示され、また、旧約聖書にも申命記6章4節には「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」と告白の定式がある。
 使徒信条は、2世紀ごろの「古ローマ信条」が原型である。これは、異教徒からキリスト教へ改宗する者が増えるなか、教会の正統な信仰を言い表わし、洗礼を受ける 者に正しい教理の理解を授ける必要から、聖書を包括的に要約して作られた。
 紀元325年のニカイア公会議でのアタナシヲス派とアレイオス派の論争のなかで、父なる神と子なる神は同質であるとする「キリストの神性」を確立した。 紀元381年のニカエア・コンスタンティノポリス信条で「御父より生まれ、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ・・・」と父なる神と同質の神とし てのキリストが記述された。さらに、451年のカルケドン公会議で、「イエス・キリストは真の神にして、真の人である」と神と人との両面を持つキリストを定めた。 このように使徒信条は、いろいろな神学論争を通して勝ち取り信仰の要件を備えたものになった。

2.私たちにとっての「使徒信条」
私たちにとっては、使徒信条は信仰告白の土台になっている。勿論私達プロテスタントの信仰の中心は、ルター以来「聖書のみ」である。しかし、教会が長年築いてきた 伝統があり、この伝統を受け入れるかどうかはカトリックとプロテスタントを分ける要素である。カトリック教会は、聖書のほかに伝統が大きな要素であり、例えばローマ 法王は初代のペトロから継承され、キリストから受け継いだ権限を連綿として引き継いだ存在であり、これを失うわけには行かない。我々のプロテスタントの信仰も「伝統」 を否定するものではない。「使徒信条」も教会が長年培ってきた伝統に属する。この関係を整理すると、聖書は規範する規範であり、伝統は聖書によって規範される規範で ある。使徒信条は、聖書を忠実に表現するもの、聖書を補うものである。プロテスタント教会は、16世紀の宗教改革者以来使徒信条を取り入れ、日本キリスト教団の信仰 告白も、聖書の真理を表現するものとしての使徒信条を持ち、世界の教会とつながった信仰告白を共有している。
 信条(クレド)には、私の全てをキリストに委ねると告白する個人的実存的側面と、公の信仰告白としての公同的側面がある。洗礼を受けるにあたって、使徒信条に表わ される信仰を告白することは、自らのキリストへの信仰を確認することと、歴史を生きた全てのキリスト者が行った告白に参加することとの両面を持っている。使徒信条は、 公の告白であり多くの人と共有するものであるので、礼拝では下を向いての告白ではなく、廻りの人と信仰を確認しながら告白すべきであろう。
私たちが守るべき道はイエス・キリストである。使徒信条は、キリスト教信仰を教え、誤った解釈を防ぎ、信仰の公の表明の役割を果たす。使徒信条はキリストへの信仰の 道筋を示す交通標識、ガードレールとなるものである。

3.使徒信条の内容
 使徒信条は、父なる神、子なる神と聖霊なる神の三位一体の構造になっている。
 「父なる神」では、神の全能と神の創造の業を語る。「子なる神」では最も難解な「処女降誕」が記述される。これは避けて通れないところであろう。神の受肉としての 処女降誕は、人間の知恵を超えた神の奥義(ミステリー)である。神ご自身が自らこの世に来て歴史の一部となって下さり、神の創造の歴史の始まりをもたらして下さった のである。
 「マリアから生まれ」では、イエスが真に人間であったこと、「聖霊によりて」は、神の恩寵の表れと表現されている。また、ガリラヤ伝道等キリストの公生涯の部分が 無いと思われるが、キリストの十字架と復活に凝縮して記述されていると考えるべきであろう。
 「聖霊なる神」では、キリストが来られたのは聖霊の働きであり、神が私たちのうちに働いて心を開き信仰に導いて下さる。公同の教会で、教会を信じると言うのは理解 し難いが、カール・バルトは、「教会は信仰の対象ではなく、神を信じるのと同じように教会を信じるのではない。そうではなく、見える教会やそこで行われる集会のなか で、聖霊の業が出来事となることを信じることである」と整理している。           (以 上)




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