プロテスタント各教派の
最初の宣教師達
日本への最初のプロテスタントの宣教師は、1859年来日の米国聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズ(長崎)である。前年の
日米通商条約の締結により、この年に長崎、神奈川と函館が開港され、外国人が来日できる環境が出来たからである。
同じ年に、「ヘボン」と呼ばれる長老派の医師ジェームス・C・ヘップバーンが医療宣教師として、また、米国オランダ改革派からの牧師サミエル
・R・ブラウン、ダン・B・シモンズ、グイド・H・フルベッキ(長崎)が来日した。1860年には、バプテスト教会のジョナサン・ゴーブルが、1861
年には、オランダ改革派(ダッチ・リフォームド)の牧師ジェームス・バラが日本の土を踏んだ。これがプロテスタント各教派の最初の宣教師達であった。
やや遅れて、1869年にアメリカ伝道委員会(会衆派)のダニエル・C・グリーン(神戸)が到来し、1873年には、米国メソジスト監督教会の牧師メ
リマン・C・ハリスが函館に着任している。
バンドと日本伝道の始まり
日本におけるプロテスタントの流れには、「横浜バンド」、「熊本バンド」、「札幌バンド」がある。バンドとは団体と言う意味である。
ヘボンは、神奈川の成仏寺を借りて、医療活動を行う傍ら、15日後に来日したブラウン、シモンズ両牧師とともに日曜日の礼拝を欠かさなかった
。このことから、成仏寺が日本におけるプロテスタント伝道の発祥の地と呼ばれた。1860年には横浜の居留地に移り施療院を、1863年にはクララ夫
人が英学塾(ヘボン塾)を開いた。1870年には、ヘボン塾で教えていたメアリー・E・キダーが、女子のみを教える洋学塾(後のフェリス女学院)を開い
た。ヘボンは、ブラウン達と和英辞典を作り、1880年には日本語訳の新訳聖書を編纂し終えた。ヘボンが創設に加わった横浜指路教会は今年創立150周年
を迎える。1871年にはジェームス・バラがバラ塾を開き有能な学生が育ち始めて、このなかから押川方義外9名が洗礼を受けた。このグループが「横浜バ
ンド」である。1872年には、日本で初めての教会として教派を問わない横浜公会(現在の横浜海岸教会)が創立された。
1873年には切支丹禁制の高札が外され、信仰の自由が認められたが、これを機会に多くの教派が日本で伝道するようになり、独自の宣教の希望や
本国との関係などの理由から教派に分かれて伝道するようになって行った。ヘボン塾は、1876年にジェームス・バラの弟のジョンに引き継がれ、バラ学
校と呼ばれた。1873年には、サミュエル・ブラウンが自宅に集まった青年の依頼で「ブラウン塾」を開き、押川方義、本多庸一、井深梶之助、植村正久
等がここで学んだ。このバラ学校とブラウン塾から東京一致神学校が生まれ、明治学院につながって行く。
「熊本バンド」は、1871年に熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官リロイ・L・ジョーンズが着任したことから始まる。彼は熱心な会衆
派の信徒であり、キリスト教信仰を生徒達に教えた。1875年(明治9年)、35名の青年が市外の花岡山に登ってキリスト教をもって近代日本の建設を
目指すという高邁な理想を掲げ誓約して信仰に入った。そのなかには、海老名弾正、小崎弘道、徳富蘇峰、徳富蘆花の兄弟等がいた。熊本バンドの学生達は
、1876年の熊本洋学校廃止により、ジョーンズの勧めで新島襄が開校した同志社英学校(後の同志社大学)に加わった。この集団は優秀な伝道者を輩出
した。
「札幌バンド」は、札幌農学校の初代校長に就任したウィリアム・S・クラークの薫陶を受けた教え子によって結成された。クラークは、牧師では
なかったが熱心に「学問とキリスト教」を教えた。クラークと彼の薫陶を受けた一期生とは、「イエスを信ずる者の契約」を結んだ。この一期生には、長年
北大総長を勤めた佐藤昌介や大島正健等がいる。一期生達はクラークに出会っていない二期生に熱心にクラーク精神を教え大きな影響を与えた。二期生には、
新渡戸稲造、内村鑑三、植物学の宮部金吾がおり、これら一期、二期生達がクラーク精神の後継者となった。特に、一校校長になった新渡戸と内村の聖書塾か
らは、東大総長になった南原繁、矢内原忠雄や前田多門、天野貞祐、安部能成、田中耕太郎等戦後民主主義の確立を担った人材を輩出した。札幌バンドは、無
教派の「独立教会」を創設し、無教会派の信仰を広めた。
忘れてはならないのが、「静岡バンド」と言われるカナダメソジストの流れである。徳川慶喜に随行して幕臣が静岡に移駐したが、その子弟の教育
の場であった静岡学問所が、1871年にアメリカの青年E・W・クラークを招いた。彼は、日曜日に聖書を教え、静岡に福音の種が撒かれた。1874年には、カ
ナダメソジスト教団が2名の宣教師を派遣した。その1人の医師であり宣教師のD・マクドナルドは、静岡学問所廃止後に再設された賤機舎の教師となり、科
学を教える傍ら日曜日に自宅で礼拝を行った。初年度に11名の受洗者を与えられ「静岡メソジスト教会」が創立された。平岩愃保は、開成学校の教授になっ
ていたクラークの紹介でもう一人の宣教師J・カックランに出会い、その人格と学問の深さに魅かれて聖書研究会に参加し1875年に受洗した。1884年には、平
岩は甲府から静岡メソジスト教会に赴任して、山路愛山、木壬太郎、太田虎吉等優れた人材を信仰に導いている。旧幕臣で沼津や東京で学校を作るなど教育
に尽力した江原素六もこの流れをくむ。
キリスト者になった人々と封建体制の改革
以上バンドの説明をしたが、旧幕臣の子であった山路愛山によれば、キリスト者になった人々は、旧幕臣や佐幕の藩に属する人々であった。植村正久、
平岩愃保は幕臣、本多庸一は津軽藩士、井深梶之助は会津藩士、佐藤昌介、新渡戸稲造は南部藩士であった。熊本藩も維新に官軍側に付かなかった。彼等有為
の青年達は、政府を支配する薩長土肥に対して敗者側に置かれ,政治的栄達の道が閉ざされた。所謂、負組になった人々であった。
彼等は、後の機会に備えて、西洋文化の中心になった横浜、東京や神戸に出て英語を学び西洋文化を修得しようとしたが、そこで図らずもキリスト教
の教説に捕らえられたのである。彼らが夢みた封建体制の改革は、根元的にキリスト教によって成就されることを示された。キリスト教の中に新しい社会、近代市民社会の倫理と論理を見出したのである。
今日、日本のキリスト教は、インテリや学者の信仰だから人口の1%にも達しないと言われる。本来のキリスト教は、ナザレの貧しい漁師達の集団か
ら始まった。また、日本のキリスト教は、旧幕臣等が敗者としての逆境の中から深い絶望を乗り越えて、天地の造り主である「神」を信じて、力強く伝道へ
向かったのである。このような明治のキリスト者の姿を確認して、新しい時代に立ち向かうことが肝要である。 (文責 玉澤武之)
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