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1.ヨハネ福音書の特質
ヨハネ福音書と共観福音書との違いは、きわめて重要な序章があることです。
最初に書かれた福音書は「マルコ」。西暦70年はユダヤがローマ帝国の支配に反抗し、戦いを挑んだが無残にも敗北した年。この時の皇帝がティトス帝。80年代には「ルカ」、「マタイ」が書かれている。いずれも古典ギリシャ語(コイネー)で書かれました。ティトス帝の弟ドミティアヌス帝の支配した90年代、組織的なキリスト教の迫害が行われ、人々は死の闇にうずくまる日々を送っておりました。
そんな時代を背景に書かれたのがヨハネ福音書であります。 1章1〜5「言」(ことば)の意味。これはイエス自身を指しております。14節「そして言は肉体となり、私たちのうちに宿った」=イエスの受肉=人間となられてこの世に降ったという意味であります。これを「そしてイエスは肉体となってわたしたちのうちに宿られている」と読むと、私たちの信仰の中心的な存在であることが分かります。
18節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる一人子である神、この方が神を示されたのである」唯一の神の啓示者であるという意味です。言はギリシャ語で、ロゴス。 アレキサンドリアのフィロン(前25〜後50頃)という哲学者が、神と世界との媒介としてロゴスという用語を用いた。「神のロゴス」イコール「神の子」とする。言葉と、この世の一切の事象が統一されたのは神の業である、という信仰告白でもある。ヨハネはこれに大きく影響を受けました。
4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。ここでも、分かりやすく言い換えれば「このイエスには永遠の命があった。そして永遠の命は、人々を救う闇を照らす光となった」と読むと良いでしょう。主なる父が固有に持ち給う永遠の生命。イエスが天地創造の以前からおられた方、創造の仲介者であること、父なる方と密接なつながりをもつ方であることが語られております。
2.「しるし」とは
しるし=奇跡とは、奇跡自体のためにあるのではなく、奇跡を越えた究極的なもの、神の国を指し示すために、奇跡を示されたのです。奇跡は、神の真実を伝えるための「しるし」であります。
しかし、これら奇跡のことはすべてユダヤ人や群集に誤解されてきました。
2章のはじめはカナの婚礼。大切な部分は4節「わたしの時はまだきていません」というところ。これは、神によって定められたイエスの死、十字架の時を指します。ご自身が十字架につくべき時。その死によって与えられる「栄光の時」はまだ来ていない。その後に来るものこそ、人類の完全な救いであることを示しております。イエスの最初のしるし(11節)とされております。
現代に照らし合わせますと、私たちが守る聖日の礼拝とは、イエスとの祝宴であります。イエスはカナで、潔めのための水を上等のぶどう酒に変えられた。そしてイエスもこの祝宴に参加された。これは、人間の体を潔める水の役割は終わり、ここでは永遠の救いと恵を与えるぶどう酒を、私たちも礼拝において、ともにいただく。ヨーロッパの多く教会では毎週礼拝にはパンとぶどう酒が出される(聖餐)。こうした祝宴の始まりが「カナの婚礼」なのであります。
3.ニコデモとの対話
これも有名な対話。ニコデモはユダヤ人たちの議員というかなり位の高い人。イエスの弟子になりたがっていたほどイエスに尊敬の念を抱いておりました。しかし、公にイエスに会うことは許されないので、ひっそりと夜に訪問しているのです。
ニコデモの動機や、質問の内容は、現代の私たちにも通じるものがあります。迷い、悲しみや悩みを抱き、求道者として教会の門をくぐる私たち。ニコデモと同じような愚問を私たちも絶えずイエスに問いかけ、日常の延長上の、その場の救いを求めている。しかし、その場その場の救済を求めることだけがキリスト教の信仰ではありません。
5節「水と霊」。これは洗礼によって古い私は死に、6節「肉と霊」新しく与えられた命。7〜8節「風」ギリシャ語では風と霊とは同じ言葉です。霊が吹いてきても私たちは感じることも、聴くこともしない、できない愚かな者たち。
求道したい気持ちは強くても、要するにニコデモは自分が質問している相手がどのような人かを、まったく分かっていない。彼もまた、自分の現実の生活の延長上でしか救いを見出そうとしない、私たちと変わらない信仰の浅い人物だった。マルコ10章12節以下、マタイ19章16節以下にも、金持ちの青年とイエスの対話がありますが、似通った例であります。
4.ベトザタの池で病人を癒す
38年間も病で苦しんでいる人を癒す話。
大切な言葉が6節「良くなりたいか」という質問であります。これは単なる質問ではない。孤独で池に入る力の無い病人の不幸に対する、イエスの無限の憐れみと愛を示しております。人間の不幸をイエスは共に担ってくださろうとする愛の言葉。(ベトザタの池は貯水池であり、間欠泉でもあってときどき病に聞く薬効が吹き出るとされた。そのとき病人たちは争って池に飛び込む)。実は、この病人は罪深い者。わたくしたち人類を指している。この個所の主題は、イエスは何故地上に来られたのかということ。1−29にあるごとく「世の罪を取り除く神の子羊」として来られた。しかしここで、イエスはこの病人に罪の自覚などは促しておりません。単なる憐れな病人としか見ておられない。
「床をかついで歩く」――マタイにも、中風の人を癒すときに出てきます。38年も苦しみを共にしてきた、汗と涙がしみ込んだふとん、すなわち彼の人生そのものを担ぎなおす、取りも直さず、新しく人生を出発し直しなさい、ということです。
「もっと悪いことが起こるかもしれない」(14節)これは、「長い病気が癒された。新しく生まれ変わらなければ、もっと悪いことが起こるのだ」という意味です。
5.ラザロの死と甦り――肉体の死と永遠の命
ラザロの蘇生をきっかけとして、急速にイエスは十字架に向かって歩み始めます。しるしの物語の中で最も大切な個所であります。ここではマルタとマリアという二人の女性が登場。ルカ10章38節にも登場します。この姉妹の弟がラザロであることは、ここで始めて紹介されております。ラザロはヨハネ福音書だけに登場します。
ラザロについて、聖書では何の説明も、またラザロの行ないとか発言もありません。要するに、ラザロとは当事の平凡で貧しい、社会の片隅に生きている取るに足らない男
だったのです。こうした、片隅に生きる人たちに愛を注ぎ、彼が病気だとか死んだと聞くと涙を流される。これがイエスの本当の愛なのです。
大切な言葉は4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。何回か出てくる「栄光を受ける」、とはイエスご自身の死を意味するもの、すなわち十字架の死であります。ラザロの病気と死、そして甦りという出来事を通して、イエスご自身が栄光を受けられるということを言っております。
ここで、イエスはラザロが病気であることを聞いてから、二日間もヨルダンの東側にとどまっておられた。すなわち、ベタニアの地に向かわれなかったのは何故か。ベタニアはエルサレムからわずか2.8キロほど離れた小さな村です。イエスは弟子たちに「もう一度ユダに行こう」と言われた。8節で弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で撃ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。そこでイエスが答えられる。9節「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けばつまずく。その人のうちに光がないからである」
イエスのこの地上での働きの時間は限られている。やがて光の無い夜を迎えねばならないということです。だから、ユダヤ人たちを恐れることなく、ベタニアに行かねばならないわけです。出発を二日間遅らせたのは 弟子たちの信仰を呼び覚まそうとしたからであります。
21節ではマルタがイエスを迎えたとき「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っております。
共にイエスに対する不満が読み取れます。イエスを多少でもなじる感じがある。しかし、ではここでラザロあるいはラザロの姉妹に対して、イエスの愛は冷ややかなものであったかというと、絶対にそうではなかったのです。
この章の数箇所で、イエスの「愛」が表明されております。35節以下では、ラザロの死に対してイエスは涙を流された。ユダヤ人たちは「御覧なさい、この方はどんなにラザロを愛しておられたことか」と言います。ラザロ一家に対するイエスの愛の限りない深さが示されております。このようなイエスの愛のまなざしは、実は私たち人類すべてに注がれているのだと言うことをここで汲み取るべきです。ラザロの死を通して、神の栄光と、イエスご自身の栄光が示されるのだということです。
ここで、大切な言葉が登場します。25節「わたしは復活であり、命である」。
いま、マルタの前に立っておられるイエスご自身が「甦りそのものである」ということです。甦りとは、幻想なんかではない。私たちの現在、今ここに現実にあるのです。26節「わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない」
私たちは、遅かれ早かれいずれは肉体の死を迎えます。イエス・キリストのうちに生きている私たちにとって、肉体の死は、命の一つのあり方から、あたらしい命への道をたどる通過点に過ぎない、ということです。「たとえ死んでも生きる」とはまさにそのことを指しております。
イエスは、マルタに向かって「あなたはこれを信じるか」と問われた。まさにこれは私たちに向けて問われているのです。私たちがこれにどう答えるか。それは、これからの私たちの信仰を左右する重大なテーマであります。
イエスは、決して高いところからこうした問いを発しているのではありません。33節では「イエスは彼女が泣き、ユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。どこに葬ったのか」彼らは「主よ、来て、ご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。
イエスは、私たち人間の苦しみや悲しみを、決して高い位置から見下ろしているのではない。同じ目線で見、ともにいてくださっているということです。嘆きも悲しみも、ともにしてくださる方であります。
33節と38節では「心に憤りを覚え」とありますが、これは私たちがラザロの死に対して、ただ嘆き悲しんでいる様子をご覧になってイエスは憤っておられる。ここの解釈は、人間の肉体の死に対して、ただ屈服しているだけの状態を見て憤られた、とも言われております。さらに、人間をかくも苦しめ、悲しませる肉の死というものに対する怒りである、とも言われております。
神は、人間の死というものを、人間の敗北とか消滅とみているのではありません。ラザロの蘇生を通し、さらに最終的にはイエスご自身の甦りの事実が示しているように、死に対する勝利が、今を生きる私たちに約束されている、ということを学ぶべきです。 |