イギリスとドイツへの巡礼的な旅 −T.玉澤− | |||||
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エディンバラへ・・・ 2003年3月に職業生活を終えて茨城から帰り自由になったので、個人的に興味のある旅をしようと思い、久しぶりのイギリスでコースを検討したところ、エディンバラからロンドンまでの「イギリス文学の旅」というツアーがあった。スティーブンソン、ウォルター・スコット、コナン・ドイルなどケルトの血を継ぐ文学者を多数輩出したエディンバラ、環境保護に熱心だったウィリアム・ワーズワースやピーターラビットのビアトリクス・ポターが住んだ湖水地方、ブロンテ3姉妹が住んだヨークシャー州ハワース、シェークスピアのストラトフォード・アポン・エイボン、イギリスの美しい田園が広がるコッツウォルズとロンドンまでのバス旅行であった。 エディンバラでは、カルバン派プロテスタントのジョン・ノックスが牧したセントジャイルスカテドラルを見学した。ノックスはここで宗教改革者としてプレスビテーリアン派(長老派)を興し、カトリックであったこの教会を長老派の本拠とした。長老派は、今ではカルバン派でも最大の教派になっているので興味深かかった。教会は壮大な伽藍であり、この時エディンバラではミリタリータトゥと いう催しがあったことからか教会への見学者が多かった。 湖水地方では、ワーズワースの住んだダブハウスや羊の牧場をウォーキングしながらポターの家などを見学して、彼女が始めたナショナルトラストなど自然保護の精神を学んだ。 ハワースでは、エミリー・ブロンテが好んで散歩したヒースが美しく起伏に富んだ丘を ウォーキングし、3姉妹が住んだ博物館になった牧師館と教会内のエミリーの墓に詣でた。 |
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ロンドンへ・・・ ロンドンは2日間全てフリーであったので、一度訪ねてみたかったメソジスト派の本部のウェスレーチャペルを訪ねることにした。ウェスレーチャペルは、ロンドンの東側に位置し、地下鉄に乗りバンク駅で乗り換えて2駅目のオールドストリート駅の近くにある。 ジョン・ウェスレーは、1738年にアルダスゲート街のモラヴィア派の集会で2回目の回心を得て信仰復興運動を始め、1778年からはシティーロードに面したここを本部に定めてイギリス全土で伝道して、1791年にここで亡くなっている。 チャペルは、門を入ると大きなジョン・ウェスレーの銅像があり、400席ほどのチャペル、30席ほどのファンドリーチャペル、チャペルの地下には博物館があり、脇の建物に亡くなるまで住んだウェスレーハウス、裏庭に彼のお墓があった。 チャペルは、沢山のステンドグラスで飾られ、正面の3枚は、東方の3博士の幼児イエスの礼讃、復活のキリストによる弟子たちの全世界への派遣、ペンテコステのペトロの説教が、左の側面には、ジョン・ウェスレーの回心(チャールスと2人の友人と)があった。また、木製の説教台、中米アンティグアめのうで作られた石の洗礼台が配置され、背面2階のギャラリーには大きなパイプオルガンが置かれ、大伽藍ではないが上品で落ち着いた雰囲気があった。素朴なファンドリーチャペルは、ムーアフィールドにあった最初のチャペルで使用されていた椅子や小型のパイプオルガンなどの備品を持ち込まれている。小型のパイプオルガンは、弟のチャールス・ウェスレーが演奏し、沢山の賛美歌がこれで作曲された。ウェスレーハウスは、典型的なイギリスの中産階級の家で、地下に食堂があり、1階と2階に応接室、居間、小さな祈祷室、寝室があり、彼が使用したベッドやガウン等種々の遺品が展示されていた。 説明によれば、彼は、朝5時に起床して祈祷を捧げる生活を続けていたという。また、1年の内10ヶ月は伝道旅行に出ており、馬による移動のためかかなりひどい腰痛をかかえており、展示物に馬乗りに座って書き物ができる椅子や患部に電気ショックを与える機器があった。この年はウェスレー生誕300年の記念の年であったが、ここでは特別なイベントが無いようであった。最後にチャペルの裏庭にあるウェスレーのお墓にお参りして帰途についた。メソジスト派の教会に属する者として念願の一つを果たした思いであった。 |
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アイゼナッハへ・・・ 今年の1月に宗教音楽の宗研合唱団に勧誘され、このコーラスが8月にアイゼナッハとライプチッヒのヨハン・セバスチャン・バッハのゆかりの教会へ演奏旅行をすることを知り入会することにした。ところが、2月に初期の前立腺ガンの発症がわかったが、偶然、文字どおり神様が備えてくださったように、友人の中に有力な泌尿器科の医師がいて診察を受けた。診断の結果は、初期のガンであるが手術をしても8月の出発に間に合うことがわかり、5月20日になんの不安も無く手術を受けた。手術は成功して、1.5ヶ月後のマーカーであるPSAも0.06と低くなりガンの快復を示す結果を受けて、8月5日に妻敬子とともにドイツに向けて出発した。 私は、2000年のバッハの没後250年の年に両都市には出かけたが、ともに3時間位の滞在であった。今度は両地の滞在が3日間で、しかも、バッハゆかりの教会でのコンサートができるという喜びがあった。 |
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アイゼナッハは、マルティン・ルターが少年時代の1498年から3年間名門であった当地のラテン語学校に通学し、また、宗教改革を宣言して1521年にウォルムスの国会でドイツ皇帝から破門されたルターが、帰り道にザクセン候フリードリッヒ賢明公にアイゼナッハ郊外の山上にあるワルトブルグ城に1年間匿われて、新約聖書をギリシャ語からドイツ語に翻訳した。また、約150年後の1685年には、ヨハン・セバスチャン・バッハもここで生まれ、少年時代を過ごした。 到着後の8月6日には、アイゼナッハの街から眺望できる世界遺産の名城のワルトブルグ城を訪れた。城の起源は1150年ごろで、中世時代には吟遊詩人による歌合戦などの華やかな宮廷生活があった。小さいが古いドイツの城の佇まいを残し、ルターがいつも説教した小さな礼拝堂や、後にノイシュバンシュタイン城の見本となった大広間等がある。しかし、何といってもこの城は、ルターが逗留した1521年の歴史的な意味が大きい。ここでのルターの新約聖書の翻訳は、ドイツ人に自国語で聖書の言葉にふれる喜びを与え、プロテスタンティズムがここから出発した。また、数百の小国に分かれたドイツの標準語がチューリンゲン地方の言葉になり、聖書の綴りや文法がドイツ語の基本になり、後に、マックスウェバーが論ずる資本主義社会の成立のさきがけとなった。 Die Rutherstubeと呼ぶ貧しい小部屋には、彼が使った小さな机と椅子、暖炉とクラナッハが描いたルターの肖像画があり、ルターが幻想で悪魔に投げつけたというインクの跡も残っている。世界を一変させた出来事がこの部屋から始まったことに深い感慨を覚えた。 その後、ワルトブルグ城はその必要性を失い荒廃したが、ゲーテがその重要性を評価して博物館にすることを提唱し、後に整備された。ワーグナーもこの城を愛して、作品の 楽劇タンホイザーの歌合戦の舞台をこの城の「歌合戦の間」を想定して作っている。 宗研合唱団は、アイゼナッハのゲオルゲン教会で、8月8日の聖日礼拝と夕方の定期コンサートを担当することで招待された。ゲオルゲン教会は、1180年に創立されたこの地方の中心の教会で、バッハが生後2日目に洗礼を受け、ルターもバッハも少年聖歌隊で活躍している。礼拝では、我々が演奏するバッハの義父のヨハン・ミヒャエル・バッハ作曲の3曲のモテットをテーマにした音楽礼拝になった。ルター派の礼拝が体験でき、オルガンの奏楽も見事であった。4時からのコンサートでは、J・S・バッハの教会カンタータ2曲、モテット1曲と上記の3曲のモテットがプログラムであった。会堂後方2階のギャラリーで演奏したが、良い指揮者の指導で石造りの高い天井の会堂に響かせることがでていたので、演奏は好評であたたかい拍手を沢山いただいた。 |
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ライプチッヒへ・・・ ライプチッヒは、J・S・バッハが最後の26年間を過ごした都市である。バッハは、聖トーマス教会のカントールであるほか4箇所の教会に音楽を提供する契約を受けていたが、我々は、そのひとつの聖ニコライ教会でコンサートを行った。 聖ニコライ教会は1165年に創立されたライプチッヒでも有力な教会で、宗教改革後にルター派の教会になったが、バッハが音楽を担当していくつかの重要な曲がここで初演されている。また、この教会は、1989年の「東ドイツの開放」の象徴のような教会である。開放の10年前の1980年に、この教会で小さな平和のための祈祷会が始まったが、東ドイツが閉塞していて公に自由に討論の場が無いため、人権、雇用、環境などの課題を取り上げる団体がこの祈りの群れに参加して意見交換をするようになった。集会が教会的な形式をとる必要があったため、旧約聖書やマタイによる福音書の山上の垂訓のなかで時局を見ることになり、さまざまな課題を聖書的に考えるようになったようである。 1989年になると東側諸国が混乱して国外への出国の要請が求められようになり、聖ニコライ教会が全ての人に扉を開くと宣言したところ、東ドイツの各地から人々が多数集まった。危機感を持った政府は、聖ニコライ教会の封鎖し多数を監禁したところ、人々がますます教会に殺到するようになった。また、日頃から監視のため教会に入っていた政府関係者や秘密警察が、一方で皮肉にも唯物論者として全く興味を示さなかった聖書の自由と愛の思想に賛同を覚えるようになり、この運動の抑制の力が削がれていった。 運命の1989年10月9日に、約1,000人の政府要員がこの集団を鎮圧するために入ったがなんの対策も取れなかった。教会内では平和の祈りの後、教会とゲバントハウス交響楽団の指揮者クルト・マズーアが非暴力による開放への支持、教会と芸術、音楽と福音書についての連体を宣言して2,000人が教会を出たところ、数千人の群集が広場で待ち受けて一緒にろうそくをかかげて行進を始めた。この中では、軍隊、労働者や秘密警察員も取り込んで、勝者の賞賛も敗者の不面目ない形で開放が進んでいった。この事件の数週間後には東ドイツの党の独裁とその支配が崩壊した。その後もこの教会は、社会的な問題を提案し討論する受け皿になっているようであった。このような歴史的な役割を果たした教会で演奏できることには感慨深いものがあった。 コンサートは、8月10日午後5時から聖ニコライ教会の定期コンサートとしてゲオルゲン教会と同じプログラムで行われた。今回は会堂前方の講壇を舞台にして演奏した。教会が広く広告してあったので沢山の聴衆が得られ、演奏は教会の広い空間に響きわたり好評を得た。 |
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11日の午後5時からは、聖トーマス教会の前方祭壇にあるバッハの墓前でモテット2曲を演奏して墓にバラの花を手向けた。お墓参りのようなものであったが教会に訪れていた人々が沢山集まり聴いてくれた。今回、聖トーマス教会の礼拝に出席した席順が表示されたプレートをみつけたが、そのなかにアルベルト・シュバイツァー、カール・バルト、マーチン・ルーサー・キング牧師等の著名な人物が礼拝に出席したことがわかった。 ヨーロッパの教会では、どこでも頻繁にコンサートが行われるようで、教会音楽でもゴスペル、ジャズも含めいろいろなジャンルの音楽が取り上げているようである。 われわれ教会音楽を歌う者にとって聖トーマス教会は聖地巡礼であり、また、バッハのゆかりの3教会でバッハの曲を演奏することは永遠の夢を実現したものであるので、これが実現できた今回 の演奏旅行はたいへん愉快であり惠に満ちたものになった。 |
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