1997.4-6


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1997年 7月-9月へ メッセージへ ホームページへ

1997年 4月-6月 

◆6.29「生命の集中と前進」マルコ福音書1:35-39,コリントI 6:19-20
◆6.22「神の人」マルコ福音書1:21-34,コリントII 12:7b-10
◆6.15「わたしの道の光」詩編119:105,ヘブライ10:19-25
◆6.8「主の御心」ヤコブ書4:13-17
◆6.1「希望と祈り」列王記上19:11-12,ヤコブ書5:7-18

◆5.25「生きる価値」マタイ福音書7:7-12,ヤコブの手紙4:1-10
◆5.18「神の情熱」ヨエル書3:1-5,使徒言行録2:1-13
◆5.11「神と共に歩む信仰」ミカ書6:6-8,ヤコブ書2:14-26
◆5.4「自由をもたらす律法」マルコ福音書12:28-31,ヤコブ書2:I一13

◆4.27「切ること活かすこと」マタイ福音書18:6-9
◆4.20「キリスト者の試練」マタイ福音書4:1-11,ヤコブの手紙1:9-18
◆4.13「主を畏れる知恵」歳言1:7,ヤコブの手紙1:1-8
◆4.6「御言葉を行う人になりなさい」ヨハネ福音書21:15-23,ヤコブの手紙1:19-27

◆1月-3月

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◆1997.6.29 

「生命の集中と前進」マルコ福音書1:35-39,コリントI 16:19-20

               大宮溥

 ◇「タ方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆イエスのもとに連れて来た。……イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人をいやし、また多くの悪霊を追い出した」(32-34節)。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(35節)。

 ◇ここに主イエスの生活のリズムがえがき出されている。夜おそくまで人々を助けて忙しく働く姿と、朝早く人々かまだ寝静まっている時に、ひとりになって祈る姿。主イエスの動と静の姿が対称的にあらわれている。人問が本当に生き生きと力強く働くためには、深く静かに、魂の奥底深く下って、神の前に立つことが必要である。

 ◇「人里離れた」という言葉は「砂漠」「荒れ野」とも訳せる。これは出エジブトの際イスラエルの人々が40年の荒れ野の旅をした経験を思い起させる。そこで人々は物質的な豊かさをはぎ取られ,貧しい中で助け合い、命の源である神のみにより頼む生き方を学んだのである。約束の地に入ったイスラエル人が、豊かさに溺れ、貧しい者を搾取し、神を忘れて堕落した時、預言者たちは厳しく警告し,荒れ野に帰って出直すように呼ぴかけたのである。

 ◇日本人の海外伝道として覚えられている熱河伝道は「荒野の祈り」にもとづいていた。「荒野とは如何なる所か。それは元来「語る」という(ヘブライ語の)動詞から出ている。声の有る所という意味になろうか。それは如何なることか。荒野とは人無き所であると誰れもが考えるであろうのに。…一私はやがてその意味がわかった。それは神語る所、神の声の有る所という意味である」(沢崎堅造)。この「人里離れた所で祈り、神の声を聞く」、神との交わりへの集中が、主イエス以来今日に至るまで、われわれに活力を与えるのである。

 ◇このように、祈りにおいて深く神と交わっておられた主イエスのもとに、シモン・ペトロとその仲間が後を迫ってゆき、「みんなが捜しています」(37節)と告げた。ここには、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)と語られる、助け主を求める人間の願いが表わされている。その声を聞いた時主イエスは、「近くの町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する」(38節)と語って、これまでのカファルナウムから、更に外に出てガリラヤ全土に宣教を開始された。矢をつがえた弓をぐっと後に引けば引くはど、矢は勢いよく前に飛ぷ。静まって祈りに集中した力によって、前進する。

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◆1997.6.22 

「神の人」マルコ福音書1:21-34,コリントII 12:7b-10

               大宮溥

 ◇今日のマルコ福音害のテキストは、主イエスの働きについて語る最初の記事である。カファルナウムはガリラヤ湖の北東にある港町で、主イエスの働きの最初の舞台となった。当時の人々は安息日に会堂に集い、礼拝を守った。礼拝はシェマー(申命;己6:4の言葉)、祈り、聖書(律法と預言者)、適当な人がいれば律法の講解、祝福という形ですすめられた。主イエスはその礼拝において、神の御心を説かれたのである。

 ◇それはつつましやかな出発であった。小さな町の小さな会堂で、若い青年か一生懸命説教していたのである。ところが「人々はその教えに非常に驚いた」(22節)。その教えに「権威」があったからである。それは当時の教師が旧約聖書の解説に終っていたのに対して、神の御心を、生き生きとストレートに語ったからである。

 ◇その時この会堂に「汚れた霊に取りつかれた男」(23節)がいた。心が病んで、自分を自分の思いのままに動かすことができない人物であったと思われる。彼は主イエスの強烈な人格的迫力を受けた時、自分がつき崩されるような恐怖を覚えたのである。彼は必死で自分を守ろうとした。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」(24節)。これは「わたしとあなたと何の関係があるか」と、主イエスを自分の前から追い払おうとしたのである。それでも主イエスが自分の方に踏み込んで来られた時、この男は「お前の正体は分っている。神の聖者だ」と挑戦的になった。これは相手の人格の深部を握ることによって、相手を支配しようとする態度である。

 ◇それに対して主イエスは「黙れ。この人から出て行け」(25節)と命じられた。これは主イエスが悪霊に対して真正面から対決され、この人が神のものであり、神以外の何ものも、この人を占有し支配してはならないことを宣言されたのである。この人はけいれんを起す。彼の中で主イエスの力と悪霊の力がぷつかり、彼は身が引き裂かれるような痛みを経験したのである。しかし、ついに主イエスの力、神の力が彼を滅びの力から解放したのである。◇ここに主イエスの権威が示されている。主は「時は満ち、神の国は近づいた」(14節)と語られたが,それは単なる言葉に終らず、主御自身が来られるところに、神の力が圧倒的な力として臨み、人間を破壊する力を砕き、人間を解放するのである。

 ◇人間の存在そのものが、彼の戸る所を明るくもし暗くもする。キリストによって解放された人間が、そこに神の国を運ぷ。

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◆1997.6.15 

「わたしの道の光」詩編119:105,ヘブライ10:19-25

               大宮チヱ子

 ◇詩編119編は150の詩編中最も長い詩であり、神への深い信頼、御言葉への熱い思いと讃美を美しくうたいあげた詩編である。神の御心を示す律法、御言葉について10種類の言葉を用いて讃美を繰り返し、主の律法に歩み、主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人の幸いを語っている。御言葉に従うものは、全き道、正しい道を歩み、主の道を歩むことができるからであると。

 ◇105節は、道しるベ、人の歩みを導く光としての、御言葉への信仰告白である。この節を含むまとまりの終りの111節には、御言葉はこの詩人の嗣業、宝であり財産である、心の喜びであると書かれている。この詩人がいかに御言葉を重んじ、喜ぴ、尊んでいたかを知らされる。

 ◇ダビデは「感謝の歌」で、御言葉を語られる方御自身、神の光であり、ともし火であるとうたい、闇の中にあるものを照らして導いてくださる神を讃美している(サムエル記下22:29)。神が光である故に、「御言葉は、わたしの道の光わたしの歩みを照らす灯」(詩119:105)である。まことに、「神は光であり、神には闇が全くない」(ヨハネの手紙1,1:5)し、春は「世の光」であり、神に従う者は「暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)のである。

 ◇神はわたしたちを死と悲しみと苦しみの暗闇に放っておかれることなく、そこから助け出し、導き出してくださる方である。祈祷室にある「平安」を書かれた書家の姉妹は、御夫君をがんで天に送られ、御子息も度重なる手術をされた。「夫の死。息子の病。私の心はあたかも嵐の時のようです」と書いておられる。しかし「光を光と感ごるのは闇の中にいる時。一番どん底と思う時に出会う聖書のことば・・・・この光丈は決して消されることがない。命の光、私のイエス・キリストなのです」と、御言葉の励ましと導きに対する感謝をのべておられる。「御言葉は、わたしの道の光」である。

 ◇わたしたちが神に至り、神に導かれる道は、主イエスが、御自身の「血によって:∵御自身の肉を通って」備え、開いてくださった「新しい生きた道」、主御自身である(ヘブル1:19-20,ヨハネ14:16)。それ故?信頼し,真心から神に近づき、?ゆるがない希望をしっかり持ち続け、?互いに愛と善行に励み、?集会を怠らず、礼拝と祈りをたやすことなく、励まし合って共に歩むようにと奨められている。道の光を見矢うことなく、共に励みたい。

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◆1997.6.8 

「主の御心」ヤコブの手紙4:13-17

               大宮溥

 ◇今日は阿佐ケ谷教会の全家族礼拝です。教会は「天にましますわれらの父」としての神のもとで人間がみな家族として集められているところです。人間は皆神の家族であることがわかっていれば、この間神戸で小学生が殺されたような事件はなくなるはずです。生ける神様の前に老いも若きも共に出る礼拝を通して、神の家族の一員として育てていただきましょう。

 ◇今日の聖書には、ある人が商売をしてお金持になろうという計画に夢中になっていた時、神様がその人に、一番大切なことを忘れていないかと問われたことが書かれています。わたしたちが仕事をしたり勉強したりすることができるためには、それをするのに必要な「いのち」を神様からいただいていなければなりません。命は神様からわたしたちに与えられたブレゼントなのでず。わたしたちは毎日、今日も神様によって命をいただいたことを感謝し,それを神様が喜んで下さるように用いなくてはなりません。

 ◇この命をどう使うかについて、ヤコブは「主の御心であれは,生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言いなさいと教えています(15節)。わたしたちが、いろいろ計画を立てる時、自分がしたいことは何でもできると思ってはならないのです。「人の心には多くの計らいがある。(しかし)主の御旨のみが実現する」(歳言19:21)のです。

 ◇ある人が九州の島原で野生のランを持ち帰り、植木鉢に植えかえて、毎日水をやって花の咲くのを楽しみに待っていました。しかし一向に咲かないのです。その人は腹をたてて、鉢を投げつけて捨ててしまいました。ところが一年たってぷと気がつくとあのランが、鉢から根を伸して地中に根づき、立派なランの白い花をつけていました。その人の熱心さがランをいじけさせていたのが、自然の中に放っておかれて、適当な土と適当な水を与えられたので、美しく咲いたのです。

 ◇この人は、自分は自分の力で花を咲かせようと思っていたけれど、本当に花を咲かせるのは神様だということを知りました。そして、それからは、自分のやったことが成功した時にも、高慢にならず、それをやりとげさせて下さった神様に感謝する様になりました。その反対に、やってみたけれどできなかった時には、神様の御心ではなかったのだと思い、それにこだわるのでなく、心を転換して、そのことは神様にお委せし、新しく神様が与えて下さる課題に取り組んだのです。主の御心に従って歩もう。

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◆1997.6.1 

「希望と祈り」列王記上19:11-12,ヤコブ書5:7-18

               大宮溥

 ◇20世紀も残り少なくなってきた。「世紀末」という言葉はあまり使われないが、世の中が行き詰って出口が見えないという、焦りや不安が漂っている。ときわ木会の修養会でもヤコブ書の「試練と誘惑」についての教えが、切実に感じられた。若い世代にとっても、戦争のない時代が50年以上つづいて、平和を喜ぷ反面、社会の矛盾や人問関係のびずみなどが、清算されないまま、何か精神的閉塞状態を生んでいる。悩みや傷を負っている。

 ◇20世紀は革命の叫ぴで始った。しかし1世紀にわたる政治的思想的実験を経て、この世界は過去を破壊しただけでは新しいものが生まれるわけではないことを知った。過去の問題を皆がどのように担い、解決してゆくかが大切なのである。ここでヤコブの手紙が「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(7節)とすすめていることの意味が、改めて問われるのである。

 ◇「主が来られるとき」とは、神の国の来るときである。キリスト者は歴史の終りは人類の破滅ではなく、人類の救いの時、神の国の完成の時と信じ、希望をもって生きる。しかし、その終末までは、歴史は光と闇とがぶつかり、神の力と悪の力がしのぎをけずる戦いの時である。だからわれわれは、理不尽な悪の力に負かされたり、愛が憎しみの力に砕かれたりする、痛みや敗北を経験する。それに対する忍耐が求められるのである。

 ◇7節の「忍耐」はギリシャ語のマクロスミアで、11節の「忍耐」(ヒュポモネー、重荷の下で耐えること)とは違う。これは「広い心」を意味し、いろいろな攻撃によって打ち負かされたり、それにたまりかねて復警したりするのでなく、広い心でそれを受けとめ、むしろ相手を包み込む態度である。十字架上で主が人々の憎しみの刃に刺されながら、その人を受けとめて、彼らのために死なれたような生き方である。キリスト者はこの主の「忍耐」によって救われたことを知り、この主が「戸口に立っておられる」(9節)のを知る故に、忍耐の道を歩み、闇の中に光を運ぼうとする。

 ◇そのためには「互いに不平を言わぬ」(9節)こと、他者への責任転嫁を断ち、「苦しみの中で祈り、喜ぴを与えられる時に讃美する」(13節)道を歩むのである。忍耐する力は祈りによって与えられる。「主の御前に心を注ぎ出し」(サムエル上1:15)、エリヤのように主の力を受けて、立ち上るのである。また主の力による勝利を与えられる時、讃美しつつ、主の恵み深きことを証すのである。

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◆1997.5.25 

「生きる価値」マタイ福音書7:7-12,ヤコブの手紙4:1-10

               大宮溥

 ◇21世紀は高齢社会といわれ、日本では2025年ころには65才以上の高齢者が人口の25%になるといわれる。これは長寿を願う人類の夢が実現したことである。しかし、他面において、その生活の中味がどうかという「生の質」の問題が改めて間われている。

 ◇われわれの先輩は、人生の価値は、一人の人間の生きた時間を分母としその人が愛し愛された時間を分子として、その数値の高いほど、価値あるものだと言った。乙れは探い真理である。

 ◇聖書は愛について語るのに、人間同士の愛の関係を横軸に置き、それを支え生かす愛の縦軸として、神と人間との関係を示している。人間が生きるということは、神が生かして下さることである。それ故、どの人間生涯も、神の愛を注がれた一生であり、生きている時間と愛された時間とは等しい。しかし、それは神から見てのことであり、われわれの側ではそれを忘れ、神なく愛なく、冷たく暗い人生を過しているように思い込むのである。

 ◇今日の山上の説教の「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうずれぱ見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」(7:7)は、このようなわれわれに、神に向っての転換をすすめるものである。夏目漱石の『門』は、則天去私の境地を求めながら、解脱の道を歩み出すことができず、進退きわまって、門の前に立ちつくす人間のなげきを描いている。それに対して主イエスの教えは、自力の道をふみ出せない者に、呼ぴかけてくる、人格的な神を指し示すことによって、思い切って門を叩いて開けてもらうように励ましている。

 ◇これは元来祈りについてのすすめである。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる」(11節)という言葉はルカ福音書では「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11:13)となっている。祈りには、祈りの内容と祈る人と祈りの相手としての神という3要素がある。神は、われわれの祈りを聞いてくださると共に、「聖霊」つまり御自分を与えてくださる。この神御自身をいただいて、われわれは、新しい自分にされるのである。

 ◇ヤコブの手紙は、この神の愛を本気で受け、またこれに応えるようにすすめている(2~3節)。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(6節)。この句を愛したミレーは、目然に謙遜に学んで美を会得した。われわれは神の恵みを虚心に受けることによって祝福を得る。

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◆1997.5.18 

「神の情熱」ヨエル書3:1-5,使徒言行録2:1-13

               大宮溥

 ◇聖霊降臨日はキリスト教会の誕生の記念日である。キリストを天に送って孤児のような状態にあった弟子たちに、聖霊が下り、彼らは大きな喜ぴと力を与えられた。そしてイエス・キリストの福音を、広く地の果てに至るまで宣べ伝えようと立ち上がったのである。

 ◇五旬祭(ペンテコステ)は元来,過越祭から50日目で、ユダヤにおける小麦の収穫感謝祭であった。それが、イエス・キリストの生涯を通して与えられた救いの働らき、即ち霊的収穫を受ける日となったのである。キリストの働きの実は、第一に罪の赦しであり、第二に神と人とが隔てなく、一体とされることである。聖霊は、神と人間とを一つに結びつける、生ける力である。聖霊降臨日は、この聖霊が弟子たちに激しく注がれたのである。

 ◇聖霊は「激しい風が吹いて来るような」強さと、燃える「炎のような」熱とをもって弟子たちを動かした。旧約以来神の現臨は、風や炎としてあらわされた。ヨブは「嵐の中から」(ヨブ38:1)神の声を聞いたし、モーセは燃える柴の中から神に語りかけられた(出エジプト3:2)。

 ◇「風」は、神の自由な働きを示す(ヨハネ3:8)。聖霊は、人間の予測や予断を越えて働きかけ、人間を自由にする。それはキリストの死後、人々を恐れて閉じ寵っていた弟子たちを、勇気と力に満たして、この世に乗り出させたのである。また「火」は、愛の情熱を示す。パスカルの「覚え書き」には「火」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者の神にあらず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神・…”歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙」と記されている。あの回心の夜、彼の心に、神の情熱の火が燃えて、彼を喜ぴにあふれさせたのである。

 ◇このような自由と愛の聖霊は、元来イエス・キリストの内に宿り、働く力であった。しかし主イエスは、天に上られた後、これを弟子たちに与えられた。これによって、キリスト者は、地上においてキリストのように、神と共に生きることができるのである。キリストの時の後に教会の時が来たのである。◇この聖霊を受けた時、弟子たちは、「ほかの国の言葉」で、福音を語った。これは世界宣教の象徴である。それと共に初代教会の特徴であった「異言」を語る姿をも示している。異言は神の恵みと力に動かされて宗教的桃惚状態で語ることである。これは霊的解放である。聖霊は人間を神の力に満たし、一切の束縛より解放する。

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◆1997.5.11 

「神と共に歩む信仰」ミカ書6:6-8,ヤコブ書2:14-26

               大宮溥

 ◇聖霊降臨日前の日曜日は「聞きたまえ」Exaudiの主日と呼ばれている。主イエスが天にのぼり、父なる神の右に座してとりなして下さることによって、神と人間をつなぐパイプが完成した。弟子たちはそのパイプを通じて命の水である聖霊が注がれ、渇いた心をうるおして下さるように祈った。聖霊降臨日は、この祈りが聞かれて、神の命と愛があふれるばかりに注がれたのである。われわれもこの祈りをあらたにしよう。

 ◇今日のテキストであるヤコブ書のすすめは、われわれの信仰が観念的抽象的なものでなく、聖霊に満たされて、生き生きとした、命と愛に溢れ出るものであるようにうながすものである。ここでは「行いを伴わない信仰」が「死んだもの」だと批判されている。「信仰」と「行い」が分離するのは「魂と肉体」が分離するのと同様、死んだものというのである(26節)。

 ◇このような分離が何故起るのであろうか。それは信仰が単なる思想や観念になっていて、神との生きた交わりになっていないからである。ヨブが幸福の絶頂から不幸のどん底に突き落された時、友人たちがやってきて因果応報の理論を説いたが、それはヨブを慰めも支えもしなかった。彼か納得したのは、神が嵐の中に現われ、直接ヨブに出会われた時である。「あなたのことを耳にしておりました。しかし今この目であなたを仰ぎ見ます」(ヨブ42:5)。イエス・キリストの出現は、ヨブの問に対する更に真実な答である。人間の苦難を自ら担って十字架につかれたからである。

 ◇信仰とはこの生ける神との出会いである。そこから信仰は生活全体で神に応えるものとなる。それは神と人とを具体的に愛することである(15-17節)。教会は「キリストのいます所に存在する」が、それは「二人または三人がわたし(キリスト)の名によって集まるところ」(礼拝の場)であると共に、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人(貧しい者)」のいる所(マタイ18:20と25:40)である。

 ◇ヤコブの「行いによる義認」は、パウロの「信仰による義認」と対立するように理解されてきた。しかしパウロほ信仰成立の根拠としての、キリストの無償の恩恵(それをただ受ける信仰)を強調したのであり、ヤコブは、この恩恵に対して全身全霊をもって応答する信仰を訴えたのである。アブラハムは、年老いて後に子を与えられるという、自分の側では不可能なことを、神の約束故に信じた(ローマ書4章)。それ故彼はその子を献げるほどに、捨て身の信仰を生きたのである(21節)。

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◆1997.5.4 

「自由をもたらす律法」マルコ福音書12:28-31,ヤコブ書2:I一13

               大宮溥

 ◇今週の木曜日は、主イエスが父の御もとに上られた「昇天日」である。この日を前にして今日の日曜日は「いのれregate」の主日である(詩編66:20から)。主イエスを天に送った弟子たちがエルサレムの二階の部屋で心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)時、聖霊が下って、彼らを主の復活の証人として立ち上らせた。われわれも聖霊の灯をともされて歩めるように、祈りをあつくしよう。

 ◇今朝の御言葉は、キリスト者は「人を分け隔てることのない」、差別を砕く人として生きるようにすすめている。今日いろいろの分野で差別の問題が指摘され、その克服が求められている。人種差別、民族差別、被差別部落問題、性差別等である。このような差別の原因は、人間の心の中に憎しみと怒りがあふれており、それが自分と違った人に対する攻撃やいじめとなってぷっつけられるからである。憎しみは愛が傷つけられ変質したものである。

 ◇これに対して「兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)とすすめられる。「栄光のキリスト」は「卑賤のキリスト」「ヘり下りのキリスト」と対照的に使われる。地上で貧しさを担い、十字架について死なれたキリストに対して、死に勝利して、父なる神の右に座しておられるキリストである。罪人の憎しみの刃に刺されながら、それを愛し、赦したキリストである。このキリストの赦しと命を受ける時、われわれは憎しみから解放されて、愛に生きるものとされる。この愛が差別を克服する力である。

 ◇ヤコブは主イエスが律法の核とされた「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を「最も尊い律法」(王的律法)として掲げている(8節)。これはまた「自由をもたらす律法」(12節)である。律法はわれわれを神のもとへつれて行く。神はそこでわれわれをキリストの十字架の故に赦し、われわれは何ものも「イエス・キリストにおける神の愛」からわれわれを引き離すものがないことを知らされる。自由を与えられるのである。⊂の愛がわれわれに、われわれも愛に生きようと命じるのである。

 ◇「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」(13節)「仲間を赦さない家来のたとえ」(マタイ18章)が示す通りである。しかし「憐れみは裁きに打ち勝つのです」。あのたとえを越えて、裁かれるべきわれわれを主イエスは、御自分の犠牲において赦しつづけられる。この愛こそ、われわれの愛の原動力である。

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 ◆1997.4.27 

「切ること活かすこと」マタイ福音書18:6-9

               谷昌恒先生

 ◇私はこの春まで北海道家庭学校という児童養護施設の校長をしていました。ここでは「家庭の愛と学校の知恵を」という理念のもと、夫婦の職員を中心に70名余りの子供たちが共同生活をしています。現代は何故と問うことを許さない時代ですが、家庭学校は子供の発する何故という問いと正面から向かい合う教育を目指しています。

 ◇ここに一人の女子高生の作文があります。「父さんも母さんも死んでしまえばいい。」という激しい言葉で始まります。この子の両親は耳と言葉に障害をもった方で、その中で育った彼女も言葉の発達が遅れ、随分辛い経験をしました。それが積み重なって次第に両親を恨むようになり、先の言葉には彼女の怒りが込められています。その彼女の心を変えたのは「自分は耳が不自由で人々から助けてもらっている。ゆかりは私の代わりに皆の役に立って恩返ししておくれ」という母親の言葉だったそうです。この子は今、看護婦を目指して勉強しています。彼女はここまで12年かかりました。しかし大切な点は最後に豹変したのではなく、最初から「大嫌い」の裏に「大好き」の気持ちが隠れていたということです。子供ぴとりひとりの心の深みに触れる、忍耐強い教育が求められています。

 ◇教育とは現代社会の最大の関心事です。国も親も子供の成長のためには努力を措しみません。良い環境さえ与えれば子供は育つと信じています。しかしそれは本当でしょうか。私は教育にはどんな悪い環境に置かれても、負けない子供を育てる責任があると考えています。夏の帰省中に学園生が警察に補導されたことがありました。事情を聞くと彼の家庭はとても貧しく、目の悪い妹のために一台のラジオが欲しくて、思わず万引きしてしまったと言いました。私もその状況はわかるのですが、しかしそれでも正しく生きることを教えなければならないのです。

 ◇イエス様はマタイ福音書6節以下で、自分の悪い部分を切り捨てても、命にあずかりなさいと勧めています。また「つまずかせる者」即ち悪い環境を作り出す者は海に沈めてしまえとさえ言います。それは悪を除こうとする激しい言葉です。しかしそれでもこの世界につまずきは残ると言うのです。ここにはイエス様の現実に対する正確なものの見方があります。この残されたつまずきに対して子供をどう育てるのか。私は子供と共に生き、本当の姿に触れることをとおして、その課題と取り組みたいと考えています。

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◆1997.4.20 

「キリスト者の試練」マタイ福音書4:1-11,ヤコブの手紙1:9-18

               大宮溥

 ◇復活節第四主日は「よろこぴの叫び」の主日Jubi Lateである。「全地よ、神に向って喜ぴの叫ぴをあげよ」(詩編66:1)から取られた名称である。先日間いたメシアンの「キリストの復活」のオルガン曲のように、陰府と墓を踏み砕き、地響きをたてて進まれる主を迎えて、よろこぴの叫びをあげて生きようではないか。

 ◇今朝の御言葉は「よろこびの叫ぴ」とは反対の、人生の諸行無常を告げる嘆きの歌のように聞こえる。「草は枯れ、花は散る」(11節)。しかしここで問題になっているのは「生(生活)の質」(Quality ofLife)である。今日高齢社会を迎えて、人の命は長くなったけれど、それが果して意味のある人生かが問われている。一般に「貧しい人」と「富んでいる人」は、人生の失敗者と成功者、影の谷間と光の峰に立つ者と考えられている。しかし共に「喜びなさい」(「誇りに思う」は「喜ぷ」という意味)とすすめられている。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(コリント?8:9)。これを知る時、貧しい時にも主が共にいますことを知り、富める時にもそれを分ち合う生活へと導かれるのである。

 ◇人間の「生の質」は、貧富という生活の状態によって決定されるのでなく、人生の試練と誘惑と如何に戦い、いかに克服するかにかかっている。人生に試練と誘惑があるのは、人間が自由な存在として造られたからである。しかし目由には責任がともなう。人間は世界の管理者として立てられている。それを神を神とし、創造者の恵みと真実にそって、果してゆかなければならない。ところが人問は自分を神とし、恵みをあたりまえと考え、欲にびかれて道を誤るのである。

 ◇人間がこのような試練と誘惑に屈して堕落した時、大切なことは、悔い改めて正道に立ち帰ることである。ところが人間は誤ちの原因を他人のせいにして、責任逃れをする。その終極は、最終的責任は神にあると考える不信仰となる。ヤコプ書はこの責任転嫁の論理を断ち切り、人間の責任と罪をつきつけ、悔い改めを迫るのである。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(l5節)。

 ◇更にヤコブは、弁明の余地のない人間に、裁きでなく再生の道を示す。それは主イエスがこの試練の世に来られて、それを克服されただけでなく、罪人のために十字架の贖いをなしとげ「真理の言葉によって・わたしたちを生んでくださった」(18節)からである。新しい命の道を築きたい。

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◆1997.4.13 
「主を畏れる知恵」歳言1:7,ヤコブの手紙1:1-8

                 大宮溥

 ◇復活節第三主日は「主の慈しみ」Mi‐sercordia Dominiの主日である。「地は主の慈しみに満ちている」(詩33:5)から取られた名称である。春の太陽が大地に注がれると草木芽生え花開くように、主の慈しみを注がれて命萌え、喜ぴ湧く歩みを進めたいものである。

 ◇ヤコブ書はその冒頭に、その宛先として「離散している十二部族の人たち」と呼びかけている。天国の民としてこの世界に派遣され、神を知らない多くの人々の間で生きている、キリスト者のことである。キリスト者は少数者であっても、多くの隣人に神の恵みと真実を運ぷ使命を与えられているのである。

 ◇2節から始まる本論において、ヤコブは「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜ぴと思いなさい」とすすめている。原文では先頭に「この上ない喜ぴ」が出ている。キリスト者の生活が喜ぴの生活であることが、先ず思い起されているのである。パウロも「いつも喜んでいなさい。絶えず折りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケI5:16-18)と勧めている。キリスト者の喜ぴは、イエス・キリストを知り、その救いを与えられた者の喜びである。復活の主が閉さした家に籠っていた弟子たちの真中に来られ「平和があるように」と言われた時、「弟子たちは主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)。この主が「わたしは世の終りまで、いつもあなたかたと共にいる」(マタイ28:20)故に、われわれは「いつも喜ぷ」のである。

 ◇従ってこの喜びは、人生の順調な時だけでなく、逆境にあっても消えることはない。それ故ヤコブは「いろいろな試練に出会うとき」にも喜べというのであるcそれは「練達」「忍耐」という道を通って「完全」ヘと導かれるからである(3-4節)。「難難なんじを玉にす」るのである。

 ◇このヤコブ書の教えは、道徳主義的に解釈してはならない。特にわれわれ福音主義(ブロテスタント)キリスト教は、マルテイン・ルターが「完全の道」を求めて苦闘し、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しの恵みを発見した「信仰義認」の信仰に立つのである。しかし、それは神の恵みに甘えて怠堕な生活に安住するのでなく、キリストの恵みにふさわしい生活の内実を作り出すために、恵みに応えて努力する生活へとつき動かされるのである。それ故ヤコブは「いささかも疑わず信仰をもって願う」真剣な祈りをすすめている。祈りつつ主と一体となって「完全」ヘ進むのである。

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◆1997.4.6 
「御言葉を行う人になりなさい」ヨハネ福音書21:15-23,ヤコブの手紙1:19-27

                 大宮溥

 

 ◇復活節第二主日は「新生の主日」(ペトロ12:2)である。キリストの命を受けて「生まれたばかりの乳飲み子のように」成長の歩みを進めよう。

 ◇今年度の教会標語は「御言葉を行う人になりなさい」である。今日われわれは、「この世のつとめいとせわしく、人の声のみしげき時」(讃美歌313)を過ごし,また自分の欲と主張を語るに急で、様々な方法で語りかけている、神の言葉が聞こえていない。それ故「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(18節)とすすめられるのである。

 ◇神は自然や日常生活を通じて語りかけられる。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19:2)。だからそれに気付く時「ああ、私の周囲には、こうした神の栄光が満ちみちていたのだ。小鳥,木立、草場、青空一一それだのに、私一人は汚辱の中に住んで、すべての物を汚していたのだ」(ドストエフスキー)と、自分の本来の道へ帰って来ることができる。しかし「神の言葉」として第一に聞くべきは、主イエスとその救いの働きである。十字架と復活の主は「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13:8)として、われわれに語りかけられる。

 ◇この御言葉に対して、それを「行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22節)。この事は山上の説教の末尾にも、主イエスの言葉を「間いて行う者」は岩の上に家を建てた賢い人、「闇くだけで行わない者」は砂の上に家を建てた愚かな人にたとえられている(マタイ7:24-27)。

 ◇「御言葉を行う人」になるためには「すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言葉を、すなおに受け入れる」(21節、口語訳)ことが求められる。キリストの愛を受け、愛に生きる道を歩むよう促されているのに、それが偽善的に思われて、偽悪の道を歩む時、それが人をも自分をも殺してしまう、死の世界であることを経験したことかある。自分の罪でなく、キリストの恵みと真実に身を委ね、その力につき動かされて歩まなければならない。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ」(25節)、それに答えて生きるのである。

 ◇ペトロは主イエスから「わたしを愛しているか」(ヨハネ21:15、1017)と3度訊ねられ、自分の3度の裏切りを思い起さざるを得なかった。しかしそれを赦される主に触れて、改めて主の愛に生きる道をぷみ出した。これかキリスト者の道である。

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